[小説]青と黒のチーズイーター 8章 パートナー 4話 一縷(いちる)の
4話 一縷(いちる)の
スガは中空に浮いていた。
正しくは、右腕だけでこの世とつながっていた。
足が屋上から離れた直後、スガの右肩に脱臼しそうなショックがきた。
続けざま、ビルの壁面で顔をしたたかに打ちつける。意識が飛びそうになった。
地上へと飛び出したはずが、右手を掴まれていた。
「スガさん、左手だして! あたしの手つかんで!」
流れた血で片目がふさがった狭い視野のなか、夜の曇天を背景にしたクドーが右手をのばしていた。パラペットにかけている左手で、落ちないように身体をささえ……
落ちないように掴んでいるのは、クドーではなかった。掴まれている右手の先へと首をねじった。
荒縄をよじりあわせたように筋肉が盛り上がり、前腕のタトゥーが波打つ。
リウが左手一本で、スガの命をつないでいた。
スガは落ちる恐怖より、苦渋をにじませた顔で言った。
「服役した警官が中でどんな目に遭うか聞いたことがあるだろう⁉︎ 離してくれ、頼む!」
リウの答えは、冷たいほどに客観的だった。
「拒否します。巻き込まれ事故がおこるかもしれません」
ストレートすぎる相方の物言いをカバーする余裕はなかった。
「クドー、左ポケットにナイフ!」
切迫感あふれたリウの声に、クドーは大急ぎでワークパンツのポケットを探った。
ナイフで何をするつもりなのか見当がつかない。それでもポケットから多機能ナイフを取り出すと、ノコギリ刃やドライバー、ヤスリ、ロープカッターといったツールの中から、ラージサイズのブレードを出して渡した。
リウの右手親指は、折れていて使えない。ナイフのハンドルを人差し指と中指の間で挟みこみ、ブレードの先をスガの顔に向けた。
「要救助者を落とすなんて私の不名誉です。ナイフで串刺しにされたくなかったら、さっさと左手を出してください」
「脅してるつもりか? 落ちて死ぬのも、きみに刺されて死ぬのも、私にとっては同じことだ」
「私には違います。落として死なせてしまうより、自分で殺すほうが、まだマシです」
「なんだその無茶苦茶な比較は⁉︎」
「自分の無力を感じずにすみます」
「正気で言って……もしかして、経験から言っているのか?」
「悠長な問答はあとや!」
リウの軍歴に思いが至ったのかもしれない。けれど、仮にそこに正解があっても、リウはいつも答えないところだし、ふれてやってほしくない。
少しばかりスガへの苛立ちを入れて、クドーは急かした。
「腕だして早よ上がって刺す言うたらあたしの相方本気でやりかねへんで!」
リウの芝居に加勢した。本気で殺す気でいるなら、掴んでいる左手を離せばいいだけなのだ。
リウも荒っぽく尻を叩きにかかる。不安定な体勢に、さらに負荷をかけるが、スガの本音をひきだす有効な手段——ナイフを突き出した。
とっさに空いている手でブレードを防ごうとしたスガに、
「死ぬんでしょう? 眼球を刺せば可能なのに、なぜ防御するんですか?」
「じょ、条件反射で……」
クドーの目が吊り上がった。
「あんたの言い訳なんか、どうでもええわっ‼︎」
利き腕とはいえ、左腕一本でスガの体重を支えているリウが限界だ。一気にたたみかけた。
「死んだらパートナーとその子ども、放り出すことになるんやで⁉︎ 遺族年金残すだけで事足りるん⁉︎ 生きとってこそ出来ることあるやんか! スガさんはパートナーとして『弟』さんを大事に思てるんやろ⁉︎ そやったら、さっさと上がってきいや!」
「パートナーは……つ、妻はいない! 子どもは義弟の——」
「そんな説明いらん! スガさんが思う最善の策が、残したパートナーには最悪の一手とちゃうって言い切れるんか⁉︎ ひとりで出した答えにすがってんと、こっち戻ってこい言うてるんや! 弟やて言い張るんやったらなおさら何でも話せる相手がおらん苦しさはあんたも知ってるはずやパートナーひとり残してええの⁉︎」
スガが瞠目して息をとめた。
すぐに左手を、上に向かってのばす。
クドーは両手で受けた。
渾身の力で引き上げようとするが、パラペット越しでは身長が足りない。足で踏ん張ることができず、上半身の力しか使えない無理な体勢に、背中と腰が悲鳴をあげた。
二人の警官より大きな力が、スガを地上に呑み込もうと引きずり下ろしにかかる。
させまいと足掻く。
パラペットにスガの手が届くまで、あと少し。もう一息のところで、リウの喉から苦悶の息がもれる。疲労と汗で手をすべらせた。
スガの身体が再びずり落ちる。
リウが、手を掴んでいるだけで精一杯になっていた。クドーの腕力ではスガを支えきれない——
そこを新たな手がつなぎとめた。
警官コンビの両脇から、褐色がかった肌の腕と、日焼けした腕がのび、スガの命を落とすまいと加勢する。
事件に巻き込まれた住民が、命綱になっていた。
ダニエラは膝をついて呆然としていた。
ルシアが倒れたまま、まったく動かない。
触れることが怖かった。死んだ現実に向き合いたくなかった。
肩におかれた手を感じてふりむく。血の気を失っているだろう顔を向けた。
汗だくになっているクドーだった。目をあわせると小さくうなずき、ルシアへと視線を移す。と、その表情に怪訝な色がうかんだ。
「どうしたの……?」
ダニエラに答えないまま、慌ただしく膝を折る。ルシアの首に手をのばした。
「生きてるやんか!」
「えぇっ⁉︎ でも、呼びかけても反応がなくて——」
「痛ぁい!」
頓狂なダニエラの声に休んでいられなくなったのか。ルシアが咳き込みながら目を覚ました。
「痛い! 死ななかったけど、死ぬほど痛い!」
クドーは、ルシアが押さえている胸を確かめた。
焼け焦げをふちどりにして、サマーニットが穴を開けている。ニットをめくりあげた。
防弾ベストがあった。
「……そういうたら、ルシアに貸したまんまやった」
「先にそれを言って!」
ダニエラが、へなへなと尻をついて脱力した。
「出血してないし、ちゃんと確認してたらっ……ていうても、しゃあないか。自分の装備品を忘れてた、あたしもあたしやし」
「気が動転して、すっかり……まあ、お互い様ね。ところで——」
ルシアのほうを見つめた。
「銃の前に飛び出すような無茶はしてほしくなかった」
声のトーンは穏やかだが、眼差しが険しい。
ルシアがうなだれた。
「……ごめん。なんていうか……ダニーを失うのが、すごく怖くて。あたしもダニーを護っていたかったから……」
「護ってくれた人が自分の代わりに死んだりしたら、自分が死ぬよりつらいよ。自分が生き残るために他の誰かが死ぬ。そんなの、カルテルの世界だけで充分だよ……」
「ごめん。そこまで考えてなくて、その……」
「続きは落ち着いてからにせえへん?」
クドーは、いったん保留を提案した。時間をおいたほうが気持ちの整理がついて、互いにとって必要なことが分かるかもしれない。
「ルシアも必死やったんやし、無事にすんだことやし」
「割り込んで悪い。疑問がある」
リウがそばに来ていた。額にハチマキを巻いたスガをつれている。本人のシャツの袖を裂いて止血帯にしていた。
フレデリーコたちに使ったので手錠がなく、手は自由なままだ。
逃げる気がないスガの意思をリウが尊重したのか、何かで代用して拘束しているわけでもなかった。もっとも、逃げ出そうとすれば、身体的に逃げ出せない状態にすることはリウなら容易い。そのあたりをスガも承知のうえだろう。
「もう大丈夫なん? バテてダウンしてたのに、回復早いな」
「なぜクドーの防弾ベストが高城さんに?」
逸らした話にはのってくれなかった。
高城ルシアの安全をはかるため、矢面に立つのは警官であるクドーになる。防弾ベストを貸す案が出たとき、ルシア自身が断わってボツになったはずだった。
「や、それはまあ……」
クドーは目を泳がせた。
「リウ残して、ルシアとあたしだけで脱け出したやん? あたしだけやと護りきれるか不安やったから、やっぱり着といてもろたほうがええなあと……」
相方の視線が痛い。小柄な身体をさらに小さくした。
「うん、まあ、あんたの言いたいことは、わかってる……」
ルシアが助け舟をだした。
「逃げてる途中の階段で、いきなり『脱いで』って言われたんだよ? マリアと一緒に出てきたこと、一瞬すっごい後悔したわ。でもまあ、その提案のおかげで助かったんだよね。暑いし窮屈だしで、大変だったけど」
「おれもその機転のおかげで、殺人犯にならずにすんだんだな」
リウは小さくため息をつく。ぼそりと言ったスガには、うなずくしかなかった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?