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国民党・共産党 of China 【前編:辛亥革命を育んだ明治日本】

明治日本と清国の関係

国清国交樹立

 日本と”中国”が初めて正式な国交を結ぶのは,150年前の明治4年7月29日(1871年9月13日)。
 当時の”中国”は,満洲の女真族が漢民族などを征服して成立している,辮髪に纏足の清王朝。
 同日,明治新政府と清王朝との間で対等な日清修好条規が締結され,初めて正式な国交が樹立された。

日清戦争による関係の深化

 しかし,明治27(1894)年8月1日,日清戦争が始まる。
 明治28(1895)年4月17日,日清講和条約(下関条約)が締結さ。
 もっとも,日清間の交流は,戦前よりむしろ深まり,日本は清国から多くの留学生を受け入れることになる。
 特に,日本の陸軍士官学校への入学を目指した清国人留学生の受入れは,日清戦争後の伊藤博文と李鴻章による下関和平交渉の過程で両国協力して欧州列強を打倒しようという合意により,明治31年(1898)年から始まっていた。

日露戦争の波紋

 他方,日本とロシアの間で,明治37(1904)年2月6日,主に満洲を戦場とした日露戦争が始まる。
 日本の勝利で終わり,明治38(1905)年9月5日,日露講和条約(ポーツマス条約)が締結される。
 アジアの日本がヨーロッパの強国ロシアに勝利した衝撃と羨望は,日本人が思っている以上に,ヨーロッパによる植民地支配に苦しむアジアの人々に大きかった。
 日本は,正式な留学生だけでなく,清王朝打倒を目指す”革命家”の亡命先ともなっていく。ちなみに,その現象は清国に限らず,フランスの植民地下にあったベトナムも同様であった。

孫文が東京で結成「中国革命同盟会」

中国革命同盟会

 明治38(1905)年8月1日,アメリカ合衆国西海岸のポーツマスで日露講和会議が始まるが,その最中の同月20日,日本の東京において,孫文らの興中会,華興会及び光復会等の革命政治結社が合併し,孫文を総理として結成されたのが中国革命同盟会(中国同盟会)である。
 その目的は,清王朝の打倒。
 孫文が灯した革命の灯火に,革命の士が集う。
 その代表格が,後に孫文の後継者としてライバルになるだけでなく,日本と真逆の関係に立つことになる汪兆銘と蒋介石。

孫文

「夜空に光芒を放つ一條の流星」に革命を誓う

 文京区の白山神社境内に「孫文先生座石」がある。
 その由緒の主要部は以下のとおり。
 明治43(1910)年5月中旬の夜,孫文は,彼を保護・支援していたアジア主義者の宮崎滔天と,この石に腰掛けながら祖国の将来などについて話していたところ,たまたま「夜空に光芒を放つ一條の流星」があらわれ,この奇遇に祖国の革命を心に誓ったという。
 事実,この年つまり1910(明治43)年5月19日,あのハレー彗星が地球に大接近し,大騒ぎとなっている。孫文は,白山神社境内にある石に腰掛けながら,思わぬハレー彗星に遭遇したことで,革命の成功を心に誓ったという。
 事実,約1年半後の1911(明治44)年10月10日,いわゆる辛亥革命が勃発し,孫文がこれを主導することになる。ただし,この「革命」が成功したと言えるか否かは,孫文が亡くなる直前に腹心の汪兆銘に語った「革命未だならず」という有名な言葉に答えが出ていると思う。

明治四十三年五月中旬の一夜,孫文先生は滔天氏と共に,境内の此の石に腰掛けながら中国の将来及び其の経綸について幾多の抱負を語り合わされて居た折,たまたま夜空に光芒を放つ一條の流星を見られ,此の時祖国の革命を心に誓われたと言ふお話をなされました。
宮崎滔天全集の中に,孫文先生は当神社に程近ひ小石川原町の滔天氏宅に寄寓せられて居た事が記るされております。

孫文先生座石(抜粋)
孫文先生座石@白山神社

文人 汪兆銘

法政大学に学ぶ

 汪兆銘は,孫文の臨終に立会い「革命未だ成らず・・・」との有名な遺言を書き記した本人である。中国国民党において,孫文の後継者となったのは,蒋介石ではなく汪兆銘である。
 しかし,汪兆銘は,科挙合格者。要するに清王朝のエリート。
 汪兆銘は,官費をもって日本に留学している。日露戦争中の明治37(1904)年9月に日本に渡り,法政大学に学んでいる。留学の間,清王朝の官費留学生でありながら,日本に亡命していた孫文に会い,その革命思想(「三民主義」と呼ばれるもの)に影響を受けた一人である。

汪兆銘

中国革命同盟会に参画

 実際,汪兆銘は,日本留学中,孫文の興中会に入会,そのまま中国革命同盟会の結成に参画する。
 その意味で,汪兆銘は孫文の最も古くからの同志であり,もともと単なる軍人だった蒋介石よりもその後継者として位置づけが濃かった。
 しかし,その経歴からわかるように,汪兆銘が,軍事的な背景をもっておらず,むしろ清王朝の文人的性格が濃かったことは,これ以降の”乱世”にはマイナス要因となった。

軍人 蒋介石

初めての日本

 他方の蒋介石は,近代国家では敬慕の対象ではあるが,清王朝では未だに蔑まれていた「軍人」を志した。
 自ら辮髪を切り落とし,明治39(1906)年4月,母親の援助(つまり自費)で初めて日本の地を踏んだ。
 蒋介石の日本に対する最初の印象について,サンケイ新聞社が昭和50(1975)年に刊行した「蒋介石秘録2 革命の夜明け」44頁は,次のように記録している。

 日本全体が活気にあふれ,近代建築が続々と建ち,工業力を象徴する煙突から黒煙が立ちのぼっていた。同じ東洋の国でありながら,西欧列強の圧力にめげずに自立しようとする民族の力が感じられた。

昭和50(1975)年サンケイ新聞社「蒋介石秘録2 革命の夜明け」44頁

 蒋介石の初来日は,私費でもあり入学や入隊は叶わなかった。
 そのため,最初の来日は6ヶ月で終了したが,近代国家への脱皮を遂げつつあった日本を目の当たりにしたことと,中国革命同盟会に接触し,革命思想に触れたことが,蒋介石のその後の人生を大きく変えることになった。

東京振武学校に入学

 蒋介石は,明治41(1908)年3月,今度は選抜された留学生として二度目の来日を果たし,東京市ヶ谷にあった東京振武学校に11期生(全62名)として入学している。
 東京振武学校は,近くの陸軍士官学校に入学するべく,日本へ留学してきた清国人のための予備学校。
 陸軍士官学校へ入学するための清国人留学生の受入れは,日清戦争後の伊藤博文と李鴻章による日清講和条約(下関条約)の過程で育まれた両国協力して欧州列強を打倒しようという合意により,明治31年(1898)年から始まっていた。
 当初は,同じ市ヶ谷にある成城学校(成城中学高校として現存)が,日本人とともに清国人留学生を受けれていた。成城学校は,川上操六や児玉源太郎などが校長を務めた陸軍士官学校入学のための予備学校で,日露戦争で戦死した乃木大将の二人の息子も卒業生。明治36(1903)年に,陸軍参謀本部の直轄の東京振武学校が設立され,陸軍士官学校を目指す清国人留学生は全て東京振武学校に入学するようになっていた。

野砲第十九連隊へ配属

 明治43(1910)年12月4日,蒋介石は,東京振武学校を卒業する。彼と同期11期生62名全員(全て清国からの留学生)は,仙台の第二師団隷下,第十三師団(師団長・長岡外史)に配属され,同師団が司令部を置く新潟県の高田に着いた。
 蒋介石は,第十三師団隷下連隊のうち野砲兵第十九連隊(連隊長・飛松寛吾)に配属された。

蒋介石(蒋中正)

第一革命 打倒清王朝(辛亥革命)

1911年10月10日  武昌蜂起

 蒋介石が新潟の高田で日本陸軍による訓練を受けていた頃。
 明治44(1911)年10月10日,武漢市の武昌で偶発的に発生した革命派の一部による武力蜂起が成功し,いわゆる辛亥革命の口火が切られる。
 ただし,その発火当時,孫文はフランスにあった。
 しかし,一度着いた革命の火は,瞬く間に清国全土に飛び火した。

日本陸軍からの”脱走”

 「武昌蜂起」を知った蒋介石は,帰国を企図し,長岡師団長に対して休暇・帰国を申請したが,不許可となる。これは軍務に就任中なので当然の措置。
 諦められない蒋介石らは,”脱走”を図る。飛松連隊長に対し48時間の休暇を申請,これには成功する。
 事情を察した高田連隊の上官や同僚は,水盃の送別の宴を催したという。
 こうして,蒋介石は,同じ連隊に配属されていた同志の張群らとともに上京,汽車で長崎まで行き上海航路の「長崎丸」に乗り込んだ。途中,捜索をおそれた蒋介石は,和服に草履,張群は学生服に変装し,軍服や帯剣などは手入れして郵便で連隊に送り返却したという。
 以上の知見は,PHP新書「蒋介石が愛した日本」から得たもの。
 こうして,蒋介石らは,連隊から”脱走”する形で清国へ帰国し,革命運動に身を投じた。もし,ここで日本の何者かが蒋介石の帰国を原則通りに止めていたら,”中国”の歴史も日中の歴史も異なる過程を経たであろうことは間違いない。
 ちなみに,この後の大正2(1913)年1月15日,長岡外史中将に代わって新潟高田の第十三師団長に就いたのが,秋山好古中将。

中華民国の成立

 武昌蜂起はフランス滞在中の孫文にも偶発だった。
 急遽,明治44(1911)年12月25日,フランス・マルセイユから上海に帰国する。
 もっとも,全国にランダムに飛び火した革命諸勢力の首領になりうるのは,孫文のほかになかった。
 こうして革命諸勢力に推された孫文は,明治45(1912)年1月1日,南京において「中華民国(Republic of China)」の成立を宣言するに至る。東洋において初の共和制(Republic)国家の誕生である。
 孫文は,中華民国臨時政府の初代臨時大総統に就任することになる。
 しかし,清国が未だ健在であり,中華民国を名乗るも「国家」として領土や国民を支配するという状況にはなかった。孫文もあくまで「臨時」であり,そもそも配下に武力はなく,その基盤は限りなく脆弱だった。

清王朝の滅亡

 未だ健在だった清王朝において実権を握っていたのは,北洋軍閥の”頭”袁世凱である。
 ここで孫文と袁世凱が謀り,袁世凱に清国皇帝を退位せしめ,その引き換えとして,中華民国の臨時大総統の地位を孫文から袁世凱に譲るという密約が成立することになる。
 この密約に基づき,明治45(1912)年2月12日,結果的にラストエンペラーとなった宣統帝が退位し,清朝が滅亡することになる。

孫文から袁世凱への”禅譲”

 宣統帝退位の翌日である明治45(1912)年2月13日,孫文は,臨時大総統を自ら辞し,その後任に袁世凱を推した。
 袁世凱は,同年3月10日,中華民国の第二代臨時大総統に就任する。
 こうして清王朝の遺物のような袁世凱を”頭”として,曲がりなりにも「共和制(Republic)」としての中華民国が「国家」としての産声を上げることになる。
 奇しくも日本では,「明治」が同年7月30日に終わり,同日以降,”デモクラシー”や”モダン”や”ロマン”に象徴される「大正」という新しい時代が始まっていた。

袁世凱

共和制の中華民国

アジア初の共和制

 中華民国は「共和制」の国家である。共和制とは君主がなく,大統領(大総統)を頂きに置く政治体制であるが,どうも中華民国がアジア初らしい。中華民国には(臨時)大総統だけでなく,政党もあれば国会もあった。
 実際,袁世凱が第二代臨時大総統に就任した後の1912(大正元)年12月から翌年3月にかけて,中華民国で初となる第1回国会議員選挙が行われた(当然,普通選挙ではない。)。

国民党の結成

 前述のように,孫文や宋教仁らは,明治38(1905)年8月20日,革命勢力を統合し,東京で立ち上げた中国革命同盟会(中国同盟会)を立ち上げている。この中国革命同盟会を中心に,大正元(1912)年8月25日,「国民党」が結成されることになる。
 事実上の党首は宋教仁(法政大学に学んでいる。)。孫文も党員ではあったがトップではない。
 なお,後の大正8(1919)年10月10日(双十節),中国革命同盟会(中国同盟会)とは異なる組織である「中華革命党」を前身に結党され,現在の台湾に続く中国国民党と,上記の宋教仁を党首とした「国民党」との間には連続性はなく,無関係とされている。これは後に述べるが,この「国民党」は袁世凱によって大正2(1913)年11月4日に解散させられているからである。このあたりの分かり難さが,清王朝滅亡後の”中国”の混迷・迷走の証左と言えなくもない。

  1. 中国革命同盟会(1905)→国民党(1912−1913)

  2. 中華革命党(1914)→中国国民党(1919〜)

国民党が第一党に

 国民党のほか100近い党派が結成されたが,選挙の結果,衆議院と参議院の両院で,国民党が第一党となった。
 そうなると,”しかし”というか”やはり”というか(第二代)臨時大総統の袁世凱は,1913(大正2)年3月22日,国民党の党首である宗教仁を暗殺し,国民党の弾圧へ向かうことになる。

第二革命 打倒袁世凱

逆に国民党の弾圧へ

 袁世凱による弾圧の動きに対し,国民党は,袁世凱の打倒を企てる。
 これが1913(大正2)年7月から同年8月にかけた「第二革命」であるが,逆に袁世凱によって鎮圧される。

中華革命党(現在の中国国民党)が東京で誕生

 「第二革命」に失敗した国民党の孫文は,1913(大正2)年8月8日,日本に(何度目かの)亡命している。
 日本にあった孫文は,翌1914(大正3)年7月8日,当時,東京の築地にあった精養軒(関東大震災で焼失)で「中華革命党」を結成する。その目標は,自分が蒔いた種ではあるが,やはり袁世凱の打倒である。なお,前述したが,この東京で結党された中華革命党こそが,台湾の地で現在に続く「中国国民党」の前身である。

袁世凱 初代大総統に選出

 ”臨時”大総統だった袁世凱は,大正2(1913)年10月6日に行われた初めての大総統選挙で(臨時ではない)中華民国初代大総統に選出されることになる。
 孫文はまだまだ存命であったが,孫文は立候補せず,その他確かな対立候補はなかった。

日本による「中華民国」の承認

 日本(イギリスなども)は,袁世凱が初代大総統に選出された大正2(1913)年10月6日,その日に「中華民国」を国家として承認している。
 こうして,清王朝滅亡後に宙に浮いていた”中国”との国交を回復したが,このあたりの機微については,下掲の拙稿にて詳しく書いているので,ご参照してください。

中国四千年の歴史 独裁と群雄割拠へ

国民党の解散

 ”しかし”というか”やはり”というか,「共和制」の大総統に選出されたはずの袁世凱は,”中国”の宿命ともいえる「独裁制」を指向することになる。
 大総統に就任した袁世凱は,まず1913(大正2)年11月4日に,対立していた国民党に対し,第二革命に関係した等の理由により解散命令を出す。
 これにより国民党の議員の資格が剥奪されるとともに,国民党は解散させられた。国民党はここで断絶することになる。

国会の解散

 さらに,袁世凱は,1914(大正3)年1月10日,産声を上げたばかりの中華民国の国会をも,解散させてしまう。

皇帝へ即位

 さらにさらに,袁世凱は,翌1915(大正4)年12月12日には共和制をも廃止し,帝政を復活させる。国号を中華民国から中華帝国に改称し,自ら「中華帝国大皇帝」に即位する。
 しかし,この時代に逆行した動きに支持するものは少なく,反旗が翻るのに時間はかからなかった。

第三革命 打倒帝政

護国戦争

 袁世凱による帝政への復古に反旗を翻したのが,軍人の蔡鍔
 蔡鍔は,蒋介石らよりも早く日露戦争前の1899(明治31)年,日本に留学している。東京振武学校ができる前,日本人と一緒に成城学校で学び,陸軍士官学校へと進学した人物である。
 1915(大正4)年12月25日,蔡鍔は,護国軍を結成し,皇帝袁世凱の打倒を目指し雲南から進軍を開始する。
 これが護国戦争と呼ばれ,第三革命に位置付けられる内戦である。
 帝政に対する想定外の評判の悪さと軍からの反旗に,袁世凱は,翌1916(大正5)年3月,しぶしぶ帝政を廃止することになる。

蔡鍔

袁世凱の死

 袁世凱は,失意のまま3ヶ月後の1916(大正5)年6月6日,急逝する。孫文よりも早死であった。
 袁世凱の死後,彼が支えていた武力による統制が失われ,中華民国は,かえって混迷の度を深めることになる。

軍閥の割拠による乱世へ

 袁世凱の後楯は,北洋軍(北洋軍閥)。
 その北洋軍閥が,安徽派と直隷派に分裂する。これらは漢民族。
 さらに満洲族の張作霖率いる奉天派が擡頭する。
 北方では,この三派による鼎立状態の三すくみ状態となっていた。
 さらに,南方にも広西派や広東派といった軍閥が勢力を有していた。
 要するに,清王朝は倒れたが,軍事を背景に力で統治していた袁世凱が亡くなるや,満洲を含め全土が群雄割拠する時代に逆戻,乱れに乱れた。

乱世に生まれた中国国民党と中国共産党

 袁世凱の死後,いつもの乱世に戻った”中国”。
 1919(大正8)年10月10日,孫文は,いわゆる五四運動に「国民」による統治の可能性を見出して,中華革命党を改組,エリートに限らない一般国民にまで裾野を広げた中国国民党を結党する。
 これに対し,国の混乱に乗じて1921(大正10)年7月1日に誕生したのが中国共産党である。
 中国国民党と中国共産党の主力メンバーはいずれも日本へ留学した者であり,その両党が合作と離散をしていく過程については,本稿の続編である下掲のNOTEを。


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佐川明生@法律家
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。