柴五郎と「条約」
敗けたが賊軍
下北半島に移住させられた会津藩
井伊直弼の暗殺により「安政」が終わり,文字どおり”幕末”に入った万延元年5月3日(1860年6月21日),後の陸軍大将にして日英同盟の陰の立役者,柴五郎は,会津藩の藩祖保科正之(徳川秀忠の御落胤)以来の世臣,柴家の五男として生まれた。
慶応4年9月8日(1868年10月23日),板垣退助率いる”西軍”が会津鶴ヶ城を包囲していた時,”新政府”は慶応から「明治」へ改元する。その14日後の明治元年9月22日(1868年11月6日),会津藩は降伏する。当時,柴五郎は8歳,白虎隊にも入れない年齢だった。
明治2年11月3日(1869年),”賊軍”とされた会津藩は,本州最北の下北半島の不毛の地(今の大間などむつ市)に国替となり「斗南藩」と称した。
斗南藩を待っていたのは,まさに飢餓の地獄だった。
柴太一郎と裁判
柴五郎より21歳年長の長兄柴太一郎は,斗南藩の会計掛にあった。会津以上に厳しい冬が迫っていた明治3年10月23日(1870年11月16日),開座掛(経営企画課のような役職)にあった川崎尚之助を伴い対岸の函館に渡った。その目的については,後の”裁判”でも争点となったが,飢餓に瀕した斗南藩民の命を繋ぐための米の買付であった。なお,川崎尚之助とは,後に新島襄と再婚する「(山本)八重」の最初の夫,大河ドラマ「八重の桜」では長谷川博之さんが演じていた。
函館には,米座省三という者がいて「斗南藩の商法掛」を称していた。歴代の会津藩士であった柴太一郎も「新規採用したものか」と米座の言を信じてしまった。米座は,幕末から函館で貿易商を営んでいたデンマークの商人で領事を兼ねていたジョン・エッチ・デュースを,柴と川崎に引き合わせた。
明治3年閏10月,米座と川崎は「斗南藩」として,デュースらとの間で「約定書」を取り交わし,これを証すべく柴太一郎が「斗南藩」を代表して「奥印」した。
これが以後7年続くデンマークと斗南藩との係争の発端となった。
「約定書」の内容については,原本は確認できないが,後年(明治11年)に至りデュースが本件について斗南藩の代わりに日本政府を訴えた際に,開拓使が経緯をまとめ外務省に提出した資料(一部が下の写真)から理解することができる。
これによると「約定書」の基本は,デュースが日本での米価の高騰を見込んで清国から購入していた広東白米15万斤(約9万トン)と,大豆2550石とを交換するというもの。具体的には,まず明治3年12月19日(1871年2月8日)に広東白米の引渡しを受け,翌年3月にその対価としての大豆を納入するというもの。柴太一郎らは広東白米の引渡しを受けるために必要な「米預かり手形」を受領した。
しかし,米座省三が保管していたはずの「米預かり手形」が,米座本人とともに行方知れずに。そのため,約定日に「米預かり手形」を開拓使に提示することができなかった。
実は,米座は,函館にいた英国人トーマス・ライト・ブラキストン(探検家の側面もあり,津軽海峡における動物分布境界線「ブラキストン・ライン」の発見者として有名。)から借金するため,「米預かり手形」を担保に入れた挙句に逃亡していたのである。「米預かり手形」はブラキストンの手元にあった。米座については,後の明治4年7月11日に東京で逮捕されたが,それよりも前に,斗南藩とは全く関係ない信州人であることが判明していた。
対価たる大豆(2550石)については,真実は試験的に不毛の地たる斗南藩内で作付けが始まっていたもの収穫後に充てる目論見だったようだが,この栽培も成功しなかったようで,”裁判上”は,あくまで斗南藩の責任を回避するべく,柴太一郎と川崎尚之助は,引渡しを受けた広東白米(の一部)を売却,売却代金をもって大豆を購入し,その大豆をデュースに納める計画だった旨を供述している。
いずれにしても,約定の明治4年3月末日までに対価たる大豆(2550石)をデュースに納入することができなかった(「米預かり手形」はブラキストンの手にあったため,広東白米の引渡しも受けていない。)。
デュースは,明治4年4月11日(1871年5月29日)付で斗南藩を被告に開拓使に対し損害賠償を請求する”民事訴訟”を提起した。
他方で,柴太一郎と川崎尚之助は,この間もブラキストンと談判,「米座省三は斗南藩とは関係ない」と主張し,「米預かり手形」の返還を求めた。しかし,その実現には1年を要し,「米預かり手形」の返還を受けたのは明治4年12月。直ちに引渡しを受けた広東白米を換金したが,一夏を越して劣化し古米となったことと,米相場自体が前年より下落したこともあって,換金分をデュースに支払ったが同人からの損害賠償請求額には満たず,同人による民事訴訟は継続した。
同時に”詐欺”での”刑事事件”も係属していた。
”民事事件”と”刑事事件”の結論については日本の裁判制度の推移とともに後述するが,概要は,開拓使が経緯をまとめ外務省に提出した資料(下の写真)にまとめられている。
デンマークの裁判権
欧米諸国との条約
ところで,なぜ,明治3年当時,遥か北欧デンマークの商人デュース(領事を兼務)が日本(函館)に滞在して,日本(斗南藩)と取引でき,”裁判”まで起こすことができたのか。
それは,日本(幕府)とデンマークとの間で,慶応2年12月7日(1867年1月12日),日丁修好通商条約が調印され,国交が樹立されたからである。
ただし,条約の内容は,井伊直弼時代の日米修好通商条約など【安政五カ国条約】と同じもので,いわゆる「不平等条約」と評されているもの。
日米修好通商条約など「安政五カ国条約」が調印された1858年から日丁修好通商航海条約が調印された1869年の11年間に日本が締結した「不平等条約」の相手国は,以下の欧米15カ国(日付は調印日でその順に列挙。なお,プロイセンは後の北ドイツ連邦の1国で,1871年に南部を含めて「ドイツ帝国」に統一されるのため実質は14カ国。)。
当時独立した国家を形成していた欧州国の全てと調印・批准している。
徳川幕府 最後の条約がデンマーク
日本がデンマークと修好通商条約に調印した時の将軍は,調印日の2日前,慶応2年12月5日(1867年1月10日)に就任したばかりの徳川慶喜。調印後の批准書(下の写真はそのレプリカ)には「源慶喜」との署名があり,これが江戸幕府が結んだ最後の条約となった。
徳川慶喜に限らず幕府は,井伊直弼の死後もその路線を踏襲していた。
それでだけでなく,”攘夷”を叫んで政権を奪取した薩長明治政府も,”不平等”のままスウェーデン以下4カ国と修好通商条約の調印・批准を続けた。スウェーデンやオーストリアが東京湾に黒船を浮かべて威圧したわけではなく,明治政府は自ら進んで漫然と”不平等”での国交を樹立していった。
そもそも当時の日本の”法治国家”レベルで,対等の通商条約を結ぼうとする欧米諸国は皆無と言っていい。通商で来日する欧米人からすれば,北町奉行で"大岡裁き"を受け,磔獄門にでも処されたらたまったものではない。
要するに,徳川慶喜を含めた幕府も,薩長明治政府も,"不平等"は承知の上で,欧米諸国との通商による実益を欲したのである。
明治政府による”不平等”条約の締結は,幕府を踏襲しただけではく,”不平等”の内容をより進めたものとなった。
最後に調印されたオーストリア=ハンガリー帝国との修好通商航海条約は,日米修好通商条約以降,規定が曖昧で解釈に基づいて運用されていたものを,具体的に明文化した不平等条約の”完成版”と言えるもの。英国公使パークスが周旋したものらしい。
例えば,”不平等”の一つ領事裁判権(昭和世代は「治外法権」と負に拡大されて教えられたもの。)について,該当する日米修好通商条約第5条と日墺修好通商航海条約第5条及び第6条を,下記のように比較してみると,一見して内容が増えて具体化されているだけでなく,それまでの刑事事件だけでなく,民事事件にまで対象が拡大されている。
最後に調印された日墺修好通商航海条約の内容が,日本と欧米諸国との間で既に発効済みの修好通商条約に規定された(片務的)最恵国待遇条項に基づき,これら欧米諸国の全てにも有利に適用されることになった。
日墺修好通商航海条約第21条に規定されているが,これら欧米15カ国との条約については,等しく1872年7月1日(明治5年6月26日)を期限に,見直しを行う旨の条項が規定されていた(ただしアメリカのみは同年7月4日の独立記念日)。見直しを要する場合にはその1年前に告知することが要求されていた。
1871年12月23日(明治4年11月12日)に横浜港を発ち,アメリカをスタートにこれら条約を締結していた欧米各国を訪問した岩倉使節団の目的の一つは,この「見直し」の予備交渉のためである。しかし,未だこの時期の日本では,いずれの国も歯牙にも掛けなかったことは承知のとおり。
なお,条約改正問題については,「江戸幕府が締結した不平等条約を明治政府が苦労して改正した」と教えられるのが一般的だが,むしろ江戸幕府ではなく,自身も締結し,さらに完成させた”不平等”な条約を,明治政府自らが”落とし前をつけた”とものと言えるのではないだろうか。
欧米から帰国した大久保利通ら明治政府首脳は,司法権の独立を含めた法令の整備を含めた近代的な法治国家への変身が急務であると肌で感じ,感じたとおりの肌感覚のまま強権的に改革を進めた。結果として明治23年(1890)11月29日には憲法を施行するに至った。
後述するが,明治27年(1894)7月16日,ロンドンにて駐英公使青木周蔵とイギリス外相キンバレーとの間で日英通商航海条約が調印され(同年8月24日批准),これによって”不平等”の一つ領事裁判権が撤廃されることになる。その3ヶ月前の同年3月21日,英語も堪能だった柴五郎は,イギリス公使館附少佐(いわゆる駐在武官)に選ばれ,ロンドンに赴任している。記録には残っていないが,その役目から条約改正に大いに寄与したのは事実であろう。
民事裁判の経緯
日丁修好通商条約によって日本との「通商」が可能となったデンマークの商人・領事デュースと「斗南藩」との”裁判”に話題を戻す。
前述のように,デュースは,明治4年4月11日(1871年5月29日)付けで開拓使に対し,斗南藩を被告とする”民事訴訟”を提起している。
この裁判管轄については,完成形である日墺修好通商航海条約においても,民事事件・刑事事件の双方について,外国人を原告としても日本人(藩も?)を被告人・被告とする事件については,デンマークにも認められた領事裁判権の対象外でデンマーク領事が裁くことはできず,日本の”法令”によって日本の”裁判所”によって裁かれることになっていた。
ところが,肝心の明治初期のこの時代の日本においては,近代的な裁判制度や法令が全く整備されていない。当時の”裁判”は,知事や開拓使など簡単に言えば”行政の長”が裁いていた。このような司法権が行政権から分離・独立していない状態は,欧米からすれば中世封建時代を思い出し,”野蛮”と受け取られるもので,自国民保護のためにも領事裁判権は当然と考えさえる根拠となっていた。欧米各国は,この領事裁判権に基づき日本各地の領事館がそれぞれ自国民に対する”裁判”を行っていた。とりわけ,イギリスは,明治12年(1879)1月1日,横浜英国領事裁判所を設置している。これは,神奈川領事館の訴訟を担当する第一審裁判所としてのほか,他の領事館が担当した”裁判”の第二審裁判所としての役割も果たした。横浜英国領事裁判所からの上訴は上海の高等領事裁判所が担当した。
自らの足らぬを十分に理解していた明治政府は,司法・裁判の分野の整備を急ぎ,欧米諸国と対等な「近代」の象徴たる法治国家を目指した。
明治4年7月9日(1871年8月24日),司法省が新設され,同時に廃止になった刑部省及び弾正台(警察組織)から断獄事務(刑事裁判権)を継承した。さらに同年9月14日(1871年10月27日),大蔵省が所管していた聴訟事務(民事裁判権)を承継した。しかし,首都東京には司法省管轄の東京裁判所が明治4年12月26日(1872年2月4日)に設置されたが,東京以外の府県においては「地方官の裁判」が専行していた。司法と行政の分離どころか,為政者自らが裁判を行う「中世」そのもの。
そこに,明治5年4月25日(1872年5月31日),江藤新平が初代の司法卿に任命される。江藤司法卿は,司法・裁判の分野で急速に改革を進め,就任早々の同年8月3日(1872年9月5日)には「司法省職制章程(司法職務定制)」を制定する。これは,各地に裁判所を設置し,地方官(知事や開拓使など)から裁判権を奪い,行政と司法の分離という近代国家に見合う「三権分立」を目指したもの。司法行政は司法省が担い,裁判実務は各裁判所が行ってこれに司法省は関与しないという建前が取られた。
函館には,比較的早い時期ではあるが,開拓使函館出張所内に函館裁判所が設置されたは明治7年(1874)1月8日(同年5月24日開庁)であり,それまでは「開拓使」が”裁判”を行っていた。
明治8年(1875)4月14日,大審院が設置される。これにより,司法省すなわち行政から裁判権(司法)が完全に分離され,近代の象徴たる司法権の独立が確立する。そして,大審院設置に伴って同年5月24日,全国4ヶ所に「上等裁判所」が置かれた。上等裁判所が設置されたのは東京,大坂,長崎と,なぜか福島である。
要するに,デンマークのデュースは,当時の函館には「裁判所」が未設置だったため,「斗南藩」を被告とする”民事裁判”は開拓使に提起している。それが明治4年4月11日(1871年5月29日)で,この”裁判”は開拓使が裁くことになった。
この”裁判”において,柴太一郎と川崎尚之助はいずれも「斗南藩には関係なく独断で行った」と述べた。藩を救い一身に責を負うためだったようだ。当時は「口述(自白)」を最も重視する前近代的な”裁判”だったため,明治4年12月8日(1872年1月17日),開拓使により申渡された”判決”は,デュースの請求を斥けるものだった。つまり,柴や川崎の「独断」の認定し,斗南藩に責任を認めなかった。
諦められないデュースは,明治5年6月,デンマーク公使に働きかけ「外交上の談判」により,日本政府に対し補償を求めた。その要求の”法的”根拠は,明治4年7月14日に実行された廃藩置県により,諸藩の外国に対する債務は国(政府)が引き継いだ点にあったが,明確な手続規定は存在していない。
日本政府は,明治6年2月,柴太一郎と川崎尚之助を函館から東京に召喚し,糺問した上で,明治7年3月,「右米買入の義は全くの私用にして藩用にあらざる旨確定した」とデンマーク公使に回答した。これを是としないデンマーク公使は,明治8年5月,デュークから公使に提出された日本政府に対する訴訟の要求を日本政府に回送して補償を求めたが,日本政府は自己が負担するものではないと回答した。その後もデンマーク公使は「柴太一郎と川崎尚之助に斗南藩が委任していない証拠を出せ」など不当な口実を設けて責を日本政府に帰せようとしたため,「談判空しく決せず」となった。
民事裁判については,日本の制度自体が未整備の時期でもあったため,スッキリ解決することはなかった。なお,この後,前述のようにデュースは日本政府を訴えるに至るが,同人が,明治22年(1889)4月7日,結論をみないまま急死したため,デンマーク(デュース)と日本(斗南藩)との民事裁判は,当事者死亡で事実上の終結をみた。
刑事裁判の経緯
刑事事件については,司法制度の整備もあり”裁判”が行われない未決のまま,柴太一郎と川崎尚之助は,函館や東京で収容や保釈が繰り返されていた。その間,被告人の一人である川崎尚之助が明治8年(1875)3月20日に亡くなり,被告人は柴太一郎と米座省三の2人となり,明治9年った。
裁判の基準となる”刑法典”について,当時は,明治3年12月20日(1871年2月9日)に頒布され,最初の”刑法典”となった「新律綱領」と,明治6年(1873)7月10日に施行された「改定律例」という,二つが併存し,かつ適用されるという混迷期にあった。実際,二つの”刑法典”には内容が重複する項目もあり,これらを調整する「新律綱領改定律例改正条例伺御指令袖珍対比註解」もあった時代である。
柴太一郎と米座省三は新律綱領第五巻の「詐欺律」の容疑に問われた。
柴太一郎らとデンマーク商人・領事デュースとの間で「約定書」を取り交わした,つまり”犯罪行為”を行ったのは明治3年閏10月。厳密に言えば「新律綱領」であっても「事後法」となる。
しかし,当時はそのような近代法のルールが官憲を拘束することはなかった。「罪刑法定主義」が正に法定され,「事後法の適用」が禁止されるのは,その第2条に「法律ニ正條ナキ者ハ何等ノ所爲ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ得ス」と明記する(旧)刑法が施行される明治15年(1882)1月1日を待たなければならない。
柴太一郎は,新律綱領第五巻の「詐欺律」のうち「詐欺官文書(今の公文書偽造)」に該当するとして,明治9年(1876)12月末,禁錮100日の判決を言渡された。川崎尚之助や米座省三が真実は藩命ではないにも関わらず,それを偽ってデュースとの約定したことを,黙認して奥印したという理由による。石光真人編著「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」に収められた柴五郎自身による回想記には,この判決言渡時の心境を次のように記している。
判決言渡後,柴太一郎は市ヶ谷監獄に収監された。
明治10年(1877)4月6日,刑期満了によりデュースとの事件が発生から7年を経てようやく自由の身となった。「感激流涕」,柴五郎はこの時の感慨を前記回想記でそう書き表している。
一方,米座省三は,新律綱領第五巻の「詐欺律」のうち「詐称官」に該当するとして,懲役2年半の判決を言渡された。真実は「斗南藩商法掛」ではないのに,そう偽って藩用として振る舞ったという理由による。これは真実の「詐称官」である。
陸軍に進んだ柴五郎
陸軍幼年学校から士官学校へ
長兄太一郎が民事・刑事の裁判に苛まれるなか,柴五郎は,旧会津藩元家老山川浩らの支援を受け,明治6年(1873)4月1日,陸軍幼年学校に入校する。
明治10年(1877)5月4日,陸軍士官学校に進む(第3期)。
明治12年(1879)12月22日,陸軍砲兵少尉に任官。
明治13年(1880)12月23日に陸軍士官学校を卒業している。当時の修学期間が,歩兵と騎兵は2年,砲兵と工兵は3年で,後者については,2年の修学の後に任官し,最後の1ヵ年は”生徒少尉”と称され,給与が支給された。
こうして陸軍士官としてのキャリアが始まり,最終的には陸軍大将にまで上り詰める。
最初の清国赴任
柴五郎は任官当初から清国への駐在を熱望し,英語とフランス語に加え清国語の習熟に努めていた。
明治17年(1884)7月1日付で中尉に昇進,同年10月10日,清国福建省駐在の辞令が出される。
当時,清国はフランスとの間でベトナムの支配権をめぐって戦争下(仏清戦争)にあった。フランスは,1884年6月6日,ベトナム阮王朝との間で第二次フエ条約(パトノートル条約)を締結し,ベトナムの保護国化を確定する。これにベトナムの「宗主国」を自認する清国が宣戦布告していた。1885年6月9日,仏清間で天津条約(パトノートル・李鴻章条約)が締結され,清国はベトナムに対する宗主権を放棄し,フランスによるベトナムの植民地化が完成した。
柴五郎が福建省に赴任したのは明治17年(1884)11月24日。
明治20年(1887)4月中旬,北京駐在を命じられる。その密命は,清国と戦争になった際の首都攻略戦に備え,北京周囲10里の兵要地誌の作成にあった。清国語だけでなく,英語とフランス語にも堪能だった柴五郎は各国公使館が集まる北京での情報収集には適任だった。
この任務を終え,満州,朝鮮を視察後,明治21年(1888)4月14日,釜山港から日本汽船の肥後丸に乗り,同月21日,横浜港に帰国している。
明治26年4月には,陸軍参謀次長の川上操六中将に随行し,清国と朝鮮を視察する。目的は,朝鮮半島を巡って対立していた清国との遠くない将来の戦争に備えたもの。
英国赴任と「領事裁判権」の撤廃
明治27年(1894)3月21日,大山巌陸軍大臣の訓令を受け,イギリス公使館附少佐(いわゆる駐在武官)としてロンドンに赴任する。
前述のように,明治27年(1894)7月16日,ロンドンにて駐英公使青木周蔵とイギリス外相キンバレーとの間で日英通商航海条約が調印されたが(同年8月24日批准),英語にも堪能だった柴五郎もその実現に大きく貢献した。
日英通商航海条約第20条は,以下のように規定している(多少の現代語訳済み。)。
これにより,安政5年に締結した日英修好通商条約そのものを失効させることで,グレートブリテン(イギリス)は,同条約により獲得していた領事裁判権(治外法権の一つ)を放棄した。
もちろん,柴五郎の活躍によりも,これまで記したように,司法権の独立と法制度の近代化を進め,明治23年(1890)11月29日には大日本帝国憲法を施行していることが大きい。
イギリスとの条約締結後,明治27年(1894)から翌28年にかけて,”不平等条約”を締結していた欧米14国全てと同内容の条約を締結し,”不平等”の理由の一つとされた領事裁判権の撤廃に成功した。これに伴い「外国人居留地」も廃止されるなど,少なくとも法適用面において日本は欧米諸国と対等な国となった。
なお,もう一つの「関税自主権の回復」は明治44年(1911)まで待たなければならない。しかし,ここが「植民地」との違いで,日本には輸出入の自由があった。確かにこれにより関税収入は減ったのかもしれないが,一定率の関税は課せることができたし,そもそも明治当初の日本には関税を課してまで保護すべき産業はなかった。むしろ封建制度の崩壊による人口増のため食料(米)が不足,これを補うべく仏領インドシナ(ベトナム)などから米の輸入を行っている。関税を課している場合ではなかった。
その意味で,領事裁判権の撤廃を先行させたことは,日本の実態を踏まえた合理的な判断だったのではないだろうか。
日清戦争後
台湾領有
日英通商航海条約の調印によりイギリスとの接近を確信した日本は,直後の明治27年(1894)8月1日,朝鮮半島における清国の支配を排除するため清国に対し宣戦布告,日清戦争が始まる。柴五郎もイギリスから帰国し,広島にて大本営参謀の任に就いた。
明治28年(1895)4月17日,日本の勝利のもと下関条約が調印され,その条目の一つとして日本は清国から台湾の割譲を受ける。
台湾征討軍
割譲を受けた台湾であるが,これに反発する清国軍残党による反乱が台湾で起きていた。日本は,明治28年(1895)6月17日の台湾総督府の始政に先立ち,反乱軍鎮圧のための「台湾征討軍」を送る。
台湾征討軍は,同年5月30日,台湾総督府の幕僚とともに台湾北部の基隆に上陸する。この征討軍の司令官が当時近衛師団長を務めていた(陸軍中将)北白川能久親王。陸軍一の清国通柴五郎も台湾総督府の陸軍参謀としてこれに加わった。
北白川能久親王は,幕末ギリギリのタイミングで急死した孝明天皇の弟。輪王寺宮にとして,歴代の「輪王寺宮」と同様,江戸上野の寛永寺に置かれていた(歴代,幕府の”人質”としての意味があったらしい。)
その輪王寺宮が奥羽越列藩同盟の盟主に擁立され,会津鶴ヶ城に入城したのは慶応4年6月6日(1868年7月25日)。当時8歳の柴五郎少年は,紅白の幔幕が張られた大手門まで毎朝拝みに行っていたらしい。
それから四半世紀後,かつて”賊軍”に属した二人が同じ陣幕の下,奇しくも明治政府が初めて獲得した対外領土で”列強”への第一歩を踏み出す役割を担った。
明治28年(1895)10月21日,台湾征討軍は,最後の台南を攻略し,台湾全島を平定している。
この間の同年6月7日,柴五郎少佐が台湾北部の港町基隆から,まだ日清戦争体制下にあった大本営で参謀を務めていた土屋光春大佐と東條英教中佐(東條英機の父)に宛てた報告書(私信)が残っている。
米西戦争の観戦武官
柴五郎は,台湾平定に先立つ明治28年(1895)8月末に帰国。
再び英国公使館付(駐在武官)の服務を命じられ,明治29年(1896)1月2日,横浜港を発った。太平洋を渡って同月15日バンクーバーに着く。汽車に乗り換え,同月25日にニューヨークに着いた。同月29日出港,大西洋を渡って,同年2月5日イギリスのリバプールに上陸,その日のうちにロンドンに着いた。
明治31年(1898)5月1日,同年4月15日にアメリカとスペインとの間で始まった米西戦争の視察を命じられる。同年5月15日にワシントンの日本公使館に着任,陸軍の観戦武官として戦況を視察した。海軍の観戦武官としてワシントンにいたのは秋山真之。表向きの身分は「海軍留学生」であったが実際は「海軍軍令部第三局諜報課」に属していた。
司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」では,陸海軍の観戦武官について次のように端的に書かれている。
「北京の55日」
清国公使館附駐在武官
明治33年(1900)3月29日,陸軍砲兵中佐柴五郎は,桂太郎陸軍大臣より訓令を受け清国公使館附駐在武官を任ぜられる。北京に駐在するのは13年ぶり2回目となる。
義和団の乱(北清事変)
当時,清国北京に公使館を置いていたのは,日本,イギリス,フランス,ロシア,ドイツ,イタリア,オーストリア=ハンガリー帝国,アメリカ,スペイン,オランダ及びベルギーの11か国(全てが日本と修好通商条約を締結している国)で,全てが紫禁城近くの公使館区域にあった。
北京に着任して早々,明治33年(1900)5月,「扶清滅洋」を叫ぶ狂信的な攘夷集団たる義和団による騒乱が起きる(義和団の乱/北清事変)。北京郊外でのキリスト教に対する襲撃に始まり,次第に中心部の公使館区域に迫って来た。合わせて各公使館を孤立させるべく,電信設備を破壊したり,天津からの鉄道を爆破するなどしている。
接受国による侵略を受ける各国公使館
これに対し,北京の各国の公使館には当然のことながら軍隊は常駐していない。外国公使館・大使館の警備は,接受国(清国)の国際法上の義務である。
その接受国からの攻撃を察知した日本と欧米列強の公使館は,天津港に停泊している軍艦から海軍水兵を北京に呼び公使館の守備につかせることを決めた。日本も,砲艦愛宕から原胤雄海軍大尉と水兵(海軍陸戦隊)24名が同年5月29日に天津を出発,同月31日,北京に到着する。欧米各国の護衛兵(水兵がほとんど)も合計392人が到着する。各国の護衛兵の数は以下のとおり。なお,各国の人数は,柴五郎自身の口述書「北京籠城」による。記す人により多少の誤差がある。
この他,柴五郎のように駐在武官として公使館にいた者を含め約430人が,後に清国正規軍が含め約20万人といえる義和団軍と対峙することになった。
明治33年(1900)6月10日,各国公使館は,不足する兵力少しでも補うため,公使館区域内にあった民間人から「義勇兵」を募った。日本からは留学生,新聞社員,商社マンなど32名が集まった。他の10国からは合計で44名だった。この日本義勇兵の参加数と,戦死者を出すほどの勇敢さも,この事変後,欧米諸国とりわけ英国において日本の評価を高めた。
清国による宣戦布告
明治33年(1900)6月21日,義和団の乱に便乗し,外国勢力の排除を期した西太后は,日本,イギリス,フランス,ロシア,ドイツ,イタリア,オーストリア及びアメリカの8カ国に対し宣戦布告する。
そのため,清国正規軍が加わった20万人ともいわれる義和団軍は,下図のように,公使館区域内に攻め入り,オーストリア公使館やイタリア公使館などを次々に堕とし,民間人の多くが避難し臨時の病院の役目を担っていた英国公使館に迫った。
実質的な総指揮官 柴五郎
公使館を守備する各国部隊は協力し合い,天津からの援軍が到着するまでの間,この義和団と清国正規軍からなる包囲軍と籠城戦を戦うことになった。各国部隊の総指揮官に選ばれたのは,北京駐在イギリス公使のクロード・マクドナルド卿。かつて陸軍軍人として実戦の経験があった。
柴五郎中佐が指揮する”日本軍”は,民間人が避難していた英国公使館を守備する上での要衝地「粛親王府」の守備を担った。柴五郎の冷静かつ的確な指示がマクドナルドを含め各国軍の信頼を得て,柴五郎中佐が実質的な全軍の指揮をとることになった。彼の指揮により,守備隊全体の崩壊を辛うじて食い止め,天津から援軍が来るまで耐えに耐えた。
この「北京籠城」に関する詳細と史実としての価値については,当時の清国公使として日本公使館にいた西徳二郎自身よる「北京籠城報告」に勝るものはない。
西公使は,薩摩藩出身で戊辰戦争では主に越後長岡藩と戦った経験を持つ。この「北京籠城」後の明治35年(1902年)7月12日に生まれた三男(長男と次男は夭折)の西竹一は,陸軍士官学校騎兵科を卒業した陸軍軍人で,昭和7年(1932)に開催されたロサンゼルスオリンピックの馬術競技で金メダルを獲得していた。”バロン西”とも呼ばれていた彼は,後年のアメリカとの戦争において,昭和20年(1945)3月,硫黄島で戦死している。ハリウッド映画「硫黄島からの手紙」では伊原剛志さんが演じていた。
援軍の到着
明治33年(1900)6月20日の籠城戦の開始から55日が経過した,同年8月14日の午前2時頃,待望していた援軍が北京に到着した。柴五郎の口述書「北京籠城」には次のようにその日を様子が描かれている。
鎮圧
日本の福島安正陸軍少将が指揮する臨時派遣隊(第5師団と第11師団の一部)を中核とする八ヵ国連合軍は,翌日の明治33年(1900)8月15日に至り,義和団軍をほぼ鎮圧,下図のとおり分担地域を決めて北京市内を占領し,北清事変は”終戦”となった。
ロシア軍による掠奪と日本軍の規律
北京占領後,ロシア軍はもちろん,イギリス軍も“戦利品”の掠奪に明け暮れ,めぼしい物を大英博物館に運んだ。この惨劇については,司馬遼太郎の「坂の上の雲」で次のように描かれている。
北支事変による被害
「北京籠城」に加わった日本人の氏名など,各国の死者数と日本のその内訳についても,次のように清国公使西徳二郎自身よる「北京籠城報告」に掲載されている。
「北京籠城」により海軍陸戦隊は以下の5名の戦死者を出している。彼ら海軍陸戦隊の奮戦について,陸軍中佐の柴五郎はその口述書「北京籠城」で次のように賛辞を送っている。
義勇隊すなわち非軍人の戦死者は次の3名である。非軍人ではあっても2人は外交官なのは,その職責か。もっとも”日本軍”のなかで最初に戦死したのは,民間人の中村秀次郎。彼は,北京にあって日本公使館の用達業を営んでいた「筑紫洋行(筑紫弁館)」の社員。筑紫洋行は義和団による焼き討ちにあっていた。
彼ら非軍人を組織した義勇隊の隊長として指揮していた安藤辰五郎陸軍歩兵大尉は,明治33年(1900)7月6日,胸部に被弾し戦死した。柴五郎の口述書「北京籠城」には,安藤大尉の戦死について次のように述懐している。
安藤大尉は陸軍としては唯一の戦死者であった。”終戦”直後の8月16日(明治33年),柴五郎は,この時の陸軍責任者として北京から陸軍省宛に「死亡通報」を発している。
日本に対する世界の眼
賞賛
天津からの援軍が到着するまでの55日間,公使館区域すなわち民間人を護ることができたのは,激戦となった粛親王府を護った柴五郎中佐率いる海軍陸戦隊及び義勇兵の活躍があったためと称賛された。
そのため,”戦後”に各国元首から柴五郎中佐への勲章の贈呈が相次ぐ。以下はその一例。
イタリア皇帝ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
イタリアは士官以下全員が,6月23日以降,粛親王府に入り柴五郎中佐の指揮下に入り共に闘った。
フランス大統領エミール・ルーベ
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
ロシア皇帝ニコライ2世
日本国内
「北京籠城」に関わる小銃,亜鉛版,鉄板及び煙火筒を天覧に奉供した後に(靖国神社)遊就館に提供し,公衆の閲覧に供した。その際,柴五郎は,例えば「小銃12挺」について,次のように説明している。
イギリスが日本と同盟へ
「義和団の乱」に対する総指揮官にあったイギリス北京駐在公使のクロード・マクドナルド卿は,鎮圧まもない明治33年(1900)10月,それまでのアーネスト・サトウ氏と交代する形で,駐日イギリス公使に任命され,東京の英国公使館に赴任した。
明治35年(1902)1月30日,イギリスと日本との間で日英同盟が調印される。この条約に基づくイギリスの有形無形の協力が,2年後のロシアとの戦争において客観的には劣位の日本を大いに助けた。
当時,いずれの国とも同盟を結んでない超大国のイギリスが,東洋の新興国に過ぎない日本と同盟を結ぶに至ったのは,対ロシアという利害一致に加え,北京で実際に観た柴五郎と日本軍に対し,駐日公使マクドナルドが信用が大きく影響していたと評されている。
日露戦争
因縁のデンマーク
後の日露戦争にも関係するが,明治初期における「電信網」の整備には,意外にも柴兄弟に因縁のあるデンマークが関係している。前述のように,”最後の将軍”徳川慶喜の時代に日丁修好通商条約が締結され,日本とデンマークとの間で国交が樹立されたが,スイスやスペインなど単に条約を結んだだけの国と異なり,デンマークは積極的に日本と関わっている。柴太一郎が”裁判”に,海底ケーブルもその一つ。
日本における海底ケーブルの敷設は意外に早い。明治日本の海底ケーブル敷設の過程については,国立公文書館が開設する下記サイトに詳しい。
明治4年11月21日(1872年1月1日)に【上海-長崎-ウラジオストック】に完成する。ただし,これは「大北電信株式会社」というデンマークの会社が,デンマークとロシアとの間の協定に基づき,日本政府の許可を得て行ったもの。
このケーブルと接続するため,明治6年(1873)2月,日本は自ら【長崎-横浜-東京】に電線を引いたが,その際,関門海峡に海底ケーブルを敷設した。
しかし,デンマークは敷設した海底ケーブルはロシアとの協定の基づき敷設されたもの。そのため,ロシアを仮想敵国とした明治後半の日本は,安全保障上の理由から,大陸との日本との間の自国による海底ケーブルの敷設を決意する。
明治29年(1896)から翌30年(1897)にかけて,【(鹿児島)大浜-奄美大島-沖縄-石垣島-(台湾)淡水】に海底ケーブルを敷設し,日清戦争の勝利で割譲された台湾との電信が可能となった。加えて,明治31年(1898)12月に【淡水-福建省】間の海底ケーブルを清国から買収することにより,大陸との電信を可能とした。
これに,さらに大きな意義をもたせることになるのが,明治35年(1902)1月30日に締結された日英同盟。
イギリスは既に福建省(香港)を含め世界にケーブル網を張り巡らしていた。これと日本側のケーブルを繋ぐことで,日露開戦後,日本は,ヨーロッパにおけるロシアの情報やバルチック艦隊の航路・現況などに関する情報を,この同盟国イギリスの通信網を使って得ることができた。
明治37年(1904)1月には,佐世保から,当時ロシアが租借していた(遼東半島の)大連まで敷設に成功する。それを待っていたかのように,同年2月6日,日露戦争が始まる。
「敵艦見ゆ」
明治37年(1904)9月には,【(山口県)角島-沖ノ島-対馬】間に敷設されるが,これは来るべきロシアのバルチック艦隊との海戦に備えたもの。
実際,同艦隊はこの海域を通過し,明治38年(1905)5月27日,日本海海戦が始まった。
「敵艦見ゆ」の第一報は,同年5月27日午前4時50分,警戒に当たっていた信濃丸から当時の最先端技術である「無線」により届けられた。
もっとも,“坂の上の雲”にも「日本人として最初にバルチック艦隊の進航してくる姿を見た人があり。沖縄の粟国島の出身で,奥浜牛という29歳の青年であった」と記されているように,同月23日に,奥浜牛という青年が宮古島沖で発見し,同年5月26日午前10時頃,宮古島に着き駐在所に届けた。しかし,宮古島には通信施設がなく,あるのは170キロ離れた「石垣島」。
石垣島までこの情報を届けるべく,宮古島の松原村から5人の漁師(「久松五勇士」と称されている。)が選抜され,170キロ離れた石垣島まで15時間サバニを漕ぎ続け,同年5月27日午前4時頃,石垣島の八重山郵便局に着いた。ここから打たれた電信が沖縄(那覇)を経由して東京の大本営に伝えられたのは,惜しくも信濃丸からのそれの数時間後だったらしい。
晩年
任 陸軍大将
大正8年8月22日,柴五郎は,内閣総理大臣原敬から陸軍大将に任ぜられる。
同年11月,台湾軍司令官に就任する。
そして,大正8年3月23日,予備役に編入され,昭和5年(1930)4月,72歳で退役となった。
最後
退役後も長命し,陸軍最年長者として昭和20年(1945)8月15日の終戦を迎えた柴五郎は,1ヶ月後の同年9月15日に上野毛の自宅で切腹を図るが達せず。しかし,それが原因となり,同年12月13日,85歳で亡くなった。
陸軍大将とはいえ,既にGHQの占領下にあった日本では,同月19日付け朝日新聞に掲載された死去を報じる記事は小さい。「宮中杖」は,昭和14年に(昭和)天皇から下賜されたもの。
上野毛に近い世田谷区の用賀神社には,大正8年建立「戦捷記念碑」の揮毫は,当時,陸軍中将だった柴五郎によるもの。
用賀神社から歩いて8分ぐらいの場所に東條英機邸があった。東條英機は,柴五郎の4日前,用賀の自宅をG H Qに囲まれた昭和20年(1945)9月11日にピストル自殺を図っている。父親の英教と同年代の大先輩で近くの上野毛に住む柴五郎を,終始気にかけて,敬いながらも交流していたようだ。
二度の結婚願
柴五郎は生涯2度結婚している。
当時,明治14年4月2日に発行されていた「陸軍武官条例」があった。その第2条で,柴五郎のような准士官以上にある者の結婚については,陸軍大臣の「許可」が必要だった(これが将官になると天皇の「勅許」が必要で,下士官以下は結婚が許されなかった。)。また所属長官(将官の場合は陸軍大臣)の「奥書」が求められた(第5条)。結婚相手についても「その娶るべき婦人は行状端正の者に非れば結婚するを許さず。故にその行状を証するため第2号書式に照しその婦の所在地戸長の調印したる身元証書を添うべし」と規定し,結婚願に身元証書の添付が義務付けられていた(第6条)。さらに大尉以下については,陸軍省による生計保護を目的とした家計保護金(大尉は460円)の預託も義務付けられていた(第7条)。
このように陸軍士官であった柴五郎の結婚は,陸軍大臣による許可制だったため,直筆の「結婚願」が公文書として残っている。
1回目は,最初の清国赴任から帰国し,陸軍士官学校教官を務めていた明治24年(1891)3月5日付で「結婚願」を大山巌陸軍大臣に提出している。「奥書」は陸軍士官学校を管轄していた将校学校監の滋野清彦少将。当時の階級は「大尉」だったため,家庭保護金460円預託の対象だった。
相手は,旧土佐藩士で明治政府にて元老院議官まで務めた中村弘毅の遺児,中村熊衛。明治25年(1892)6月15日に長女を出産したが,その2ヶ月後に急逝している。
二回目は,参謀本部に所属していた頃,再度の北京駐在直前の明治32年(1899)12月18日付け「結婚願」を桂太郎陸軍大臣宛に提出している。「奥書」は参謀本部長の大山巌。相手は,旧佐賀藩主鍋島直正の姪にあたる鍋島ミツ。
以上,要するに柴五郎という人物は,その筆跡からもうかがえるよう,正に会津武士らしい,質実な人だった。