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聞いてよマスター 8

「上はすっかり梅雨って感じかしら。」

バックヤードの酒樽をひと触れし、まるで地底人のような独り言を呟く。6月に入って雨の日も増えてきた。食品管理に気を付けなければあっという間にお客さんに出すものが傷んでしまうだろう。

ミックスナッツの缶を手に店内へ戻る。既に営業開始から2時間ほど経つが、生憎の小雨で店内は閑散としている。常連の杉岡が珍しく友人を1人連れて、入口近くのテーブル席で飲んでいるくらいだ。敢えてカウンターに座らなかったので、何やら積もる話でもあるのかもしれない。いつも大きな杉岡の声だが、今日はトーンを抑えているようだ。

この調子じゃ、このままクローズまで2人だけかな。特に注文があったわけではないが小皿にナッツと包みのチョコを転がし、邪魔をしないように静かにテーブルへ置く。「マスターありがと」と、杉岡はやや真剣な表情を残した笑顔で、連れの男性も軽く会釈したようだ。

カウンター内に戻ってグラス拭きでもしようと、入口に背を向け、棚にゆっくりと手を伸ばした。その時、扉の鈴がわずかに鳴ったようだった。あまり聞き覚えのない鳴り方だ、新規さんかもしれない。階段を降りてくる足音もゆっくりと、音を殺すかのような…

カン!カカッカ! 「ひあ!」

急な階段に足を取られたのか甲高い女性の声がした。思わず私も入口の方へ向かおうとカウンターから飛び出す、杉岡たちも立ち上がったようだ。

「とっとっとっと!」 ドンっ

飲み場の入り口には扉がない。その木枠のところに両手を付いて、そのお客さんはぎりぎり大転倒を免れたようだ。手を付いたまま下を向いて肩ではあはあと息をしている。

「お嬢さん、だ、大丈夫?」

立ち上がったまま固まっていた杉岡がハッとして声を掛けた。カウンターから飛び出した姿勢で思わずフリーズしてしまっていた私もその一言で我に返る。近くまで寄り「怪我はありませんか?」と表情を窺うと、その若い女性は恥ずかしそうに赤らめた顔をおずおずと上げた。

「だ…大丈夫です。スカートに足を取られてしまって…。」

黒く美しいウエーブのかかった長髪、色白な肌、私よりも身長は10㎝は高いだろうか、170くらいある?細身に似合う白めのノースリーブブラウスに、モカ色のロングフレアスカート、赤ワインのようなサンダル。大人っぽい雰囲気のべっぴんさんだ。

「いらっしゃいませ。うちの階段が急なもので、怖い思いをさせて申し訳ありません。お荷物はそこの棚に、お席は…どうぞあちらへ。」

息を整えたのを見計らい、声を掛けて奥側のテーブル席を案内したが「いえ…」と、女性はカウンターを右手で示す。ただでさえ1人で来店する女性客は皆無なこの店でカウンターを希望してくるだなんて、と私のほうが何だか緊張しはじめてしまった。

「構いませんよ。お詫びに1杯サービスさせて下さい。何を飲まれますか?」

私はカウンター内へ戻って、ゆっくりと席についた女性へ注文を取る。

「こちらこそ私が一人で転んだだけなのに何だかごめんなさい…えーと、電気ブランはあるかしら?」

おや、お酒が好きそうなチョイスだ。この町では比較的親しまれているのか、注文してくるお客さんが多いので大体常備している。「ハイボールで。」との希望なのでソーダ水を手に取り蓋を開ける。

「それと…」

「はい。」

顔を上げた私に、先程までとは違うこちらを試すような表情で、彼女は思いもかけない一言を静かに力強く吐き出した。



「一局、お願いできますか?」

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