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【松本人志】指原莉乃の一言で封じられた男性意見

客観的事実か。

その人がどう感じたか、という胸の内か。

問題にすべき点はどちらか。

テレビや週刊誌を全て真実として受け入れていいなら話は簡単だった。

ネット記事もWikipediaも、できれば全部本当であってほしい。Xでバズった投稿も、Amazonレビューも、全部真実なら受け取る者としては大いに助かる。

本当か嘘か、そんなの自分で考えろ、というのが大人の共通認識だ。「世間はお前らのお母さんではない」と利根川幸雄も言っていた。

この国では、信教の自由が守られている。なにを信じて、なにを疑うかも自由。戦争が起きたとき、A国とB国どちらを支持するか、この小さな脳みそで考える自由が許されている。

歴史は何度も人の目を欺いてきた。だからこそ僕らは、分かりやすいストーリーに惑わされぬよう、物事をフラットに見ることが大事だと学んできた。

松本人志さんや伊藤純也選手の問題においても同様に、女性の主張、それを報じる週刊誌、否定する男性、この三者をフラットに見る必要がある。

しかし、あるときからそれが許されなくなった。

僕の記憶では、指原莉乃氏が『ワイドナショー』でこの発言をしたときからだ。

「女性がついていったのが悪いっていう話をネットでしてるじゃないですか。それがそもそも一種のセカンドレイプなんじゃないかって思う」

ワイドナショー:指原莉乃

僕の友人は、電車に乗るとき必ず、両手を上げて乗車する。電車の吊り革なり棒なりをつかんで毎日会社に向かう。

痴漢冤罪に巻き込まれないようにするためだ。それでも、「この人痴漢です!」と言われる可能性はゼロではない。そのリスクを減らすためだと言っていた。

世のほとんどの男性は真面目だ。だからこそセカンドレイパー扱いされないよう、みんなこの件に関して一様に押し黙ることになった。

指原莉乃氏は、そんな真面目な世の男性たちの言論を弾圧させるべく言ったのではない。勇気を出して告発する女性を守るための発言だった。

しかし、セカンドレイプというあまりに分かりやすいこの言葉は一気に流通することとなり、松本人志が嫌いな者たちの武器としても使われるようになった。

するとどうなるか。当然、感情論一色になる。

「そもそも松本人志で笑ったことない」「昔から嫌いだった」「取り巻き使って献上させてるのダサい」「昔もこんな発言してた」など次々と投下された。

その発信者を否定しようものなら、「私を否定するということは告発者も否定することになりますね。セカンドレイパーでよろしいですね?」と脅し文句のように使われ始めた。そして誰も言わなくなった。

僕も感情だけをぶつけるならば、松本人志も伊藤選手もいい気味だ、お前ら才能も金もあって人気者でモテまくって羨ましくて腹立ってたから、足元救われていい気味。ざまみー

というところだが、これはあくまで僕自身の醜い妬みから来る感情なので、全く重要ではない。

重要なことはなにか。感情論ではなく、先述したように、なるべくフラットに捉え、自分の頭で考えること。

擁護派は信者と一括りにされ、否定派は弱者の味方で正義という二極化が目立つが、今回のようなまだ事実がよく分からない騒動に対し、100-0でどちらか側に立った意見ばかりが強調されるのは本来異様だ。しかし、それがネットの仕組みでもあり、カラクリでもある。

僕は、男性側はもちろん、女性や文春にも共感できるところと、おかしいと思うところがある。

A子さんは、スピードワゴン小沢さんとの付き合いも大事にしたかっただろうし、VIPに興味がゼロではなかった。松本さんと会えて光栄は光栄だったが、異性としての魅力という意味では別。

ただ、芸能人との飲み会で嫌な思いをした女性が、仮に、本当に自分の大切な人、親族や友人だったとしたら、全て男側のせいにするだろか。悪いのは男だとしても、本当にその女性のことを考えてあげるなら、また同じ目に遭わないよう「そういうところには近づかないようにしようね」と注意喚起することも、メディアで扱うならなおさら、世の女性を守るために必要ではないのか。これは、いきなり道端で襲われた話ではないわけで。

松本さんも、せめて自分に好意的な人を集めてもらえば良いのに、誰が来るかは言わないようにし、「俺やで!」と登場してどんな女性でも抱けると考えてしまうのはどうか。報道が本当だと仮定した場合。

Xに「事実無根!」といきり立って投稿しちゃうし、お礼LINEも喜んで出すし、とにかく松本さんのXは、残念な天才感がすごかった。

ただ、後輩に女の子を集めてもらうのがダサいとは僕は思わない。なぜなら、AV借りてるところを勝手に撮られて「こいつAV借りてますよー」と全国誌にネタにされる日常を生きていたら、表立った行動は避けたくなると思う。

今や週刊誌に限らず、一般人からもパシャパシャ撮られて勝手にSNSに載せられるリスクも考えれば、誰もが自由に出入りできる居酒屋で飲むのも避けたいだろう。

「遊び方が普通じゃない」とよく指摘されるが、彼らを普通じゃなくさたのはメディアであり我々。必要以上に神格化させ莫大な利益をもたらせ、付いた離れたのニュースに飛びついては拡散し攻撃する。

そもそも不倫がクズだという指摘もあるが、それは松本さんに限らないし、不倫した人をテレビで見たくないと感じるのは自由だが、不倫した人でもテレビで見たいと感じる自由も認めて欲しい。

マスメディアとタレントのこういった構図を、かつてビートたけしさんはフライデー襲撃後の会見で、「そうやってみんなで食ってたんだから、攻撃されるのはしょうがない」と言っていた。

芸能人のあとをつけ、写真撮って売っちゃう週刊誌の正義がどこにあるのかは分からないが、その行為に違法性がなく、お金を払ってでも見たいという人が一定数いるなら、ビジネスとして成立するのだろう。するのであれば、それをより大きくしたいと考える。

とにかく文春に限らず週刊誌は、表現が上手い。厳密には、変換が上手い。

「良かったらあっち行かない?」と言われ女性がついていった場合、ついていったとは書かない。「連れて行かれた」と書く。

伊東純也選手の記事で「半ば強制的に飲まされ」という表現があった。冷静に考えてみるに、「半ば強制的に飲まされる」とは、具体的にどのような状態なのか。

「みんなでお酒飲もうよ!」と呼びかけるのはどうか。「グラス空いてるよ!次はなんにする?」はどうだろう。

受け取る側によっては、それだけで「半ば強制的に飲まされた」と感じるかもしれない。年上、有名、いかつい、など、相手に何らかの圧を感じていれば、「お酒飲もうよ!」も「半ば強制的に飲まされた」と感じるかもしれないし、あるいは記者がそう変換するかもしれない。

「強制的に飲まされた」と書くと明らかな嘘になるから、「半ば強制的」とする。上手い。

そもそも、その人の感じ方一つなのであれば、例え音声や映像記録があっても真偽は不明ということになる。誰が見ても明らかな暴行を加えている模様が映っていれば別だが、そうではなかった場合、どのように判断すればいいか。

客観的事実か。その人がどう感じたか、という胸の内か。問題にすべき点はどちらか。

文春は、「松本人志は性加害をした」とは書いていない。あくまで、「こう言ってる女性がいますよ」と我々に呼びかけているにすぎない。それを大衆に「松本人志は性加害者」と変換させ、騒がせた。

どのように書けば大衆がどう受け止め、どう解釈するか、彼らは手に取るように分かっている。結果、2億円以上の売上を作り、有料会員も伸ばしているのだから、ビジネスとしては成功しているといえる。

ただ、松本さんが自爆してうやむやになったLINE画像。「お礼LINEなんか性同意にならない」のであれば、なぜ文春はその情報を出さなかったのか。A子さんから共有されていなかったのか、意図的に伏せていたのか。

意図的に伏せていたとしても、嘘をついたことにはならないだろう。ただ、真実がどうあれ、話題になって売れるからと一方的な主張だけで通そうとする“悪意”がそこに入っているなら、僕らはそれを疑って見る必要がある。

しかし疑うとセカンドレイプになる。だから黙るしかない。横行するのは感情論。

これが何層にも重なっていくと、人混みで起きる群集事故のように、素知らぬ顔でみんな人を踏み潰していく。しばらくして発見される遺体。誰が踏んだかはもう分からない。

一方の意見を完全封鎖してしまう論調は洗脳と同じで、一つの主張だけが一人歩きし誰かを踏み潰す。

ベッキー不倫のときもそうだったように、「この人を叩いていい」という正義を与えられると、みんな平気で踏み潰す。しばらくして、ああ、そんなこともあったね、俺もその辺通ったけど、みんなが歩いてたから通っただけ、結局あれなんだったんだろうね、と自分が踏み潰したという自覚はない。多分本当にない。悪気もない。

あるとすれば、先に悪いことしたのはそっちだろうという正義。それがどうなのかを、フラットに受け止め、考える余地がないことが問題だと思う。テレビや週刊誌が全部真実という保証がない限り。

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鷺谷政明
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