[小説]青と黒のチーズイーター 8章 パートナー 2話 ダンサー・ダウン
2話 ダンサー・ダウン
ダニエラがミナミで活動するようになって、およそ十年ぐらいになる。
ミナミにきた当初、隣同士で融けあっているかのような建物に面食らった。
低層の建物の上部に、隣の上階がかぶさるように迫り出していたり、階ごとに食い込みあっていたり、その他いろいろ。
ミナミにおいてビルとは、直方体で独立した建物のことではなかった。
外観だけではない。建物の内部にいたっても、住んでいる住民が利便性を求めて、廊下を〝延長〟させていた。
渡り廊下だけをあとから〝増築〟して、隣のビルとつないでしまうのだ。エレベーターのない住民は、これで水平移動を可能にしたり、隣ビルのエレベーターを使って上下移動しているのだという。
ミナミはこうして動線を迷路にする建物をあちこちにつくりだし、複雑な空間が増殖している。
ここをダニエラは、スガから逃れる突破口にしようとした。
そして、初めての山道を地図もコンパスもなしに歩くのに等しいことに気づく。
ダニエラはビルの中を先導して走った。ルシアが取り返したバインダーファイルを代わって持ち、狭い階段を駆け上がる。
すぐ後ろにいるルシアの荒い呼吸音に気を配りながら、階につくたびに廊下に視線をはしらせる。新しい逃走路を見つけ出そうとした。
このまま階段を上がっているだけでは、やがて屋上で追い詰められる。
屋上から屋上に移動している住民がいたが、この建物にも渡し板が置いてあるとは限らない。
だいいち、ルシアは高いところが苦手だ。隣の建物との距離が近かったとしても、飛び移らせるようなまねはもちろん、渡し板も歩かせたくもなかった。
増築で延長させた廊下、非常階段、どれも見つからなかったら……
ダニエラの足が止まった。
唐突に止まった背中にルシアがぶつかる。
「どうしたの、急に——」
ダニエラにならんだルシアが瞳を大きく見開いた。
「行き止まり……⁉︎」
階段がなくなっていた。
かなりの階層を上がった気がする。もう最上階まできていたのか? 屋上のない建物だったのか?
下層の階段から、荒々しい足音が響いてくる。
スガだ。
続けて、希望につながる声が届いた。
「ルシア、六階の廊下の端まで走って! 屋上にいける!」
「マリア⁉︎ たすけて、殺される!」
「させへん! とにかく走って!」
「錯乱してるのか⁉︎ わたしだ、スガだ! 邪魔するなら仲間でも容赦しないぞ⁉︎」
屋上に出ても、そこから先の移動は難しい。揉み合っているクドーに加勢すべきか……
迷ったのは瞬刻だった。
ダニエラは、ルシアの手をとって廊下を走り出した。
ルシアがいるかもしれない推測と希望をかけて入ったビルで、慌ただしい複数の足音が聞こえた。階段室の上のほうからだ。
クドーは、猛然と階段を駆けあがった。
毎日の徒歩警らで、被疑者との追いかけっこで、いじめ抜いた足腰が二段飛ばしを容易にする。
スガの背中をとらえた。この先にルシアとダニエラがいる。
「スガ警部補!」
「折場が逃げた! 確保しろ!」
しかし、クドーは、
「ルシア、六階の廊下の端まで走って! 屋上にいける!」
スガの脚にタックルした。
この場の状況だけ見ても、スガの行動は不可解だった。
保護を求めていたダニエラが逃げ出した理由は? 丸腰なはずのふたりをハンドガンを抜いて追いかけているのは?
スガへの疑いが強くなるばかりで、警部補の命令そのままに従うことはできない。スガをとめようと、階段上でもつれあった。
「錯乱してるのか⁉︎ 邪魔するなら仲間でも容赦しないぞ⁉︎」
応えを言う間もあたえず右手が振り上がった。ハンドガンのグリップ底で殴りつけてきた。
避けようと腕を離したところで、スガが足をくりだす。
腹を蹴押され、階段上に投げ出された。
クドーはとっさに頭を両腕でカバーした。身体を丸め、最小限のダメージで転がる。
踊り場でとまった。身体の節々が痛いが、頭はかろうじて守れた。
同僚を蹴落としたスガが、ふたたびダニエラたちを追いかける。憤りより悲しい気分がからみつき、立ち上がろうとする身体が重く感じる。
ダメージを抑え込んで、クドーは追いかけた。
背後から聞こえるルシアの足音を確かめながら、ダニエラは廊下を走った。
無人のビルではなさそうだが、人影は見えなかった。
階段室からの怒声は聞こえたはずだが、聞こえなかったふりをしているのか、反応がない。ケンカ騒ぎは日常茶飯のミナミだから、気にしていないこともあり得た。
偶然か、ひとりドアを開けた者がいた。が、ただならないこちらの様相を見るなり、すぐさま部屋に引っ込んでくれた。
ミナミの住民らしい反応がたすかる。足を緩めることなく廊下の端まできた。
「あった!」
上に続く階段を見つけた。
階段が垂直方向に、ひとつの「室」となっていなかったのだ。クドーはこのことを知っていたのか。
進む方向はひとつ。アイコンタクトでうなずいたルシアとともに、再び階段を駆け上がった。
右脇にバインダーを抱えている。左肩で押し破るようにしてドアを開けた。
軋んだ音をたてて、スチールドアが開いた。
湿度で重い風が流れるなかに飛び出す。
夜半の屋上で涼んでいる、住民らしき四人がいた。それぞれバラバラな椅子にすわり、思い思いの飲み物を手に談笑していた。
その顔が一転して、不審でいっぱいになる。
そして視線がダニエラを通り越した背後にいくや、クモの子を散らすように逃げ出した。飲み物はしっかり持ったまま、屋上の縁まで走って距離をとる。
そこまでだった。隣の建物に移るための渡し板はなく、逃げ場はない。パラペットを背にした住民たちは、屋上にやってきた三人目に視線を戻した。
幅の広い渡し板があったとしても、飲んでいたものが酒なら危なっかしくて渡れない——というより、闖入者たちがこれから起こすことへの興味がまさっているようだった。不安や恐れの表情以上に、好奇心で目が輝いている。
その視線のなかで、ダニエラとルシアは追跡者と対峙した。互いに荒い呼吸のまま、視線がぶつかりあった。
ダニエラはあきらない。ルシアだけでも逃したい。視界の端で、逃げ道や対抗できそうな武器を探す。
周囲にあるのは、物干しロープに下がったままの洗濯物と、なぜか干し肉。拾い集めてきたらしい、デザインがばらばらの椅子が数脚に、古いビーチパラソルや、小さな棚に並んだ鉢植え……。
身を隠せるものすらなかった。
「警察だ、全員そのまま動くな! 折場は腹這いになれ!」
第三者の目がある。スガは左手でポリスバッチを挙げ、自分の立場をアピールした。
銃を持っている正当性を住民に主張する。同時に、正義のヒーロをきどって手を出してくるなの牽制でもあった。
「警告だけだと思うな。早くしろ、折場!」
ダニエラ折場が、じれったくなるほどゆっくり動く。膝を折るのは従う素振りを見せているだけだとしても、さすがに撃てなかった。
スガは、じりじりと距離を詰めた。抵抗されたときに備え、拳銃弾をはずさない七メートル以下に入りたい。
バインダーファイルの検分途中で、ダニエラ折場から反撃を受けた。
逃げ出せる貴重なチャンスだというのに、高城ルシアはバインダーを取り戻すことをあきらめなかった。
本人が言ったとおり、この上なく大事なものだとしても、命懸けで奪い返すほどのものなのか? 証拠品に関するものを隠していると考える方が自然だった。
手間取ったが、やっと決着がつく。
人間にむけて撃つのは初めてではなかった。
それでもスガの首や額に、緊張からくる冷たい汗が流れる。経験をつんでも、精神性発汗がなくなることはない。
じりじりと距離をつめる。バインダーファイルはすぐそこだ。
地上の賑わいが、はるか遠くにあるように聞こえた。屋上だけが異世界のように静寂に包まれている。
唐突に、硬い音が響いた。
住民のひとりが落としたジュース瓶がコンクリートを叩く。皆の視線が集中する。
ただひとり、スガだけが違った。
全員の視線がダニエラからはずれたタイミングが好機だった。
「銃だ、皆んな、ふせろ!」
突然の物音で、反射的に反応してしまった。
スガから一瞬でも目を離したミスをダニエラは歯噛みする。
武器など持っていないダニエラを相手に、発砲が許される正当な理由がない。だから、スガは撃てずにいた。そこに誰かが、射殺できるシチュエーションを与えてしまった。
誰も見ていなければ、武器を取り出そうとしたというスガ警部補の主張が通る。
音に反応したロスで、銃口をさけるダニエラの動きが出遅れた。
トリガーを絞る人差し指のわずかな動きが、ダニエラの目にはスローモーションではっきりと見えた。
威嚇でも、手足を撃って動きを封じるのでもない。
当てるのが難しい頭部ではなく、確実性をねらって胸部に照準されている。
こんなやつに殺されるのか——。
わかっているのに、身体は緩慢にしか動かなかった。水の中でもがくようなもどかしさのなか、金属的な破裂音が、湿った重い空気に伝わるのを聞いた。
屋上にいる人間すべての視線が、ダニエラに集まる。
発砲音のあと。
ダニエラは立っていた。撃たれてはいない。
かわって、自分が撃たれるよりも衝撃的な光景を見る。目に飛び込んできた現実を理解するのに、しばしの時間がかかった。
視界が、身体をくの字にして倒れていくルシアでいっぱいになった。
大切に抱えていたバインダーファイルが、ダニエラの腕からすべり落ちる。
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