明治日本が獲得した租界と治外法権
本稿は,下掲の拙稿【明治日本が獲得した租界と治外法権】の続きなので,ますはこちらを。
撤廃へ
端緒は汪兆銘政権の誕生
戦後を待たず,日本・英米による中国での治外法権及び租界が撤廃されることになった契機の一つが,昭和15(1940)年3月30日,重慶にて蒋介石と袂を分かった汪兆銘による新国民政府(南京汪兆銘政府)の樹立であることは,否定することはできない。むしろ,最も大きな要因となった。
それは,支配地域が重慶に限られる中華民国(重慶蒋介石政府)のに対し,中華民国(南京汪兆銘政府)は,日本軍が占領した北京,天津,青島,上海,南京,漢口(武漢),杭州,厦門,広東などを引き継ぎ,中国の北から南の主要な沿岸部都市を支配していたからである。
日華基本条約による合意
英米開戦の1年前,未だ英米も仮想敵国だった頃。
昭和15(1940)年11月30日,日本特命全権大使の阿部信行(元首相)と中華民国(南京国民政府)の汪兆銘との間で,日本国中華民国間基本関係に関する条約(日華基本条約)が締結された。
この条約の主たる目的は,日本が中華民国(南京汪兆銘政府)を国家として承認することにある。
日本は,汪兆銘政権樹立から国家承認までは慎重を期した結果だが,日華基本条約第7条によって,中華民国(南京汪兆銘政府)に対し,治外法権の撤廃と租界の還付を約束したのである(下掲)。
ちなみに,中華民国(汪兆銘政権)を国家として承認したのは,日本のほか,満洲国,ドイツ,イタリア,スペイン,ハンガリー,ルーマニア,スロバキア,クロアチア,ブルガリア,そしてタイ,フランスなどで,現在の中華民国(台湾)の承認国(14)とほぼ同じである。
この日本の動きに対し,英米が中華民国(蒋介石政権)に対して治外法権の撤廃と租界の還付を表明するのは,開戦から約1年が経過した昭和17(1942)年10月10日である(詳細は後述)。
英米との開戦
汪兆銘政権樹立後,上海共同租界では,蒋介石が送り込む抗日テロが続発し,上海海軍特別陸戦隊がこれに対処していた。よく映画で描かれスパイが跋扈する上海は,正に開戦前夜のこの時期のものが多い。
昭和16(1941)年12月8日,日本は英米と開戦。
同日13時の大本営海軍部発表(下掲)には,マレー上陸作戦(対英)や真珠湾攻撃(対米)と同じ昭和16(1941)年12月8日未明に,海軍が上海の黄浦江上に碇泊する米砲艦ウェーキを拿捕,同じく英砲艦ペテレルに対し降伏勧告を行なったが同艦がこれを拒否したため,巡洋艦出雲がこれを撃沈した件も含まれている。なお,マレー半島にて上陸作戦中だった陸軍については,開戦当時の発表はない。
上海海軍特別陸戦隊も,直ちに上海共同租界に進駐し,英米の権益の接収を行い,占領下に置いた。
これに対し,フランスのみが有した上海における専管租界については,当のフランスが,昭和15(1940)年9月以降,ベトナムにおいて既に日本の準同盟国となっていたため,フランス専管租界に日本軍が進駐することはなく,現状維持された(後に日本とともに返還に応じることになる)。
この上海における日本軍の緒戦の戦果が,後に中華民国(南京汪兆銘政府)に引き継がれ,租界と治外法権の撤廃に繋がることになる。
中華民国の米英に対する宣戦布告
英米との開戦から1年後,昭和18(1943)年1月9日,中華民国(南京汪兆銘政府)は,下記を内容とする「戦争完遂に付ての協力に関する日華共同宣言」を日本とともに対外発表,アメリカとイギリスに対し宣戦布告するに至る。
英米が支援する中華民国(重慶蒋介石政府)は,開戦翌日の昭和16(1941)年12月9日,既に日本に対して宣戦布告していた。他方で,日本は,終戦に至るまで中華民国(重慶蒋介石政府)に対し宣戦布告することはなかった。
日本が占領した主要都市の殆どを引き継いだ中華民国(南京汪兆銘政府)は,日・独・伊側に立ちつつ,僅か重慶のみを版図として英米の支援で辛うじて存続している中華民国(重慶蒋介石政府)とは矛を交えず,蒋介石に和平を呼びかけ続けていた。
その後の顛末は,幕末から明治の歴史を知見し,かつ昭和24(1949)年10月1日以降を含む「中華民国」の未来を知る後世の我々には,ただただ「勝てば官軍」という歴史の残酷な原理だけが思い起こされる。
租界返還及び治外法権撤廃に関する日中協定
上記声明よりも重要なのは,同じ昭和18(1943)年1月9日,重光葵と汪兆銘との間で締結された租界還付及び治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定である。
そのうち本稿に関するのは,以下の3項目で,前掲の日華基本条約第7条を具現化したもの。
・日本専管租界行政権の還付
・上海共同租界・厦門鼓浪嶼共同租界行政権回収の承認
・治外法権の撤廃
このうち治外法権(領事裁判権)については,当該協定をもって完全に撤廃されたのである。明治29(1896)年7月21日に調印された日清通商航海条約で獲得した治外法権(領事裁判権)を,約50年後の昭和18(1943)年1月9日に撤廃されるに至ったのである。詳細は後述するが,これは英米による撤廃に先行することになった。
これに対し,租界については,8箇所の専管租界の還付と,上海共同租界の回収について,返還する資産などの内容や実施日など細目の取極めの必要があった。
日本専管租界
八都市にあった専管租界
まず専管租界について,当該協定第2条に基づき還付の日時や手続など細目について,昭和18(1943)年3月14日,在華日本専管租界還付に関する細目取極と附属諒解事項が締結された。
当時,日本は,杭州,蘇州,漢口,沙市,天津,福州,廈門及び重慶の合計8都市に専管租界を有していた。
専管租界の還付の期日などの細目
8箇所の専管租界全ての中華民国への還付の実施日が,昭和18(1943)年3月30日に確定された(第1条)。さらに,専管租界内において日本が建設した道路等のインフラなどの資産も,無償で中華民国に移譲されること等が合意されたのである(第2条及び第3条)。
上海共同租界
上海共同租界回収実施措置要領
専管租界に続いては,上海の共同租界についてである。
ただし,共同租界については,日本だけでなく英米らが共同で管理する租界であるため,その行政権については,日本(単独)による「還付」ではなく,中華民国による「回収」という表現が使われる。
昭和18(1943)年2月24日,まず大本営政府連絡会議が,上海共同租界回収実施措置要領において「回収」の具体的な内容に関する方針が取りまとめた(下掲)。
上海共同租界回収の細目
上記大本営政府連絡会議が定めた上海共同租界回収実施措置要領を踏まえ,昭和18(1943)年6月30日,日本と中華民国(南京汪兆銘政府)との間で,いよいよ上海共同租界行政権回収実施に関する取極と上海共同租界行政権回収実施に関する了解事項が締結された。
上海共同租界の行政権の中華民国による回収は,同年8月1日に行われることが合意され,実際に実施された。
「上海共同租界の撤収」は当時日本でもニュースになったようだ。
下掲の日本ニュース第161号の中の「上海共同租界 還付調印成立」がそれ。ナレーションをテキスト化したものも引用する。
上海フランス専管租界
日本に協働し返還へ
前述のように,上海には,唯一フランスが専管租界を有していた。ベージュ色が共同租界で,ワイン色がフランス専管租界である。イギリスが築いた外灘は共同租界にある。
当時,ベトナムにおいて日本と準同盟国にあったフランスは,日本の租界還付及び治外法権撤廃の方針を受け,昭和18(1943)年2月23日,中華民国に有する租界(上海,天津,漢口及び広東)の返還と治外法権撤廃を発表する。
前述のように,大本営政府連絡会議が上海共同租界回収実施措置要領を定めたのは同月24日であり,歩調を合わせた感がある。
下記の写真は,これを報じる朝日新聞の記事。
変節前の朝日新聞は,先のリード文に続き「東亜解放史に新頁」との見出しで,両手をあげて礼賛している。
専管租界返還の実施
この昭和18(1943)年2月23日の発表を踏まえ,フランスは,同年7月22日,中華民国(南京汪兆銘政府)との間で,上海フランス専管租界の返還は,同年8月1日に実施されること等の調印がなされた。
当然,昭和18(1943)年8月1日という実施日は,同年6月30日,前述のように日本が上海共同租界行政権回収実施に関する取極において中華民国(南京汪兆銘政府)と合意した実施日と同一である。
以下は,これを報じる朝日新聞の記事。
下掲は,フランスによる上海専管租界還付の実施について報じているのが,日本ニュース第165号の中の「上海仏租界の返還調印〈東亜不動の体制成る〉」。合わせてナレーションをテキスト化したものを引用する。
治外法権の撤廃
日本による撤廃
前述のように,治外法権(領事裁判権)については,昭和18(1943)年1月9日,重光葵と汪兆銘との間で締結された租界還付及び治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定により撤廃された。英米に2日ではあるが先行した。
日本に対する撤廃
偉そうに中華民国に対峙する日本も,幕末から明治初期にかけて欧米諸国との間で締結した条約において,欧米諸国に対し一方的な治外法権(領事裁判権)を認めさせられていた。この撤廃のために,明治の日本が塗炭の苦しみのもと富国強兵に努めたことは,日本史で勉強した。最初にこれが実現したのは,イギリスとの間で,明治27(1894)年7月16日に締結された日英通商航海条約による。実に日清戦争が始まる9日前だった。
この治外法権撤廃のための条約改正については,その功があった柴五郎について記した下掲の拙稿をご参照あれ。
日本に遅れた英米による撤廃
後遺症
次に述べるように,日本に続いて英米も治外法権の撤廃と租界の還付を中華民国(重慶蒋介石政府)と合意するに至る。
とは言え,20世紀の半ばまで”中国”で「治外法権」が維持され,結局,革命などではなく”外圧”によってその撤廃が実現されたという歴史が,中華人民共和国の上から下まで「法治」の意識が欠如している現実に,少なくない影響を及ぼしていると思えてならない。
まずは表明
アメリカは,日本との開戦後の昭和17(1942)年10月10日,中華民国(重慶蒋介石政府)に対し,治外法権の撤廃を表明するに至る。イギリスもこれに同調した。しかし,これらはアナウンスに止まった。実際,香港を抱えるイギリスとのその後の交渉は難航した。
これに対し,日本は,表明に止まらず,昭和15(1940)年11月30日,中華民国(汪兆銘政権)との間で締結した日本国中華民国間基本関係に関する条約(日華基本条約)において明文をもって約していたことは,前に述べた。
ちなみに,英米が租界返還等を表明した10月10日は,孫文による辛亥革命が始まった西暦1911年10月10日に因む,中華民国の建国記念日。10月10日は十が二つ並ぶことから「双十節」と呼ばれている。英米としては,昭和17(1942)年初頭に「連合国」の一員となった中華民国(重慶蒋介石政府)へのリップサービスとして,その建国記念日に合わせて「媚態」を晒したとするのが,下記の朝日新聞の記事。
下記は,昭和17(1942)年10月10日の双十節に,蒋介石が重慶で行った演説を,イギリスが成都から報じたものを日本の情報機関が傍受して本国に報告したもの。
ようやく条約の締結
この表明を具体化する条約がイギリスと中華民国(蒋介石政権)との間で締結されるのは,昭和18(1943)年1月11日であった。
これが,中国における治外法権の撤廃及び関連事項の取極めに関する条約であり,同条約は,同年5月20日に批准及び発効している。アメリカも同様の条約を締結している。
英米による撤廃の実効性
日本が租界還付及び治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定を締結したのは,前述のとおり昭和18(1943)年1月9日であり,実に2日の差で日本が英米に先行した。
しかし,先後関係よりも重要なのは「治外法権撤廃と租界還付」の実効性である。
租界が存在する都市は殆どが東シナ海沿岸部と揚子江流域で,ほぼ日本が占領し,これを中華民国(南京汪兆銘政府)に引継いでいる。
そのため,英米の「租界の還付」と言っても,それらは既に日本・南京汪兆銘政府の支配下にあった。「治外法権の撤廃」と言っても,意味があるのは,重慶蒋介石政府の支配下にある重慶周辺に居留する僅かの英米人に限られる。英米人の多くは,南京汪兆銘政府の支配下に居留しており,重慶蒋介石政府に表明しても意味はない。
下記に引用するのは,内閣情報局が編集する週報第327号(昭和18年1月20日号)「支那の参戦と新しい日華関係」であるが,このあたりの機微を,客観的かつ冷静に指摘している。
ちなみに上海と鼓浪嶼島の共同租界については,下記のように「中華民国による回収」の意味を,日本国民向けに説明している。
上海共同租界還付に関する東條内閣総理大臣談
最後に,時の内閣総理大臣東條英機の昭和18(1943)年6月30日付の談話を引用する。
もちろん,前述の同日付で日華両政府間にて締結された上海共同租界行政権回収実施に関する取極と上海共同租界行政権回収実施に関する了解事項を踏まえたものである。
これは当時の日本国民向けの談話。(当時の)国民皆知の日本国の方針として,令和に生きる我々も,一読ぐらいはしておくべきかと思う。