大久保利通邸の登記簿
麹町区三年町三番地の登記簿
三年坂に三年町あり
霞が関の財務省と文部科学省の間に「三年坂」という坂がある。
現在は霞が関三丁目となっているこのあたり,昭和42(1967)年4月1日に住居表示が実施されるまで,坂名にちなんで「三年町」と呼ばれていた。
本稿における大久保利通の位置付け
本稿は,麹町区三年町所在の地番「三番地」という一筆の土地から,明治,大正そして昭和にわたる”ニッチ”なテーマを主題とするものである。
明治20年(1887年)2月1日から日本で綴られることになった「登記簿」に焦点を当てながら,それに関連する法制度に触れつつ,その所有者だった維新三傑の一人,大久保利通について述べるというものである。
まずは麹町区三年町三番地の土地の登記簿をその構成(表題部,甲区及び乙区)ごとにみてみたい。
表題部(土地表示)
麹町区三年町所在,地番は「三番地」を,以下「当該土地」とする。
この東京市麹町区三年町三番地の土地の地目(用途)は,「公使館敷地」となっている。
面積は2952.6坪と広大である。
なお,「大正2年1月18日受付・・・右反別誤謬訂正により変更を登記す」とあるのは,大正2年1月18日に,面積の誤りを訂正する登記がなされた事実を示している。
甲区(所有権)
所有者は「大久保利和」
この土地の所有者は,大久保利和。
あの大久保利通の長男である。
次男で牧野家に養子に入った牧野伸顕は政界で活躍したが,長男の利和は実業界で活躍した。
登記法~日本初の「法律」
日本の登記制度は,明治20年(1887年)2月1日に施行された登記法(明治19年法律第1号)に始まる。
ちなみに,この登記法は,日本における「法律」の記念すべきものである第1号でもある。
もちろん,それまでも法的拘束力がある規範はあった。古代の律令制度に由来する太政官布告,太政官布達及び太政官達…がそれであるが,明治19年(1886)年2月26日,これを廃止し,新たに「法律」を中心とする法体系を定めその手続等を定めた公文式が公布された。
明治19(1886)年8月13日,この公文式による新しい法体系下の「法律」の第1号として公布されたのが,登記法なのである。
不動産登記法へ
その後,民法(明治29年法律第89号)が明治31(1898)年7月16日に施行される。
民法の施行を受け,民法に新たに規定された物権や担保物権を登記の対象とするため,登記法に変わり,明治32(1899)年6月16日,不動産登記法(明治32年法律第24号)が施行されている。
本稿で紹介しているものは,この不動産登記法に基づく新しい登記簿。
当該土地の登記簿甲区(所有権)に「明治33年3月9日旧登記簿第一冊第一丁より移す」とあるのは,登記法に基づく(旧)登記簿に記載された登記事項のうち現に効力を有する事項が,不動産登記法に基づく(新)登記簿へ移記されたことを示している。
登記にはない「大久保利通」
当該土地には大久保利通の私邸があった。
後にも述べるが,当該土地上の建物は,当時ではまだ珍しい木造二階建ての白亜の洋館だった。
しかし,当の大久保利通は,登記法施行前の明治11(1878)年5月14日に死亡しているため,登記簿にその名が記載されることはなかった。
当該土地は,被相続人大久保利通が死亡した当時19歳だった長男大久保利和が相続し,登記法施行(明治20年2月1日)後の明治22(1889)年9月19日に,最初の所有者としてその名が登記がなされているのである。
乙区(地上権及び永小作権)
地上権者はベルギー国
当該土地には建物所有を目的とした地上権が設定されている。
その地上権者は,慶応2年6月21日(1866年8月1日),日本(江戸幕府)との間で日白修好通商航海条約を締結して国交を結んだベルギー国である。
地上権は,現在でほ殆ど耳目にする機会がないが,明治31(1898)年7月16日に施行された民法に規定された,当時の新権利制度である。その地上権が,明治32(1899)年6月16日に不動産登記法が施行されたことにより,登記できるようになった。
このような土地権利関係に関する法整備を受け,ベルギー国は,明治38年10月25日,当該土地の所有者である大久保利和との間で地上権に関する契約を締結し,翌26日,下記の内容で登記を申請した。
常識外の存続期間2000年の理由
ベルギー国が有する地上権の存続期間は,地上権設定日たる明治38(1905)年10月25日から2000年という,常識では考えられないものとなっている。
しかし,これはベルギーが強要したわけでも,大久保利和がベルギー国に騙されたわけでもない。
これは,当時,外国人や外国法人による日本国内での土地所有は認められていなかったことに起因する。土地所有(譲渡)に代わる便法として,当該土地のように,ほぼ”所有権”の取得と同じ効果を持つ,長期間の地上権の設定が行われていたのである。
ベルギー国が大久保利和との間で地上権設定契約を締結したのは明治38(1905)年10月25日であるが,ベルギー公使館がそれまでの横浜から,ここ三年町の大久保邸に移転してきたのは明治26(1893)年である。前述したが,その後,民法及び不動産登記法が施行されたことを受けて,新たに地上権を設定する契約を締結し,登記をするに至ったという次第のようである。
見方を変えれば,欧州列強のベルギー国が,明治38(1905)年10月25日当時,対価を支払い,便法を使ってまで当該土地の”所有権”を獲得したという事実は,同年9月5日,ポーツマス条約の調印をもってロシアとの戦争に勝利した日本国の将来性を認め,投資の対象とした証左と言えなくもない。
外国人の土地所有について
ちなみに,外国人や外国法人による日本国内での土地所有が認められるのは,明治43年4月12日に「外国人の土地所有権に関する法律(明治43年法律第51号)」が公布されて以降である。
例えば,同法第1条1項は,いわゆる相互主義に基づき,以下のように規定している。
この外国人の土地所有権に関する法律の後継が,大正15(1926)年11月10日に施行された外国人土地法である。外国人土地法は現在でも効力を有し,これらに共通する相互主義の考えは現在でも生きているはずなのだが,実際は,日本人が土地所有権を取得できない国の国民が日本で自由に土地を売買できる状態になっている。
当該土地上の建物
ベルギー公使館として使用された建物は,下掲の写真のもの。
これは,大久保利通が明治8(1975)年から1年をかけて建設した白亜の木造二階建て洋館である。ベルギー国は,土地とは異なり建物については所有権を取得し,多少の改築は行なったようであるが,大久保利通が建てた木造二階建ての洋館を,そのまま公使館として使用していた。
大久保利通は,もう一つ純日本風の私邸も保有していたが,それは当該土地の登記簿に大久保利和の住所として記載されている東京市芝区二本榎西町二番地(現在の白金台にある明治学院大学の近く)にあった。
三年町からの立退き
当時,三年町,裏霞ヶ関あるいは永田町あたりは,ベルギーのほか,清国,イタリア及びロシア(ソ連)などの公使館が立ち並ぶ公使館街であった。
そこに現在にもその姿を見ることができる国会議事堂を中心とした官庁街が計画された。大正9(1920)年1月20日,現在の国会議事堂の建設が始まったが,その周辺に中央官庁や関連施設を集中させるベく,各国公使館に対し移転が要請された。
ベルギー公使館もその対象となり,永田町二丁目にあった清国,裏霞ヶ関にあったイタリアやソ連などの公使館や大使館と時を同じくして,日本政府より替地への移転が求められ,移転先や”立退料”の交渉が重ねられた。
大正12(1923)年9月1日の関東大震災などがあって移転交渉が難航し,他方で大正11(1922)年9月にはベルギー公使館は大使館に昇格していた。
結局,昭和3(1928)年,それなりの”立退料”を得たベルギー大使館は,東京市麹町区下二番町の加藤伯爵邸に移転している。
同時に,大久保利通が建てた洋館も姿を消し,区画なども整理された上で,三年町は永田町・霞ヶ関官庁街の一部となった。
二番町へ移転
ベルギー大使館の移転先は,現在の地(千代田区二番町)でもある。ベルギー国は,ここでは土地の所有権も取得している。
ここは,もともと首相も務めた加藤高明公爵(大正15・1926年1月28日に亡くなっている。)の邸宅で,下掲の写真のように瀟洒な洋館でベルギー国が土地とともに建物も買受け,そのまま大使館として使用した。
平成20(2008)年,戦後に建てられた大使館建物が老朽化,新築建替えが行われた際に,敷地の一部を売却,現在,そこには三井不動産らによる「二番町テラス」が建てられている。
大久保利通暗殺と旧士族授産事業
明治11(1878)年5月14日早朝の訪問者
明治11(1878)年5月14日,最後の朝を迎えた大久保利通は,早朝から三年町の木造二階建て白亜の洋館で,福島県令山吉盛典の訪問を受けている。
この日,両者で話し合われたのは,福島県に関すること。猪苗代湖からの導水による安積原野の開墾計画原野の開拓事業についてだった。この安積疎水事業は,猪苗代湖の水を奥羽山脈にトンネルを掘削し,安積原野(現在の福島県郡山市)まで導水する「安積疏水」を作り,一帯を水田とする壮大なもの。この事業に,没落した旧士族をあてようとした。
大久保利通が目指した旧士族授産事業
内務卿としての大久保利通は,明治11(1878)年3月6日,太政大臣三条実に対し「一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺」なる伺書を提出している。この伺書は,士族授産事業の振興により,当時の重大な社会問題であった旧士族の救済とともに,産業の振興を目的とし,一種の国土計画論であった。
具体的な方法としては,同時に提出された「一般殖産及華士族授産方法」において,第一等,第二等及び第三等の3等級に分けた計画を提案している。
第一等は,新しい土地に開墾事業を興し,1万3000戸の旧華士族を入植させる計画である。
第二等は,旧華士族に現住地から1里内外の官有荒蕪地を貸与し,開墾に従事させる計画である。
第三等は,一般殖産のため,資本金350万円を内務省に準備し,内務省の指導のもとに国土開発事業を進める計画である。
最優先とされた安積疎水事業
翌日である明治11(1878)年3月7日,大久保内務卿は三条実美太政大臣に「原野開墾之儀ニ付伺書」という伺書を提出している。この伺書は,上記第一等に該当する事業計画として,福島県安積疎水事業への着手を提案するものである。
大久保内務卿は,この伺書と合わせて「福島県下岩代国安積郡字対面原及接近諸原野開墾方法」も提出し,当該計画の具体的内容を示している。
要するに,大久保内務卿は,安積疎水事業を,旧士族授産政策のなかでも,この安積疎水最優先事業に位置付けていた。
運命の朝,大久保利通は,三年町の私邸を訪れた福島県令山吉盛典と,安積疎水事業と,それが担う日本の将来を語り合っていたのである。
凶刃に倒れる
旧士族の救済政策を進め,その日も福島県令と協議していた大久保利通であったが,皮肉にもその旧士族によって命を絶たれることになる。
福島県令山吉盛典との会談を終えた大久保利通は,明治11(1878)年5月14日午前8時頃,三年町の私邸を馬車で出発し,皇居に向かった。
当時の皇居は,明治6(1873)年5月5日に火災の被害にあっていたため,赤坂にあった旧紀州徳川家の中屋敷を活用し,ここを”仮”皇居としていた(現在の東宮から迎賓館一帯)。
大久保利通は,三年町から赤坂仮皇居に向かう途中,同日午前8時30分頃,紀尾井町の清水谷を通りかかったところ,島田一郎ら6人の旧士族に襲われ,自身が提案した旧士族授産事業の行末を見ることなく,命を落とした。
この凶行については,後にベルギー公使館として使用される当時の個人邸としては珍しい洋館が,不満を持つ旧士族には「豪奢」と映り,大久保利通個人への憎しみを増幅させた原因の一つになったとも言われている。
他方,これにより民事的には大久保利通を被相続人とする相続が開始している。
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。