[連載小説]アイス・スチール;チョコミント 終章(前) 身体は正直
(前) 身体は正直
<美園マンション>とその周辺では、怪しい話に事欠かない。
かつては刑場や焼場を併置した墓所であり、記録には残っていないが、毎年数百人以上が処刑されていたといわれている。獄門台には罪人の首が並べられ、幕末に活動した浪士隊局長の首もこの地で晒された。
そういった諸々の怨念がこの地に残り、生者を引っ張り込もうとしているのだとか。
ただ<美園マンション>に関していえば、真実が怪談というフィクションにされたところもあった。
たしかに転落事故はある。建物の高さを利用して、命に終止符を打とうとする者もいた。
そういった者たちの死体が、地上に残ることなく消えた……なんてことはない。
窓の外に出っ張った室外機や、壁にのたうつ太い配管にぶつかって、落下の勢いが削がれ、地面に直撃せずにすんだ。あるいは、テナントから出た大量の段ボールやゴミが救助マットになって命が助かった、エトセトラ。
こういった幸運で、死体ではなく生者として救出されることがある。これが事実そのままで伝わらず、脚色されたり歪曲されたりして怪談話になることがあった。
グウィン・サントス・バウティスタは、内戦の前線からこの街に逃れてきた。
つてを頼って来たのが、たまたまこの街だったというだけ。思い入れどころか前知識すらなかったが、言葉を覚えるのは早かった。書き取りが難しくて苦労させられても、勉強そのものが楽しくて、街に出て実践しつつ夢中になって覚えた。
日常会話がこなせるようになってきた頃、この街には移民やビジターが少なくないことがわかってきた。理由や滞在期間の違いはあれど、生まれた国から離れてきた人間が集まっていた。
生国を捨て、よその土地で生き抜こうとする執念。
違法スレスレ、ときに逸脱してでも稼ごうとする商売人の根性。
金がなくても、ないなりに楽しもうとするトラベラーのたくましさ。
古くから庶民の自活中心に発展してきた土壌があるだけに、これら集ってきた人間のパワーは、黄泉の国に旅立とうとする者すら引き戻せそうな気がしている。
地上十一階から墜ちながらも助かったアイスもそれだ。
この地のパワーに生存本能を焚きつけられた結果、フィクションみたいな真実をおこしたように思える。
ただこれにはアイス自身の、最後の最後までわずかなチャンスを逃さないしぶとさもあった。
屋上から堕ちる途中でぶつかった配管を逃さず、しがみつく——
並外れた反応の良さにグウィンは嬉しくなる。右肩と左足が使えなくなっていたというのに、この人の身体能力は良い意味でデタラメだ。
たださすがのアイスも、このときさらに左肩を捻挫した。落下する身体を左腕一本で食い止めるアクロバティックをやってのけた無理からだった。
「肩なのに捻挫ってあるの?」
開いた脇腹の傷口諸々あわせ、地階診療所での処置をやっと受けおわったアイスの開口一番はこれだった。
「もっともな質問だよね」
グウィンも整体を生業にする以前は、捻挫といえば足首のイメージしかなかった。
「捻挫ってね、靭帯や腱、軟骨とかの怪我のことなの。だから関節のあるところならどこでも、肘とか腰とかでも捻挫はあるよ」
「腰の捻挫ってヘンな感じ」
クギを刺すのも忘れなかった。
「あと、これがいちばん大事。捻挫でも痛みがひいただけで安心しないでね」
「…………」
この沈黙にもグウィンは答えた。
「治療のために固定するから、どうしても周辺の筋肉の柔軟性がなくなる。だから、ケアはちゃんと受けるように。さぼったりしたら、また再発するかもよ。トシなんだし」
「……わかった」
最近多くなってきた本人の口癖を織り込んで納得してもらった。
そんなやりとりがあったのは三週間前だった。
ゲストハウスを変えただけで、アイスは相変わらず<美園マンション>での宿泊を続けている。
「ミオに訊かれたことあるよ」
訪れた狭い部屋で施術しながらアイスに言った。
「アイスに家はないのかって」
「なんて答えたの?」
「住所不定」
「ほかの言い方なかった?」
「実際、アイスの家なんて知らないし、聞いたことなかったし」
「グウィンになら教えてもよかったんだけど、本人が存在を忘れてそうになるぐらいに帰ってない家を『家』と呼んでいいのか」
「そろそろ部屋の中にキノコでも生えてるんじゃない?<美園マンション>に泊まってるっていうより、住んでるって言われたほうがしっくりくる。もう買ったら?」
本来は分譲用の部屋がメインだったのだが、買い手がつかないうちにオーナーが手放した。そうして所有権が切り売りされて、ゲストハウスにとってかわられた経緯がある。数はぐっと減ったが、分譲用の部屋はまだあるにはあった。
「泊まりの方が気楽でいいよ。掃除してもらえるし」
「掛け捨てみたいで、もったいなくない? それに……」
グウィンは恐る恐る訊いた。
「もう逃げる必要はないんでしょ?」
麻生嶋ディオゴの転落が事故死として扱われた以外、ことの顛末がわからなかった。警察がきていたのは数日で、以降は何事もなかったかのような<美園マンション>に戻っている。
「穏便にすんだって思っていいの? アイスをつけ狙うような人もいない?」
「警察のほうは怜佳さんが『袖の下をつかませている警部補』を使ったのかも。うまくいかなかったとしても、グウィンは巻き込まれただけなんだから大丈夫だよ」
「アイスも?」
「どうだろ。ま、何があっても身一つだから、簡単に姿を——イテっ!」
「消える気でいる?」
「……怒ってる?」
「施術に感情を入れるようなことはしない。もう少しやさしくするね」
「お、お願いいます……」
「危なくなったら隠れてほしい。捕まって罪を償うとかはアイスの判断でしたらいい。ただ、どんな場合でも、いきなり黙って消えられたら腹が立つ……よりも、悲しすぎる。突然の別れとか、もうしたくない」
二時間前に談笑していた仲間の冷たくなった身体を見つけ、五時間前に簡素な食事をともにしていたリーダーが拉致されて行方がわからなくなり。
いきなりその存在を失う虚無感をこの国に逃れてきてまで繰り返したくなかった。別れは突然くるものだと、無理なわがままだと、わかっていても。
施術に感情を入れたりしないはずなのに、患部をほぐす手が怨嗟を練り込むように動いていた。ほかの利用者になら、こんなざまを見せたりしないのだが……。
アイスが伏臥で施術を受けているせいもある。こちらの顔が見えないので、気が緩んだ。グウィンは気を落ち着けようと、いったん手を離す。
「心配してくれる人がいることに慣れてないの」
ぽそりとアイスがこぼした。顔を伏せたまま話したようで、声がくぐもって聞こえた。
「いまはいるよ」
「うん、わかってる。だから、どんなことになっても煙みたいに消えたりしない」
「そういうことにしておく」
「信用ないなあ」
グウィンを巻き込む気配が微塵でもみえた場合は除く——という注釈つきなのだ。採算度外視のケアサービスをしてしまうのも、アイスがそういう人だからだった。
思ってくれる人への借りは、その人が目の前にいるあいだに返す。そうしてこちらも貸しをつくってやるのだ。
そうすれば、忘れずにまた……
グウィンは施術を再開させた。
「アイスは中年太りしないよね。基礎代謝を維持できてるんだ」
「老骨をムチでしばきまくる運動量じゃ太るヒマもなかった。これから、ふっくらしてくるかも」
「ゆっくりするの?」
「仕事を辞めるの?」とは訊きづらく、遠回しな言葉になった。
「この先四〇年は余裕で<美園マンション>に宿泊できる蓄えがある。施術費は心配知らないよ」
「ずっとあたしの施術を受けてくれてたから、わかるんだけど」
「ん?」
「筋肉が痩せてきてる。もう無茶しないで」
「無茶した結果が肩の捻挫だもんね」
「でもまあ、仕事の第一線から離れる歳でこの身体はすごいよ。筋肉に柔軟性があるし、関節の可動域も大きい」
「ランチおごってあげる」
「悪いことも言うけど、ランチとりあげないでね」
「穏やかな言葉付きでおねがい」
「下腿部挫傷は初期のうちからリハビリ続けてもらってたし、あたしの腕だって、そんなに悪くない自負もある。なのに治らないのは、加齢だけじゃない原因がある。筋肉がやわらかいとは言ったけど、首や肩まわりに限っては漬物石にさわってるみたいなんだよ」
「またすごい例えだね」
「それぐらい冷たくて硬い。つまり、酷いってこと。緊張やストレスが強い仕事をしてるせいとするのは正解だけど、それだけじゃないはず。
ありきたりな理由だけど、人間関係なんだろうなって。心のうちに秘めているつもりでも、身体に出てくるもんだよ」
「顔になら出さない自信があるんだけどな。ま、どっちにしろグウィンにはバレるんだ」かすかに笑いながら、
「いっそ、他人との関係なんて気にしない、自己中心人間のほうが楽に生きられるんだろうね」
「アイスがそんな人だったら、積極的にケアしようとは思わない」
「それって、あたしと一緒にいても苦にならないって思っていい?」
「…………」
「え? 答えにつまるっていうことは——」
「違う、違う! そんな質問するアイスの意図がわからなかったの。わかりきったこと……あ、ちゃんと言葉にしないと不安になる人だった?」
「いや、ちょっと考えてることがあって……これからのこととか」
「人生相談に応えられるスキルはないけど、聞くだけならいくらでも聞くよ? 人に話してるうちに考えがまとまることだってあるでしょ」
「今日は夕方まで予約ないって言ってたよね? 話の続きはランチのあとでどう?」
提案されてはじめてグウィンは触知式腕時計にふれた。正午前に始めたはずが、すでに午後一時をすぎていた。アイスと話していると時間を忘れてしまう。
これだけでも、すでに質問に答えたといえるのだけれど。