[小説]青と黒のチーズイーター 4章 虎口を脱して、虎口に戻る 3話 力がすべてじゃないけれど

3話 力がすべてじゃないけれど

「……いく。ハシゴ、やってみる」
「よっしゃ。まず、あたしが先にいくよって」
 ルシアがやる気を起こした機を逃さないよう、クドーはことを進める。
「向こう側にいったら、ハシゴを押さえて待ってるから」
 ハシゴに足をおいた。
 屋上から屋上へのニンジャごっこは、子どもの頃の肝試しで経験ずみだ。警官になってからも、必要にかられて何度か渡し板の上を歩いた。
 けれど、ハシゴは未経験だった。明かりが乏しく、地上がよく見えないとはいえ、足の下がスカスカで丸見え——昏い奈落がひろがっているよう——というのは、さすがに怖い。
 度胸試しな逃走路を用意した相方に、悪口雑言を浴びせて悪態ついてやりたいが、ほかに方法がなかったともいえる。代案を出せといわれても答えられない。
 クドーはハシゴへと足を踏み出した。
 リウのアホウ! 運動神経以外は無神経、むっつり、なんでそんなにタテに成長してるんや、などなど。八つ当たりで思考を散らし、恐怖心をごまかす。
 身体のバランスが微妙な気がするのは、背中のバインダーファイルで不安定になっているせいか。それでも、捨てるという選択肢はなかった。
 隣のビルまでのわずかな距離が、やたら遠くに感じる。
 暑いのに、手足の先が冷たい。
 ハシゴが僅かにたわむ。それだけなのに地面まで吸い込まれそうな気がする。
 風は弱まっているのに、身体がもてあそばれそうになる。
 あと、一歩……
 渡りきった。
「いけた! ルシアやったら、もっと簡単——」
 家の中から発砲音。フラッシュのような光が窓からはじけた。
 殺傷武器の存在が、ルシアに緊張を呼び戻した。立ち上がったまま硬直し、動こうとしない。クドーは、やるべきことに注意を向けさせようとした。
「ルシアがつかまったら、ダニエラさんも危のうなる。ダニエラさんが情報提供者になったんは、これから先のことを考えたからやないの⁉︎」
「ダニーが……」
「そうや!<モレリア・カルテル>から抜けるのは大変なはずやで。それでも行動をおこしたんは? ルシアの安全に気を配ってくれてるんは? ルシアはダニエラさんに、どんな答えを見せるん? そこでそのまま、じっとしてるだけなん⁉︎」
 ルシアの足がハシゴにかかった。
 慎重に足をおく。足の裏でハシゴを確かめるように。
 歩み始めればすぐだった。宙を歩いたルシアの足が、隣のビルのコンクリートを踏んだ。
 ひとまずの安堵で、張り詰めて硬くなっていた身体がとける。そのまま膝を折った。両手をつき、荒い呼吸をくりかえした。
「ごめん……息をととのえる間、ちょっとだけ……」
「うん。あたしはこれからの用意しとくから」
 クドーはハシゴをはずすと、塔屋の陰まで運んだ。階下へのドアを確かめる。鍵をかけているビルもある。
 応援を呼びたかった。
 家に侵入したのは、フレデリーコのほかに二人いた。相手が三人の不利でも、ルシアを逃すための引きつけ役をリウなら投げ出さない。
 応援を得られれば、リウの安全とルシアの保護、どちらも可能になるのだが——。
 塔屋のドアは、すんなり開いた。いい兆しだと思うことにする。
「もう大丈夫。フルマラソンでもいけるよ」
 落ち着きを取り戻したルシアがそばにきた。
「まずは下におりよ。あたしが先にいく。なんかあったら、すぐおしえてな?」
 ルシアは冷静を装っているだけだろうとクドーは思う。
 フレデリーコの姿に、ずいぶん怯えていた。姿を見れば、追いつかれるかもしれないことを想像してしまう。不安にならないはずはなかった。
 階段をおりながら、こういう場面での力不足を強く自覚した。アカデミーでの及第点は、現場での完璧を保証するものではない。
 このまま逃げ切れるか?
 ほかに打っておける手が何か……
 二階と三階の踊り場にさしかかったとき、クドーは足を止めた。


 クドーに続いて、ルシアは黙々と階段をおりた。
 フレデリーコを見つけたときの動揺は落ち着いたものの、近くまで迫られているかと思うと怖くてたまらない。
 どうにか平静を保っているのは、前を歩く小さな背中があるからだった。
 会った最初は疑った。味方である確信が強くなってきても、やはり警官としてのクドーは不安だった。こんなに小柄で、ほかの人間を護れるのかと。
 それがいま、リードをまかせて……と、思った矢先。
 いきなり立ち止まったクドーに、ぶつかりそうになった。
「どうしたの?」
 小声で訊きながら周囲をみまわした。何かあるのか?
 特にこれといってない。部屋の中から人の気配がするものの、廊下や階段を利用する者はいなかった。無人の階段で立ち止まった意味がわからない。
 不意にクドーが振り返った。
「ルシア、脱いで」
「……は?」
 言われた言葉を理解するのに、たっぷり四秒かかった。


 
 一階までおりると裏口に走ったが、南京錠で固定されていた。
 正面から出るしかない。
 クドーは、バインダーファイルを入れたフロシキ・リュックの位置をなおす。後ろにルシアにつけ、ビルから出る表出口の手前で、用心深く外をうかがった。
 屋台がある通りから少し離れているせいで、人通りはほとんどない。足を踏み出しかけたが、すぐに引っ込めた。
 入り口の陰に身を潜め、走ってきた靴音をやりすごす。
 足音が遠ざかってから顔を出した。再び通りを確認。サマーニットのシルエットを気にしているルシアに声をかけ、外に踏み出す。
 遠くにばかり目をやっていたせいだ。入り口横にあった、塗装がはげた一本脚のテーブルにうっかりぶつかりかけた。天板には回収にくる修理業者へのメモ。
 ルシアには苦笑いでごまかして、公衆電話をめざす。
 まずはリリエンタールと連絡をとりたかった。顔見知りの店から電話を借りることができれば早いのだが、この周辺の店の閉店時刻はすでに過ぎていた。
 公衆電話まであと十メートルというところで、ルシアを自販機のかげで待たせた。
 防犯上の理由もあって自動販売機はあまり普及していない。このついでに、水分補給を……と思ったが、褐色の炭酸ドリンクや甘いジュースばかりで選ぶ余地がなかった。
 深夜でなければ屋台やドリンクスタンドで、ジュースからお茶まで安く買えるし、公共機関なら飲水機ウォーターサーバーがあるのだが。
 唯一の甘くない飲み物、ウーロン茶缶をチョイス。ルシアに手渡した。
 公衆電話にはクドーひとりで向かったが、受話器をとる前からあきらめた。
 壊れていた。小銭を失敬するやからが、荒っぽい方法を使うせいだ。人が少ない通りの公衆電話では少なくなかった。
「じゃあ、ほかの電話さがす?」
 引き返してきたクドーにルシアが訊いた。
「いや、こっちから、じかに行こ」
 もう一本買ったウーロン茶缶を傾けて答えた。
 千年町か玉屋町あたりが騒がしいとリウが言っていた。イベントでも事件事故でも、人が集まるのなら警官も出てくる。コンタクトしやすい。
「このへんは公衆電話もあんまりない……!」
 視界にすみに入った違和感に、缶を傾ける手も言葉もとまった。
 きな臭さをまとった男が路地から出てきた。こちらに向かってくる。
 スタイルがいいルシアの容姿は目立つ。フレデリーコの仲間でなくても、ちょっかいをかけられて余計な時間をとられたくなかった。
「目を合わせんように歩いて」
 クドーは、路地から出てきた男に気を取られすぎた。
「手間をとらせるな」
 背後をとられていた。声の男に振り返ったクドーは、反射的に身構えた。
 長身のリウより、さらにでかい。横幅なら1,4倍はある。
 サイドを極端に短くし、トップにボリュームをもたせたスリックバックヘアオールバックの男が、威圧的に見おろしていた。
「乱暴に扱うなと言われてるが、逆らったら容赦はしない」
 ルシアに向けられている視線に、クドーは不意打ちを狙う。手に持っていたウーロン茶缶を残っている中身もろとも男の目元めがけて投げつけた。
「ルシア、逃げ——!」
 最後まで言うことすらできなかった。


 ダニエラは、目印にしていたタカハシ診療所をやっと見つけた。
 会長の部下に案内されて来たときは昼間だったうえ、小さな看板を暗がりで見落としていた。
 ルシアの無事を早く確かめたくて気が急く。目当ての<昭和ナムグン南宮ビル>を探し、建物の外観に注意をはらっていたせいで、前方の注意がお留守になる。道端のテーブルに衝突しかけた。
「なんでこんなとこに粗大ゴミおいてるの!」
 一本脚のテーブルを忌々しげに蹴りつけ、駆け出した。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?