
昭和2年 田中義一・蒋介石”首脳”会談
革命いまだ成らず
前後の時系列
1912(明治45)年1月1日 中華民国の成立
1912年2月12日 清王朝滅亡
1913(大正2)年10月6日 中華民国初の大総統選挙(袁世凱が大総統に)
1913年10月6日 日本ら「中華民国」を国家承認
1916年6月6日 袁世凱死去
1919年10月10日 中国国民党の誕生
1921年7月1日 中国共産党の誕生
1924年1月20日 (第一次)国共合作成立
1925年3月12日 孫文死去
1927(昭和2)年1月1日 汪兆銘が国民政府を広州から武漢(武昌と漢口を合併して「武漢」に)に遷都
1927年4月12日 蒋介石が上海クーデター(共産党弾圧)
1927年4月18日 蒋介石が共産党を排除した南京国民政府を樹立
1927年7月15日 武漢国民政府が共産党排除(七・一五政変,国共合作崩壊)
1927年8月1日 共産党が南昌蜂起(中国共産党軍建軍)も失敗
1927年8月19日 武漢国民政府が蒋介石の下野を条件に南京国民政府との統合を決定
1927年8月24日 蒋介石下野
1927年9月28日 蒋介石来日
1927年11月5日 田中・蒋会談
1928年6月5日 張作霖爆殺事件
1928年6月9日 蒋介石が「北伐」完了(”中国”統一)
1931年9月18日 柳条湖事件(満洲事変へ)
馴染みの独裁に治まった中華民国
明治45(1912)年1月1日,現在でも中華民国で「国父」,中華人民共和国では「革命の父」と讃えられている孫文を旗頭に,清王朝が倒され,共和制の中華民国が誕生する。
しかし,それは孫文が理想と掲げた「近代統一国家」とは,冗談にも口にできない擬い物。
孫文は”臨時”大総統には就いたが,大正2(1913)年10月6日に初の大総統選挙において,中華民国の初代大総統に選出されたのは,清王朝の軍隊の親玉,袁世凱である。同じ日,日本(イギリスなども同調)は,清国が日本に認めた権利義務の中華民国への承継を袁世凱が認めたことを確認した上で,袁世凱の中華民国を国家承認している。
結局,国父であり革命の父である孫文が立てた中華民国は,打倒したはずの清王朝軍人である袁世凱に簒奪され,4000年?の歴史のままに,彼による独裁化が始まることになる。
しかし,袁世凱には天命がなく,まもなくして死ぬ。
なお,このあたりの詳細は,”中国”大使館の系譜について記した下掲の拙稿をご参照。
「軍閥」の群雄割拠へ
袁世凱は,良くも悪くも清王朝からの軍事を統括し,”中国”各地に勢力を有して私的戦闘集団を擁する「軍閥」を抑えていた。孫文が”臨時”大総統の地位を袁世凱に譲った現実的な事情でもある。
その袁世凱が大正5(1916年)6月6日に没するや,満洲を含めた”中国”北部だけでなく,上海や広州の”南部”にも「軍閥」が跋扈し,さながら群雄割拠の戦国時代に逆戻り。
中国国民党と中国共産党の誕生
孫文が,このような状況下で,「軍閥」を打倒し,”中国”の統一を目指すべく結党されたのが,今の台湾に続く中国国民党である。大正8(1919)年10月10日のことである。
これに対し,大正10(1921)年7月1日,ソ連コミンテルンの指示で設立されたのが,今の中華人民共和国に続く中国共産党である。設立当初の中国共産党は,確かに欧米や日本による半植民地支配の打倒を目的としていた気配があるが,お約束の内ゲバを経て毛沢東が権力を掌握していく過程で,その目的は「共産」すら飛び越えて,粛清と虐殺に代名される「独裁」へと変貌していく。
日本渡来の「民主」と「共産」
英語の「Party」に「党」という漢字を当てたのは日本の福澤諭吉と言われている。それだけでなく「民主」や「共産」という明治日本で行われた外国語の漢字訳が,そのまま”中国”にも伝わった。
それだけでなく,中国国民党の中心メンバーたる孫文も汪兆銘も蒋介石も,さらに中国共産党の中心メンバーの陳独秀も李大釗も李漢俊も,いずれも日本に留学し,日本で軍事や法律や経済で学んだと人物であるというのが事実。後に右と左に分かれ合従連衡を繰り返すことになる彼らも,そもそも「民主主義」や「共産主義」の経典を日本から”中国”に持ち帰ったというのも事実。
中国国民党の「国父」であり中国共産党の「革命の父」である孫文を,”中国”人とは比べられないほど経済的に支援したのは日本の企業家などであるが,そもそも「中国国民党」も「中国共産党」もその胎児を育んだのは,後に「抗日」として敵視されることになる日本なのである。
それぞれの内部抗争
中国共産党は,さながら党是のごとく,中国国民党への浸透工作をのほか,粛清や内ゲバなどの党内部抗争に明け暮れることになる。
他方の中国国民党も「俺が俺が」の国民性からか,似たり寄ったり。
”カリスマ”としての孫文が大正14(1925)年3月12日に亡くなるや,政治の汪兆銘と軍事の蒋介石が権力を争うことになる。中国国民党が樹立した政権は「国民政府」と称されるが,猫の眼のように権力者が入れ替わり,広州市,武漢市,南京市…とその”首都”を変遷させていた。
最大権力者たる「軍閥」
孫文が創った「中華民国」を乗っ取るように,その初代大総統に(形だけの選挙により)選出されたのが袁世凱。彼の権力の後楯はいわゆる北洋軍(北洋軍閥)。
袁世凱の死後,その北洋軍閥が,安徽派と直隷派に分裂。これらは漢民族の軍閥。さらに満洲族の張作霖率いる奉天派が擡頭する。”中国”北方では,この三派の軍閥による鼎立状態の三すくみ状態となっていた。
他方,南方にも広西派や広東派といった軍閥が勢力を有していた。
これら軍閥は私利私欲の塊で「統一国家」のために団結することは全くなかったが,それらと比べ,中国国民党も中国共産党も南部一地域の弱小勢力に過ぎなかった。
国民党による共産党との合作
孫文がまだ健在だった大正13(1924)年1月20日,中国国民党と中国共産党が「軍閥の打倒」で手を結ぶ。中国国民党が中国共産党員をその党員資格を認めたまま吸収する形で行われた。これが第一次国共合作と言われるもので,毒を毒のまま呑み込んだようなもの。
結果,中国共産党による中国国民党への「浸透工作」が進んだ。
国民党から共産党員の排除
共産党を内に抱える脅威に最初に気付き行動したのは,中国国民党”右派”の蒋介石である。
昭和2(1927)年4月12日,蒋介石は,上海クーデターを起こし,中国国民党から中国共産党員の排除を図る。
続いて,汪兆銘ら中国国民党”左派”も漸く「共産主義」の脅威に気づき,同年7月15日,党内から共産党員を排除する。これによって第一次国共合作は終焉する(七・一五政変)。
しかし,この中国共産党排除の行動については,これで中国共産党が滅亡したわけではなく,むしろ中国共産党の中国国民党への政治・軍事両面での浸透工作は排除不可能なほどに度を深めており,結果たる爾後の国共内戦から評価すると,どうしても「時すでに遅し」との感が否めない。
軍閥
反共を実行した蒋介石が訪日し,田中義一首相と東京で会談を行う昭和2(1927)年当時の”中国”の情勢は以上のとおり。
要約すると,”中国”北方には清王朝からの軍閥が絶大な権力を保持し,南方には軍閥のほか,新興の中国国民党と中国共産党が,それぞれ内部抗争を抱えながら,さながら”三国志”のように勢力を延ばし,”中国”は乱れに乱れ,統一政権が存在しないのはもちろん,そもそも統一国家ですらなかった。
”中国”に自国民が居住しかつ資産を保有する日本や欧米各国としては,ただ「治安維持」を求めたいが,それを誰に訴えて良いのかすら分からない状態であった。
蒋介石の下野と訪日
このような情勢下で「中国の統一」を目指す蒋介石(南京に国民政府を樹立していた。)は,中国国民党の内紛を収めるべく,”左派”に妥協する。
蒋介石は,汪兆銘(武漢に国民政府を樹立していた。)を首領とする”左派”との内紛を終息させるべく,自身がいったん下野することを条件に,武漢国民政府の南京国民政府への合流を実現した。
中国国民党を統一を実現した蒋介石は,昭和2(1927)年8月24日,中国国民党から離れ下野した。
下野して”私人”となった蒋介石は,同年9月28日,日本の地を踏んだ。今後の敵を「軍閥」か「中国共産党」とすべきかを彼が学んだ日本陸軍の実力者にして首相の田中義一に確認し,あるいは何らかの内諾を得るために。
”首脳”会談
田中首相と蒋介石の会談
昭和2(1927)年9月28日に何度目かの来日を果たした蒋介石は,日本の各所・各人を訪ねた後,同年11月5日,当時の内閣総理大臣である田中義一と,その青山私邸で会談している。
かつて日本陸軍に所属し訓練を受けていた蒋介石。
他方の田中義一首相は,陸軍出身で現役時は陸軍大将まで昇り詰め,政界転職後に陸軍大臣も務めている大物。
その田中義一に対し,蒋介石は,打倒すべきは北の「軍閥(北伐)」か南の「中国共産党」かを問うた。というより蒋介石の「北伐」の本心を田中首相に打ち明け,その理解を求めた。
この田中・蒋会談は,陪席した佐藤安之助(陸軍少将)が筆記した会談録が残されている。
会談録全文
昭和2年11月5日午後1時半,蒋介石は張群を伴い田中総理を青山私邸に訪問,会談約2時間に及び総理の腰越行き時刻切迫のため已むを得ず会談を打切り辞去す。
会談の要旨左の如し。
【総理】
自分は,豫て貴下の経歴,行動及び努力を熟知しあるのみならず,貴下が堅確なる意思をもって事を行わるることに関し,常に敬服し居るものなり。殊に最後の下野断行の如き,深く将来を国家のために考えられたるものにして,実に当を得たる御行動なりしと思惟しあり。是丈のことは自分より先ずもって申上げ置く。これより貴下の高説を承わるべし。
【蒋介石】
自分は学生の時代より革命に努力せる関係上,孫中山(孫文)の恩顧を蒙る事を大にして中山亡き今日,中山を想うこと切なるが,同時に閣下を連想思慕せざることなし。閣下の孫(孫中山/孫文)に対する情誼が深かりしことは自分の知るところなり。孫は自分の先輩なるがゆえ,閣下もまた自分の先輩として師事し,隔意なき教示を受けたき所存なり。自分に於いてもまた進んで閣下に質問したきこともあり,希望したきこともあれど,御多忙中御迷惑なるべきゆえ自説を差控え,先ず閣下の教えを乞うこととしたし。
【総理】
今は会見の機会に於いて別に貴下に対し過去の事実を御訊ねする必要なし。また昨今の情況に関しても詳細報告に接し居るをもって,特に貴下に問うを要せず。唯々今後の計画は如何にか貴下の心持を承知したし。
【蒋介石】
従来幾多の計画を立て諸種の希望を起こせしが何も皆,失敗となれり。しかも,これらの計画及び希望はそれぞれ専門家に依りて実施せられたるにも拘らず,悉く失敗となりたり。将来いかになすべきや願くば教えを聴きたし。
【総理】
現在,唐生智にせよ汪精衛(汪兆銘)にせよ李宗仁,白祟禧,程潜及び何應欽にせよ,大体において自己の地盤を獲得することにのみ専念し,大局を忘れ居るかの禍あり。これを如何に纏めて行くべきや実に難問題というべし。現今の状態は孫(孫文)が袁(袁世凱)を倒せる第三革命よりも遥かに困難なりと思わる。孫(孫文)は革命の元勲にして国民党の創設者たりしが故,何れかの方面に対しても連絡あり威望あり,群雄はこの人を中心として活躍せしも,今はこの人なく,各方面とも分裂の状態にあるがゆえ,革命の実行,実に困難なり。この際としては,大局上,先ず長江以南を纏めること急務なるべく,これがためには貴下を措いてこれを実行し得る人,他に存在せず。貴下の自重を必要とす。もし長江以南にして纏まらざらんが,その間に共産党は成長すべし。一旦,嫩芽を摘まれたる共産党は,再び芽を吹き葉を生ずべし。幸いにして局面の収拾により大局を制し得ば,共産党は台頭し得ざるも,然らざれば,この憂大なり。自分は貴下が南京に居らるる時,貴下の実力を信じ,必ず貴下の力にて南方一帯の局面は安定しべしと考え居れる故,外国とも話し合うて率先南京へ外交官を派遣することを計画し居り。芳澤謙吉公使を南京へ立寄らせたるたるは,特に意味もありたるなり。然るに事,希望と違えるは遺憾に堪えず。去りながら今日とても先ず長江以南を纏め,基礎の確実なるをもって,始めて北伐に着手すべき方策は依然最善の道にしてこれを行い得る人は,貴下を措いて他になし。しからば如何にして南方を纏むべきか,自分は実情に通ぜざる所もあるが故,この事はおって貴下自ら之を知り居らるべし。ただ参考として申すべきことは,貴下が余りに北伐を焦ることなく自己の地盤を堅固にするにあり。しかして,北方における張作霖,閻錫山,馮玉祥の争闘に関しても,貴下としてはこれに手を出さぬ方可なるべし。この争闘は自ずから帰着する所に帰着すべきが故,放任するを得策と思う。また唐生智の行動に関しても成功するものとは考え難し。恐らく久しからず敗倒くみるべし。故に貴下としては南方一帯の統一に専念せられよ。
列強中,貴国に最も利害関係を有するものは日本なり。日本は貴国の内争には一切干渉せざるべきも,貴国に共産党の跋扈することは断じて傍観し難し。この意味において,反共産主義の貴下が南方を堅むることは,日本として大いに望むところにして,これがため,国際関係の許す限り,また日本の利権その他を犠牲とせざる限りに於いて,貴下の事業に対し充分の援助を惜しまざるべし。自分の観念は第三革命当時と何等異なるなし。当時は孫君を目標とせしが,今は孫君に代われる蒋君を目標とするのみ。蓋し貴下が先頃下野せる態度に関し,自分は前説せる如く個人として敬服し居るも,実は大局上,南京政府の壊滅せしことを遺憾となすものなり。将来貴下は,馮玉祥や閻錫山をあてにする事なく,独立して先ず南を堅むることを計られよ。日本はこれに対し必ず出来るだけの援助を与うべし。貴下にして南方に堅固なる基礎を作るに於いては,事必ずや意の如くなるべし。目下,広東その他南方の巨頭連が統一なく,自己本位の行動を取り居らるる情況は,何時まで継続すべきや疑問なるが,貴下としては黙々これを看●視し,只管待機の到来を待たるるを可とす。決して急ぐ勿れ。時機はその内に来るべし。焦急するは貴下のため大不利なり。以上は,貴下が折角愚見を求めし故,腹蔵なく説述せるのみ貴下これを諒せよ。ただこれに付言したし事は,日本の張作霖に対する態度なり。世間どうもすれば,日本が張を助くるものの如く報道するものあれど全く事実に相違す。日本は絶対に張を助け居らず。物質は勿論,助言その他一切の援助をなし居らず。日本の願う所は唯々,満洲の治安維持にあるのみ。安心ありたし。
【蒋介石】
閣下の言は,支那の現状を基礎としての結論故,自分としても別に他に良法なしと思う。今より直ちに北伐を行う事を不可なりとする御高論に対しては,全然同感なり。南方を堅めて而して後,北方を伐つべきにともまた同様なり。ただこの道理を知りながら,曩に自分が北伐を行えるは当時の事情,北伐を行わざれば,禍乱は却って南方に起こるべき憂いありしがためのみ。
【総理】
自分も爾り想像しありたり。
【蒋介石】
革命軍の内容複雑にして将士敵を●んするの風あり。当時もし北伐を行わざれば分裂を免れ難き形勢にありたり。実を言えば広東より出征の際は兵力僅かに二師団に過ぎざりしが,江南に着せしときは,その数二十師団以上に達し,内容複雑,敵あれば結束し,敵なければ分裂せんとし,統御の苦心一方ならざりしものありしなり。
【総理】
自分もその事を想像し居れり。就いては今後,貴下が如何なる時機に出山すべきやを考るに,孫伝芳が江南窺窬の行動を繰り返す時にあるべしと愚考す。孫君としては,最早,圖(図)南の志を絶つべくは,之を行えば必ず失敗に終わることなしと恐らく再度この挙に出づべし。しかしてその時機は即ち貴下の捕捉すべき機会ならん。
【蒋介石】
自分は共産党が跋扈せば起つべし。然らざれば縦令孫伝芳が南下し来るも起たぬ決心なり。
【総理】
貴下と孫伝芳との間に何らかの約束ありや。
【蒋介石】
何ら約束なし。ただ孫伝芳もし江(※揚子江)を渡れば必ず失敗すべきのみ。
【総理】
あるいは然らん。判断は人によりて異なる。兎に角,貴下自国のことゆえ,貴下よく之を知るべきも,凡そ人としてことをなすに他人の失敗するときは即ち自己の成功するときなる事を想わざるべからず。共産党の跋扈は,李宗仁,程潜等の活動によらずして或は土匪的跳梁となりて現わるるやも知れず。汪兆銘の態度如何は知らざるも誰人と雖も,今日共産党を標榜して行動するものはなかるべし。
【蒋介石】
貴説の如くならんも共産党が軍隊内になしとば限らざる故,注意を要す。指揮官は別に怖るるに足らざるも軍隊内に共産主義者の侵入することは寒心に堪えざるなり。
【総理】
自分に於いてもその事は同憂なり。日本に於ける共産主義の蔓延はその原因,支那共産党の増長にあり。日本側より貴国の赤化を常に八釜しく反対し居るは,畢竟自衛のために外ならず。また我らが蒋君に同情を表し居るもこれがためなり。もし貴下にして共産党の同情者たらんが,我らは貴下を信頼せざるなり。貴下の共産観は自分のそれと同様なりと確信しあり。
【蒋介石】
先刻,閣下は自分に対し孫伝芳,渡江の時機は即ち自分の起つべき時機なりと教えられ,自分は起つ意思なしと御答えせしが,今の支那の情勢は混乱紛糾を極め国家も危険なれば列強も不安なり。個人としては起つべき時機に非ざるも支那の国民としては実に傍観を忍び難き事情にあり。応に奮起して革命を成就し統一を遂げるべき義務ありと思考す。元来,日本へ渡航の当時は日本を経て欧米各国を廻り5年の日子を海外に費やす予定なりしも,渡日以来1ヶ月,貴国各方面の人士と接触したる結果,本国の時局を空しく海外に傍観する事は事実上不可能となれり。仍て自分個人の考えを述べ,閣下の御教示を承りたる上,帰国することに決心せり。併し帰国したりとて直ちに起つべき考えはなし。就いてはここに一つ秘密のことあり。汪兆銘より自分に対し早く帰国して国民革命軍の司令官に就職せよとの電報来りたることなり。自分はこれに応ずる意思なり。帰国しても暫くは動かざる考えなり。今日初見の閣下に対し如比事を漏らすは,閣下を長時日相識る先輩と思うが故,何ら包み隠す所なく自説を述べて,閣下の教えを乞わんがためなり。総理の前言中,日本の利権を犠牲にするを得ずとのことありしが,自分も支那に於ける日本の利益安全なれば支那の国利民福もまた安全にして,畢竟両国の利害は共通なりと信ずるものなり。これがためには早く革命を成就し,時局を安定せしめざるべからず。この意味において支那軍隊の革命運動は支那及び列強の利益を目的とするものなり。革命の完成を1日も早く実行せんとするは自分及び同志の考えなり。支那に排日の行わるるは,日本が張作霖を助け居るものと思えばなり。自分は判然日本の態度を諒解し居るも,軍閥を嫌忌する支那の国民は,軍閥が日本に依頼し居るものと誤解しあり。故に,日本は吾人(われら/中国人のこと)同志を助けて革命を早く完成せしめ,誤解を一掃すること必要なり。而して事知,此なるに於いては,満蒙問題も容易に解決せられ,排日は跡を絶つべし。もし夫れ列強に対する関係上,日本が支那に何らの援助をもなし得ずと言う如きは,日支の特殊関係を没却せる言議にして取るに足らず。今や支那と交渉ある列強は数多きも,その真に緊切なる利害を有する者は日露の両国に過ぎず。露国はこの意義の下に支那に干渉を加えり。日本,何ぞ干渉援助を加え得ざるの理あらんや。革命党たる自分が如此言をなせば売国奴として国人の怨怒を招くべきも,閣下は自分が信頼する先輩なるがゆえ,衷情を披瀝し,閣下に訴うるに過ぎざるのみ。
(総理の腰越行は午後3時東京駅発と定められありしが,会談中時刻経過のため,午後3時41分発に延期せられたり。然るに談,ここに及び既に午後3時25分となれり。)
【総理】
貴下の腹蔵なき心底を聴き,自分はなお大いに語りたきことあれども,いかんせん出発時刻迫り,たとえ更に出発を延すも本日は語り盡し得ざるべしと考るをもって,他日を期することとすべし。是非,御滞在中さらに今一回会合懇談したし。
【蒋介石】
万一,自分が東京を去ることとなるも,張群は当分東京に残留すべきゆえ,閣下の御意見は張群へ直接もしくは佐藤少将を経て御示しありたし。
以上,佐藤安之助(陸軍少将)陪席及び筆記
会談後の交錯
敵は軍閥か中国共産党か
真実は諸説あるが,この会談録からは,田中首相は,蒋介石に対し何度も何度も遥か北方の軍閥との争いを戒め,目下の中国共産党こそが打倒すべき敵であること,そのための協力を日本は惜しまない旨を説いた。
これに対し,蒋介石は,中国国民党(国民革命軍)の内部事情として,どうしても軍閥を敵とするしかない旨の悲痛ともいえる訴えをしている。
加えて,蒋介石は,中華民国に排日感情があるのは,”中国国民”が嫌忌する張作霖などの軍閥が,日本に頼っていると”中国国民”が誤解しているからであり,日本としては軍閥を打倒する国民革命軍にこと支援すべきであり,そうすれば排日もなくなり,日本の満洲と蒙疆(南モンゴル)における権益も安泰となる。このように説いて,蒋介石の国民革命軍への支援を求めた。
田中首相が蒋介石の愁訴に応じたのか否かについては,少なくとも会談録には記録されていないが,事後の歴史が証明しているような感がしないでもない。
「北伐」を目指した蒋介石
帰国後の蒋介石は,昭和中国共産党ではなく,「北伐」を宣言し,南方・北方の軍閥の掃討を目指す。
結果,訪日した翌年の昭和3(1928)年6月9日,蒋介石は,軍閥を打倒して「北伐」を完遂,北京などの北方を含む”中華民国”を統一することになる。
その4日前の同月5日には,蒋介石の国民革命軍に敗れ北京から列車で満洲に逃れてきた奉天軍閥の”親玉”張作霖が,北京満洲・奉天近郊で日本の関東軍により爆殺される事件が起きている。結果,蒋介石による北伐の完遂を,日本が手助けした形となっている。
偶然にしては実にタイミングが良い日中それぞれの動きである。
結果は盧溝橋事件
昭和6(1931)年9月18日には,その関東軍が柳条湖事件(満洲事変)を起こし,翌年3月1日,清王朝のラストエンペラー愛新覚羅溥儀を元首とする満洲国が成立することになる。
これが結果として,日本が「満蒙は日本の生命線」と称する非漢民族の満洲国及び蒙疆(南モンゴル)と,蒋介石の”中華民国”が国境を接することになる。
必然的に生じた国境紛争は,昭和8(1933)年5月31日,河北省の塘沽にて日本と中華民国(蒋介石)との間で停戦協定が結ばれ,終結することになる。
その後も各地小規模な紛争があったが,その都度に和解協定が結ばれ日本が漸進することになる。ただし,この進出により,自然発生か誰かの煽りによるものか,あるいはそれらの相乗によるものか,排日運動が”中国”北部を中心に起きることになるのも事実。
結果,昭和12(1937)年7月7日深夜,北京郊外の盧溝橋周辺にて夜間演習中の日本の支那駐屯軍(明治34(1901)年9月7日に締結された北京議定書に基づき駐屯)対する「一発の銃弾」をきっかけに,日本軍と中国国民党軍との間で最終的には戦争にまで発展することになる。
この運命の「一発の銃弾」を何者が撃ったのかは歴史の謎だが,中国国民党を日本軍と闘わせて,中国国民党の力を削ごうとする中国共産党の謀略という説もある。
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