見出し画像

芥川賞作家とサイゴン裁判

「プレオー8の夜明け」

その書き出し

 作家の古山高麗雄氏が,サイゴン裁判のC級戦犯容疑者としてチーホア刑務所とサイゴン中央刑務所(彼が収監された雑居房が「プレオー8」)に収監されていた日々を描き,昭和45年(1970)に芥川賞を受賞した「プレオー8の夜明け」は,次の書き出しで始まる。

毎朝,私たちは,ヴェトミン独立歌の斉唱で起こされる。ドアン クン ヴェトナム ディ チュン ロン チュウ クォック…(越南軍の進軍だ。祖国を救わんと,一心一如…)

「進軍歌 (Tiến quân ca)」

「ドアン クン…」で始まる”ヴェトミン独立歌”をベトナム語に戻すと,

Đoàn quân Việt Nam đi chung lòng cứu quốc…,

 これは「進軍歌 (Tiến quân ca)」と題される,当時のヴェトミン(ベトナム民主同盟会/の軍歌。
 2014年1月1日施行の現行憲法13条3項に「Quốc ca nước Cộng hòa xã hội chủ nghĩa Việt Nam là nhạc và lời của bài Tiến quân ca(ベトナム社会主義共和国の国家は”進軍歌”の曲と詩である。」と明記されているように,現在のベトナム社会主義共和国の国歌でもある。
 日本人とベトナム人,”戦犯”に”政治犯”と理由は異なれど,同じくフランスに自由を奪われているベトナム人たちの「一心一如(チュンロン/chung lòng)」な歌声が,サイゴン中央刑務所に座していた日本人へ,その日の夜明けを告げていたようだ。

画像1
現行ベトナム憲法第13条

南方軍,ダラットへ

終戦の地

 昭和16年(1941)11月6日に東京で編成された南方軍は,当初サイゴンにその総司令部を置き,同年12月8日のマレー上陸作戦により英米開戦の口火を切った。
 その総司令部は,戦局の変遷とともにシンガポール,マニラに移転し,米軍にレイテ島を奪われ,ルソン島戦を控えた大戦末期の1944年(昭和19)11月17日には,ベトナムに帰ってきた。もっとも,そこはサイゴンではなく,アメリカ軍のベトナム上陸を想定し,フランス統治時代の高原の避暑地(つまり山間部)のダラット(Đà Lạt) だった。
 総司令部の移転に伴い,必然的にシンガポール,フィリピンあるいはインドネシアなど「南方」で作戦展開していた日本軍将兵,特に憲兵などの非戦闘要員も”転進”し,終着地のベトナムで8月15日を迎えた者も多かった。

フランスによる再植民地化

1945年9月6日,戦勝国としてサイゴンに進駐してきたイギリス軍は,自領のシンガポール・マレーシアや,米領フィリピン,蘭領インドネシアにおける「戦犯」をインドシナ(ベトナム)で捜索し,拘束してチーホア刑務所に収監した。1946年2月,イギリス軍は撤退を開始するが,それに先立って自身が拘束した戦犯容疑者を,現地で設置された軍事裁判にかけるべく,自領シンガポールなどに移送していた。
 イギリス軍に入れ替わりベトナムに戻ってきたフランス軍は,1946年3月から,新たに「戦犯局」を設置し,独自に「戦犯」の捜索と拘束を始めた。この実行部隊としては植民地支配に悪名高き「シュルテ(探偵局)」があたった。

復員船を待つ

 その頃,古山氏は,所属していた第二師団司令部の抑留地としてイギリスに指定されたバリア( Bà Rịa) という地に抑留され,そこからほど近い,当時Cap Saint -Jacques(サンジャック岬/聖雀岬)に来るであろう復員船を待っていた。
 ここは現在のブンタウ(Vũng Tàu)で,サイゴンから約100キロ弱の海岸の街,昭和21年(1946)4月以降,ベトナムから復員する日本人を載せた復員船が出た港の一つである。例えば,第二師団隷下の連隊のうち通称”若松聯隊”と呼ばれる歩兵第29連隊は,1946年4月29日にリバティ号でサンジャック/ブンタウを出港している。
 しかし,フランス軍は,これに先立ち「戦犯」の蓋然性が高い,憲兵,憲兵関係者,そしてフランス軍人を収容した俘虜収容所に属し者の復員を認めず,留め置いた。

画像2

収監

チーホア刑務所へ

 1946年3月,バリアに抑留され,第二師団司令部の他の隊員とともにサンジャックへの復員船を待っていた古山氏は,フランスの戦犯局から出頭を命じられ,サイゴン郊外のチーホア刑務所に収監された。
 チーホア刑務所は,日本人の設計で1943年から建設工事が始まった新しい(未完成の)刑務所で,現存・現役である。四階建で,当時のフランスは,戦犯容疑者をTN(Tres Noir/真黒),N,B及びTB(Tres Blanc/真白)と四段階に分け,容疑の濃い者から上階に収監しており,古山氏は「TN」として四階に収監されていたそうだ。

サイゴン中央刑務所へ移監

 取調べなどが行われることもないまま,1946年8月7日,古山氏はチーホア刑務所からサイゴン中央刑務所に移監される。
 サイゴン中央刑務所は,サイゴン裁判が行われた西貢常設軍事裁判所と,現在のリ・トゥ・チョン通り(Đường Lý Tự Trọng),当時の「Rue de La Grandìere」を挟んで向かい合っていた。西貢常設軍事裁判所とサイゴン中央刑務所は,現在のナム・キー・コイ・ギア通り(Đường Nam Kỳ Khởi Nghĩa),当時は1945年12月28日に変更されたばかりの「Rue Général De Gaulle(ド・ゴール将軍通り)に沿って建っていた。このあたりの通り名の変遷は「BC級戦犯が座したサイゴンの刑務所」に書いた。
 
 古山氏が,フランスが名称を変えたばかりの「Rue Général De Gaulle(ド・ゴール将軍通り)」を小型トラックで護送され,チーホア刑務所からサイゴン中央刑務所(Maison Centrale de Saigon)に移監された日の様子を,次のように記している。

私たちは中央刑務所に直行するのではなく,いったん裁判所で降ろされた。廊下でしばらく待たされた後,一人ずつ部屋に呼ばれて,書類にサインをさせられた。何のサインかと通訳に訊くと,起訴されたことを認めますサインです,と言った。刑務所は道路を隔てて裁判所と向かい合っていた。刑務所の前には,ホットドッグ屋が屋台を出し,草菓子屋やカーレンカイ屋が,籠や箱を据え,賑わっていた。刑務所の前には,メゾン・サントラル・ド・サイゴンと書いてあった。

画像3

仏印臨時俘虜収容所

 古山氏は,朝鮮半島で生まれたが父親が仙台出身ということで,仙台で編成され宮城県,福島県及び新潟県3県出身者で構成される第二師団,その司令部管理部衛兵隊に所属していた。フィリピン,ビルマ,雲南などを転戦した後,昭和20年(1945)3月9日から実行された「明号作戦」により大量に生じたフランス軍俘虜(捕虜)を収容するための「仏印臨時俘虜収容所」が設置されたことを契機に,その配属となった。
 仏印俘虜収容所はサイゴンに本所があった。加えて,上陸後のアメリカ軍とゲリラ戦を想定し,捕虜を飛行場の修復及び陣地構築への労役にあてることも視野に,ラオス南部パクセ(Pakxe)に分所を設け,またその分遺所を,30キロほど離れたパクソン(Pakson)に設けた。
 仏印臨時俘虜収容所サイゴン本所は,(現在もそのままの)サイゴン市内の動植物園の近く,フランス陸軍の兵舎(マルタン・デ・パリエール兵舎,caserne Martin des Pallières)を接収し,そこに設置された。

画像4

 当時のマルタン兵舎(つまり仏印臨時俘虜収容所)は,現在のホーチミン市国家大学-社会人文科学大学校(Trường Đại học Khoa học Xã hội và Nhân văn - Đại học Quốc gia Tp. HCM)を含む広大な区画にあった。現在は一本に繋がっているトン・ドゥック・タン通り(Đường Tôn Đức Thắng)とディン・ティエン・ホアン通り(Đường Đinh Tiên Hoàng)を分断する形で,植民地サイゴンに君臨していた。
 後の南ベトナム時代にマルタン兵舎が取り壊されて一本の通りに繋がったが,レ・ズアン通り(Đường Lê Duẩn)を境に,通りの幅員と名称が変わるのはその名残りだそうだ。

判決

禁錮8ヶ月

 フランス戦犯局に「TN」の烙印を押された古山氏の容疑は,仏印俘虜収容所のパクソン分遺所での勤務時に「病気のフランス人捕虜の面倒をみないフランス衛生兵捕虜1人を1回ビンタした」というものらしい。それだけのものだが,C級戦犯容疑で逮捕・勾留され,サイゴン裁判に服した。
 結局,昭和22年(1947)4月,西貢常設軍事裁判所で禁固8ヶ月を言渡されるが,いわゆる未決勾留日数参入により,判決言渡しの翌日に釈放された。

画像5

第二師団隷下の歩兵第29連隊

 ちなみに,仏印臨時俘虜収容所が設置される原因となった「明号作戦」を,ラオス南部のパクセ・パクソン辺りで実行した部隊は,古山氏も所属した第二師団,その隷下の歩兵第29連隊である。
 歩兵第29連隊は,福島県若松市(現在の会津若松市)で編成された“若松連隊”の一つ,兵員の殆どは福島県の若者で,県内では”白虎部隊”とも呼ばれていた。太平洋・アジアでの開戦以降,ガダルカナル島,フィリピン,ビルマと最激戦地を転戦した後,昭和20年1月27日,対フランス「明号作戦」に参加するため,サイゴンを中心としたインドシナ南部に転進,カンボジアのメコン川沿いの交通の要衝ストゥントレン(Stung Treng)に本部を置いていた。

画像6

復員 

サイゴンで復員船を待つ

 古山氏は,判決の翌日に釈放されると,次は刑務所ではなく(当然だが)「キャンプ」と呼ばれた日本人収容施設に移され,復員船を待つことになった。
 当時,その「キャンプ」は,サイゴン市内,サイゴン川沿いの船着場に近い「Khánh Hội(カンホイ/カインホイ)」にあった。
 その辺りは,現在のホーチミン市4区,「カインホイ港(Cảng Khánh Hội)」 として整備されている。ここは,令和2年10月8日,日本の協力で工事が進められ,今年(令和3年)末に開通予定のベトナム初の地下鉄のために,日立製作所製が製造した車両3両が初めて上陸した河川港でもある。

日本丸

 古山氏は,昭和22年(1947)4月から約半年過ごした後,同年10月19日に佐世保を出港してきた復員船にカンホイの船着場から乗船,同年11月21日,佐世保に着き帰国した。その復員船は,船名が「日本丸」,後に国指定重要文化財に指定され,現在でも横浜市みなとみらい「日本丸メモリアルパーク」に保存・展示されている。

画像7





 



東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。