”中国”大使館二つの血統 「飯倉町」系
日中150年間にあった二つの血統
日”中”国交樹立150周年
令和4(2022)年は,中華人民共和国との国交が”正常”化,他方で中華民国(台湾)との国交が断絶して,50年となる年。
歴史をもう少し日本を中心にみてみると,前年の令和3(2021)年は,日本と”中国”との間にそもそもの国交が樹立され,150年を経た記念すべき年だったことに気づく。
明治から令和にまたがる150年間,日本にあった”中国”の大使館(公使館)が本稿のテーマ。
「飯倉町」系と「桜田町」系
日本に置かれた”中国”の大使館(公使館)については,混迷を極める”中国”内の歴史と,それに不可避的に関与した日”中”間の歴史を反映した血筋にも似た,二つの系統がある。
この二つの「血統」については,”中国”大使館があった町名から「飯倉町」系と「桜田町」系と敢えて呼ぶこととする。
「飯倉町」系は,清国から中華民国へ”主”が変わり,中華民国内でも袁世凱,蒋介石,汪兆銘と”頭”が挿げ替えられながらも,”中国”側の都合で,辛亥の”革命”でさえもなかったかの如く,さながら一筋と見做された「血統」である。
これに対し「桜田町」系は,女真族や共産主義者や独裁者などの民族や主義主張,時の国際政治などが絡み,法的正当性は甚だ疑わしいながらも,むしろ日本側の外交的判断で,引き継がれたことにされた「血統」と言えるもの。
本稿では,このうち「飯倉町」系についてみる。
後編の「桜田町」系に就いては,こちらをご覧ください。
明治4年7月29日 日清国交樹立
日本と”中国”が初めて正式な国交を結ぶのは,150年前の明治4年7月29日(1871年9月13日)。
当時の相手”中国”は,辮髪に纏足の清王朝。
同日,対等な日清修好条規が日清間で締結されている。
同条規第4条には以下のとおり公使の相互交換が約されており,これにより両国間の外交関係(国交)が始まった。
明治11年1月16日 増上寺に仮公使館
日清修好条規の締結を受け,最初の清国公使館が置かれたのは,欧米諸国と同様,”寺”だった。
日清修好条規締結後,横浜に領事館は置かれていたが,公使館は未だ置かれていなかった。最初の清国公使館は,明治11(1878)年1月16日,徳川将軍家の菩提寺,芝・増上寺の広大な敷地の一部に,仮として設置された。具体的な場所は,増上寺の子院である月界院と,それに連なる良雄院と華養院である。
下掲のごとく,清国と各寺院住職との間で,明治11(1878)年1月16日,寺院の建物を賃借する旨の「家作貸渡約定」が締結されている。
当該約定に規定された賃借期間は,明治11(1878)年1月16日,から同年7月15日までの6ヶ月間。増上寺月界院は仮の公使館であったため,早期に真の公使館への移転が模索された。賃借期間を3ヶ月延長しながら,同年10月16日,正式な公使館を開設するに至る。
清国公使館にあてがわれたのは,永田町にあった旧華族会館の敷地と建物
明治11年10月16日 永田町に公使館設置
建物(旧華族会館)は買受
正式な清国公使館として選ばれたのは,麹町区永田町二丁目にあった旧華族会館である。
この地,江戸期には(福島の)二本松藩(丹羽家)上屋敷があった。
現在,衆議院第一議員会館と首相官邸がある辺り。
日本政府は,清国との間で旧華族会館の建物を金1万円で譲渡することで合意,その旨が明治11(1878)年10月14日,外務卿寺島宗則から太政大臣三条実美に上申されている。
土地(永田町二丁目8番地)は借地
譲渡され清国の所有となった旧華族会館の建物に対し,土地(敷地)は,東京府から清国に貸借されている。
賃借されたのは麹町区永田町二丁目2番地のうち3332.7坪の土地で,清国は明治11(1878)年10月16日に旧華族会館建物とともに,その引渡しを受けている。
下記の2枚の図は同じ当該土地を表した当時の資料から。
両者からは総面積が3332.7坪であること,上図からは隣地にはフランス公使館があること,下図からは総面積3332.7坪には「崖地」が270.8坪含まれていることが分かる。
この土地の借用は,無償ではなく賃貸借(有償)。借地料の算定にあたり,対象となる面積などが協議された。
上図のように,永田町二丁目2番地の3332.7坪の土地には,崖地270.8坪が含まれている。
この崖地を除いた”正味”3061.9坪を,永田町二丁目2番地から分筆,これを同8番地として,明治12(1879)年6月27日,新たに下記の条件で借地契約を締結,東京府知事が貸渡証明を発行している。
地代は,年146円97銭1厘とされた。
借地期間については,定めがない(定めがないだけで永久ではない。)。
以後,昭和3(1928)年12月31日に麻布区飯倉町六丁目(現在の港区麻布台一丁目)の新公使館に移転するまでの実に50年間,清国そして中華民国の公使館は永田町にあった。
日清戦争による国交の断絶と回復
明治27年8月1日 日清戦争による断交
明治27(1894)年8月1日,日清戦争が始まる。
それぞれの公使は本国に引き上げ,両国の国交は,一時的ではあるが断絶することになる。
明治28年4月17日 国交回復
明治28(1895)年4月17日,日清講和条約(下関条約)締結,日清間で国交が回復する。
日清間の交流は,戦前よりむしろ深まった。例えば,日本は清国から多くの留学生を受け入れることになり,蒋介石や周恩来などの政治家・軍人に限らず,後に駐日公使(大使)を務める者の殆どが,日本留学経験者であった。
日本政府は,国交回復後の清国公使館について,従前の永田町二丁目の土地に関する前記明治12(1879)年6月27日付け貸渡契約の存続を承認している。
この点については,明治28(1895)年12月4日,第二次伊藤博文内閣の内務次官松岡康毅(後に日本大学の初代総長)が,外務次官原敬に対し,概要,「従来,清国政府に貸渡していた清国公使館土地は,日清交戦のため清国公使引き払ったまま閉鎖されたいたが,日清講和が成立し,新たな公使(裕庚)が来朝するが,当該公使館土地に関する明治12(1879)年6月27日付け貸渡契約は依然存続するものとし,借地料も約定どおりに徴収する。」と報告している(下掲)。
こうして,日清戦争後も,清国公使館は同じ永田町の地に同じ借地条件で置かれることになった。
中華民国による清王朝の”相続”
明治45(1912)年2月12日 辛亥革命(清国→中華民国)
1911(明治44)年10月10日,孫文による辛亥革命が始まる。
1912(明治45)年1月1日,孫文は中華民国(Republic of China)成立を南京で宣言し,初代臨時大総統に就任する。
同年2月12日,清王朝の宣統帝が退位し,清王朝は滅亡する。
翌13日,孫文は臨時大総統を自ら辞し,その後任に北洋軍閥の”頭”たる袁世凱を推す。
同日(辛亥12月26日),明治43(1910)年8月6日から駐日清国公使であった汪大燮が,国号を中華民国に,国旗を五色旗(紅=漢族,黄=満洲族,青=モンゴル族,白=ウイグル族,黒=チベット族を意味する。)に改めた旨,中華民国臨時外交代表の名義で内田康哉外務大臣に通知し,内田外相はこれを西園寺公望内閣総理大臣に報告している。
袁世凱は,明治45(1912)年3月10日,(形式は)共和制国家である中華民国(Republic of China)の第二代臨時大総統に就任する。
(形だけは)共和制の中華民国には,(臨時)大総統だけでなく,政党もあれば国会もあって選挙も行われた。
大正2(1913)年10月6日 「中華民国」を承認
年号を明治から大正に改めた日本は,大正2(1913)年10月6日,中華民国(当時は「支那共和国」と呼んでいた。)を承認した。
その旨,同日付で牧野伸顕(大久保利通の次男)外務大臣が山本権兵衛内閣総理大臣に報告している(下掲)。
清国の権利義務承継が前提
”革命”により誕生した中華民国を,清国との間で自国に有利な条約を締結していた日本や欧米列強は,容易に承認しなかった。
つまり,中華民国の承認には,清国が日本や欧米列強との間で締結した(不平等な)条約等に基づく権利義務が中華民国に承継されることが大前提とされた。
つまり,中華民国大総統による権利義務承継の確約が必須だった。
この「確約」については,大正2(1913)年10月6日に大総統選挙,同月10日に就任宣言というスケジュールのなかで変則的な手続きがとられた。
すなわち,大総統選挙前に,権利義務承継を内容に含む就任宣言書について中国政府から同意を得る。同月6日の大総統選での当選者確定と同時に,中国政府は,この就任宣言書を日本を含む各国公使に交付する。交付を受けた各国公使は「確約」を得たものとして,直ちに「中華民国」の承認を表明する。当選した大総統(袁世凱)は,同月10日の大総統就任宣言において,事前の合意どおりに権利義務承継を表明する。
このような手順で行われた。
これは日本がイギリスなどと歩調を合わせたものだが,就任宣言後の「中華民国」承認では遅きに失し,そうかと言って新大総統が清国の権利義務の承継を明確に認める前に「中華民国」を承認することはできないため,折衷案としてこのようなイレギュラーな手続が取られた。
この中華民国承認経緯の詳細については,下掲の同月8日付け支那新政府承認問題経過要領に詳しい。
この要領には,大正2(1913)年10月10日の大総統就任宣言において声明すべきものとして,事前に中華民国と日本(及びイギリスなど)との間で合意された内容が別紙として掲載されている。
その内容は,下掲のもので「前清国政府及び中華民国臨時政府が各外国政府と訂するところの総ての条約,協約,公約は,必ず当に格守すべく」と明記されている。この内容を含む就任宣言書が,大正2(1913)年10月6日,大総統選挙で袁世凱が当選確定後,駐”中華民国”日本公使館(その他イギリス公使館等)に交付された。これにより,日本は中華民国が清国の権利義務を承継する旨の「確約」を得た。これを受け,日本は同日中に「中華民国」を承認したのである。
なお,実際,同月6日の大総統選挙で当選した袁世凱は,同月10日(「双十節」という中華民国の建国記念日でもある。)の就任宣言において,この「別紙」どおりの表明を行うことで清国の権利義務を承継する旨,国内外に表明した。その就任宣言の内容は,在中華民国日本公使館が確認している。
最初の駐日中華民国公使の就任
「中華民国」承認前の大正2(中華民国2・西暦1913)年8月16日,日本に在任しながら「清国公使」から「中華民国臨時外交代表」に名義を変えていた汪大燮が,袁世凱大総統の許可を受けて帰国,清朝時代から横浜総領事を務めていた馬廷亮がこれを代理することになった。
馬廷亮の肩書は「中華民国臨時代理公使」と改称され,その旨を牧野伸顕外務大臣に報告されている。
大正2(中華民国2・1913)年10月6日に日本が「中華民国」を承認したことを受け,同月28日,袁世凱大総統は(外交代表やその臨時代理ではない)正式な「公使」として陸宗輿を内定,日本政府に対しその意向を確認した。
日本政府にて検討した際の略歴によると,陸宗輿は,早稲田大学出身,清王朝の官吏にあって,中華民国成立(革命)後,浙江省選出の参議院議員を務めていた。
陸宗輿は,日本からの承認(いわゆるアグレマン)を経て,大正2(中華民国2・1913)年12月9日に,正式に駐日公使に任命された。
陸宗輿駐日公使は,大正3(中華民国3・1914)年3月2日,東京に着任している。
「中華民国」としては初代の駐日公使ということになる。
清王朝を”包括承継”した中華民国
「中華民国」承認の前提として,日本やイギリスなどが清国との間で合意した条約,公約,協定その他に基づく権利義務が中華民国に承継されることが確認された。
その効果の一つとして,清国から中華民国に”主”が代わりながらも,清国の日本に対する権利義務の全てを承継(包括承継)されたために,東京市麹町区永田町二丁目にあった清国公使館は,そのまま中華民国に看板を変えて継続された。
実際,地代などの条件はそのまま,公使館の”顔”も汪大燮,馬廷亮,陸宗輿と,いずれも清王朝から禄を得ていた者が就いた。
これは,孫文の意思でもあるが,袁世凱という清王朝の大物軍人が”革命”後の中華民国大総統の地位にあった結果とも言える。
このあたり,”中国”内では皇帝独裁から共和制への「革命」も,対外的には中華民国が清王朝を”相続(包括承継)”したも同じで,正に「革命未だ成らず」であった。
永田町から「飯倉町」への移転交渉
大正9年1月20日 国会議事堂を中心とする再開発の開始
中華民国に”主”を変えた”中国”公使館があった当時の永田町や霞ヶ関は,いわゆる公使館街だった。
大正9(1920)年1月20日,ここに現在の国会議事堂の建設が始まった。国会議事堂は昭和11(1936)年11月7日に竣工,完成まで実に17年を要するが,その周辺に中央官庁や関連施設を集中させるため,日本政府は,各国公使館に対し,永田町や霞ヶ関から他地への移転を求めることになる。中華民国公使館もその対象となり,ベルギー,イタリア,ソ連公使館と同時期に移転することになった。
ちなみに,清国と同じ時期に,麹町区三年町(現在の霞が関三丁目)の旧大久保利通邸にあったベルギー公使館の移転の経緯については,下掲の拙稿にて触れている。
移転先候補としての「飯倉町」
中華民国公使館の移転先の候補地となったのが,麻布区飯倉町六丁目14番地の4にあった紀州徳川宗家(徳川頼貞)邸である。
本稿ではここを「飯倉町」としている。
大正15(1926)年3月から「飯倉町」への移転交渉が始まった。
現在のロシア大使館の近く,外務省の飯倉公館(飯倉別館)及び外交資料館が建つ場所(港区麻布台一丁目5番3号)である。
「飯倉町」の登記簿
「飯倉町」すなわち麻布区飯倉町六丁目14番地の4(現在の港区麻布台一丁目314番4)の土地の登記簿をみてみる(下掲)。
この登記簿に最初に名前が出てくるのは,紀州徳川家代16代当主,戦後には参議院議員も務めた徳川頼貞である。徳川頼貞は,大正14(1925)年5月20日,紀州徳川家本邸がある「飯倉町」の土地・建物を家督相続している。
昭和3(1928)年6月14日,この「飯倉町」の土地を,日本政府(大蔵省)が徳川頼貞から売買により取得。この「飯倉町」の土地を,日本政府は中華民国に賃借した。結果,戦後まで中華民国の公使館(大使館)の敷地となった。
大正15(1926)年3月 移転交渉開始
永田町から「飯倉町」への移転交渉が開始されたのは,大正15(1926)年3月頃。その交渉は,中華民国側の政変という事情に加え,現在と同様”立退料”の金額でごねて難航した。
この間,年号が大正から昭和に変わった。
昭和3(1928)年5月30日 基本合意
昭和3(1928)年5月30日に至り,日中政府間で移転について大筋での合意をみた。
この合意を受け,日中間交渉が長引き紀州徳川家を待たせに待たせていた日本政府(大蔵省)は,昭和3(1928)6月14日,「飯倉町」の土地を取得した。中華民国公使館に貸すためである。
昭和3年6月15日 蒋介石の北伐
この頃,日本の交渉相手は,中華民国ではあるが,袁世凱系の北洋政府(北京政府)である。同時に中華民国内では,北洋政府(北京政府)の打倒を目指し,”南京政府”を樹立していた蒋介石による「北伐」が進行していた。
蒋介石が北洋政府を打倒,北京を占領し,中華民国の実権を掌握して「全国統一」を宣言したのは,昭和3(1928)年6月15日。偶然なのか予定どおりか,中華民国に貸すために日本政府(大蔵省)が「飯倉町」の土地所有権を取得した翌日であった。
北伐後の駐日中華民国公使は,北洋政府(北京政府)時代の大正11(1922)年6月2日からその任にあった汪榮寶が,そのまま続けた。
このあたり,北洋政府(北京政府)から南京政府に"頭"が変わっても,少なくとも対外的には「中華民国」としての継続性があった。
汪榮寶は,本国での政変後も,全権特命公使として日本政府と交渉にあたり,北伐完成約4ヶ月後の昭和3年(1928)年11月1日,中華民国公使館敷地貸借契約の調印当事者となっている。
ちなみに,汪榮寶は,清朝時代の明治34(1901)年から日本に留学し,早稲田大学や慶應義塾で学んでいる。それだけでなく,明治36(1903)年には明治に入り西洋語を日本語化した漢字(economy→経済,science→科学など)を中国語とした辞書「新爾雅」を編纂している。
昭和3年12月31日 「飯倉町」へ移転
昭和3年10月23日 覚書の提示
外務省は,昭和3(1928)10月23日,これまでの交渉内容を覚書という形で,中華民国公使館(汪榮寶公使)に提案した。
当該覚書は,明治12(1879)年6月27日付けで締結された永田町二丁目の土地に関する賃貸借契約を解除すること,日本政府が徳川頼貞から買い上げた「飯倉町」の土地を,国有地として中華民国政府に貸し付けること,建物については,金25万円で中華民国政府が徳川頼貞から直接買取ることを主な内容としている。
その上で,”立退料”として下記の合計金33万0207円の中華民国政府へ支払う旨が提示されている。
新旧敷地地上権差額補償金 金28万919円
移転に関する経費 金4万9288円
この昭和3(1928)10月23日付け覚書による全8箇条の日本政府からの提案に対して,中華民国駐日本公使館は,同月25日,下記のように回答し,これに応じた。
昭和3年11月1日 「中華民国公使館敷地貸借契約」の締結
「覚書」の合意を受け,昭和3(1928)年11月1日,中華民国公使館敷地貸借契約が締結された。
同日,覚書第5項但書に基づき,中華民国に支払うべき立退料合計金33万0207円のうち,中華民国による建物の購入費金25万円については,直接,大蔵省から紀州徳川家に支払われた。立退料の残金8万207円が中華民国公使館に支払われた。
建物の所有権移転登記も同日に完了している。
こうして,覚書第6項の規定のとおり,中華民国公使館は,昭和3(1928)年12月31日までに永田町から「飯倉町」への移転が完了する運びとなった。
満洲事変後の”悪化”と”融和”
昭和6年9月18日 満洲事変による”悪化”
昭和6(1931)年9月18日,満洲事変。
昭和7(1932)年3月1日,満洲国建国。
昭和7(1932)年9月15日,日満議定書を締結,日本は満洲国を承認。
日本と中華民国との関係は悪化した。
昭和8年5月1日 塘沽停戦協定による”融和”
昭和8(1933)年5月1日,満洲事変を契機とした日本軍(関東軍)と中華民国軍(北支中国軍)との衝突について,停戦協定が天津の塘沽(タンクー)において締結された(塘沽停戦協定)。
以後,日本と中華民国は,一時期ながらも融和な関係を迎えた。
昭和10年5月17日 「大使館」へ昇格
日中関係の融和を受け,昭和10(1935)年5月7日,日本政府は,軍部の反対を押し切り,在中華民国日本公使館の「大使館」への昇格を決定した。これを中華民国に通知するとともに,中華民国も同様の措置をとるよう要請した。
中華民国側も,在日本中華民国公使館を「大使館」へ昇格させることに決定した。
こうして,両国は,同月17日,それぞれの公使館を大使館に昇格する旨を同時に発表した。下掲の写真は,その旨を報じる同日発行(日付は翌18日)の東京朝日新聞の記事。当時の新聞は夕刊で,日付は発行日の翌日になっている。
日中間の大使館同時昇格が実現し,日本側は有吉明公使が,中華民国側には満洲事変前の昭和6(1931)年8月11日から駐日公使を務めていた蒋作賓が,それぞれ公使から初代の大使に昇格した。
日中断交へ
昭和12年7月7日 盧溝橋事件
この”融和”な関係に幕を引いたのは,北京市内の盧溝橋付近で夜間演習中だった日本軍(支那駐屯軍)に対し,中華民国側(国民党軍か,あるいは共産党の陰謀かは諸説ある。)が放った1発の銃弾である。
いわゆる盧溝橋事件。
これ以後,日本軍は蒋介石率いる中華民国国民党軍と交戦状態となり,和平を模索しながらも,交戦地域が北支(北京や天津)から南方の上海や南京へと拡大していった。
昭和13年1月16日 「爾後,国民政府を対手とせず」
当時の近衛文麿内閣は,中華民国の首都南京占領後の昭和13(1938)年1月16日,下記に全文を引用する有名な「国民政府を対手とせず」との声明を発表する。
事実上の国交断絶である。
廣田弘毅外務大臣は,昭和13(1938)年1月18日午後,川越茂駐華大使に対して帰朝命令を打電。蒋介石も許世英駐日大使に召還命令を出し,許大使は同日20日に帰国することになった。
下掲の同月18日発行の東京朝日新聞の見出しを借りれば,「国交ここに事実上断絶」である。
昭和13年1月20日 中華民国大使館”最後の日”
許大使の帰国の様子について,昭和13(1938)年1月19日発行の東京朝日新聞は,「許大使笑みも寂し 袂を分つ荷造り 支那大使館”最後の日”」との見出しを付けて,下記のように報じている。
こうして昭和13(1938)年1月20日,「飯倉町」の中華民国大使館は”顔”を失い,残務処理のために残った楊参事官らも間もなく帰国し,閉鎖された。
「飯倉町」の中華民国大使館の"頭"が挿げ替わり,新たな”顔”が着任するのは,約3年後のことである。
汪兆銘と蒋介石との絶縁
昭和15年3月30日 汪兆銘の南京国民政府
中華民国国民政府の与党たる国民党。国民党内で孫文を父とし,兄弟のような存在であった蒋介石と汪兆銘。
重慶に逃れて日本軍に抵抗していた国民政府の蒋介石と汪兆銘であったが,汪兆銘は,蒋介石と袂を分かち,昭和15(1940)年3月30日,国民政府の首都を重慶から南京へ遷都する形で,自らを正統とする国民政府のスタートを宣言する。
その版図は,盧溝橋事件後,日本軍が占領した北京や天津などの北部から上海や南京や広東などの南部の主要都市であり,これを根拠に,重慶に限られる蒋介石に対し,自らの正統性を国内外にアピールした。
汪兆銘がとった建前は,もともと孫文の右腕だった自らが国民政府の正統な承継者であり,この度,国民政府の首都を(自らもその遷都に関与していた)重慶から(元の)南京へ遷都するというものであった。
つまり,「中華民国」という国家として同一なのはもちろん,政府も「国民政府」という点で変更はなく,ただ首都が重慶から南京へ移転されたとするもの。蒋介石はもちろんこの建前を認めないが,少なくとも日本にとっては「飯倉町」の大使館の”主”に変更を及ぼすものではなかった。
昭和15年11月30日 日華基本条約・日華満共同宣言
前述の近衛声明に「帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し,是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす。」とあるが,この「新興支那政権」とみなされたのが,汪兆銘の南京国民政府。
昭和15(1940)年11月30日,南京汪兆銘政府との間で日華基本条約が締結され,満洲国も含めた三国間で日華満共同宣言に調印された。その主旨が,重慶蒋介石の打倒や日本の傀儡などではなく,ソ連とその後ろ盾により大正10(1921)年に成立していた中国共産党を念頭においた「防共」にあったことは,残念ながらあまり知られていない。
しかも,昭和15(1940)年3月30日に南京汪兆銘政府が発足してから,日華基本条約が締結される同年11月30日まで8ヶ月を要したのには,単なる”傀儡”になりたくはないという,中華民国側の強い意志が,その背景があったようだ。
このあたり,日華基本条約に調印した本人である元首相の阿部信行特命大使の,いわゆる東京裁判に提出された宣誓口述書が参考になる。
昭和16年2月5日 ”新”大使着任
前述のように,昭和13年(1938)年1月20日,重慶蒋介石政府下の許世英駐日中華民国大使が本国に帰還している。
それから約3年,昭和15(1940)年11月30日に日本と基本条約を締結した中華民国の南京汪兆銘政府は,”新”駐日中国大使として褚民誼を任命,褚大使は翌年2月5日に東京に着任している。
褚大使は,清王朝時代の1903(明治36)年,留学のため来日,日本大学で政治経済学を学んだ人物。
下掲の写真は,写真週報156号(昭和16年2月19日号)に掲載された「三年目に開かれた扉 褚新駐日中国大使着任す」と題された記事。「前駐日許大使」と「新国民政府駐日大使褚民誼」という大使の呼称についても,「前」と「新」という中華民国の国民政府内での継続性が貫かれている。
大使館の”主”は中華民国で変わらず,"頭"の切り替えに伴い,3年間不在だった”顔"が新しく就任してきた,と日本は解釈した。
宣戦・疎開・焼失・消失・断絶
中華民国(南京汪兆銘政府)の対米英宣戦布告
昭和16(1941)年12月8日,日本は,英米との戦端を開いた。
中華民国(南京汪兆銘政府)も,昭和18(1943)年1月9日,日本と共同で下記「戦争完遂に付ての協力に関する日華共同宣言」を発表し,アメリカとイギリスに宣戦布告している。
中華民国(重慶蒋介石政府)は,昭和16(1941)年12月9日に日本に対し宣戦布告しているが,日本は,盧溝橋事件後,終戦に至るまで中華民国(重慶蒋介石政府)に宣戦布告することはなかった。
中華民国(南京汪兆銘政府)も中華民国(重慶蒋介石政府)には宣戦布告もしておらず,直接の戦闘はなかった。
これに対し,満洲国は,中華民国(重慶蒋介石政府)だけでなく,英米に対しても宣戦布告はしていない。
戦時の外交関係
ところで,開戦により外交関係を断絶したイギリスやアメリカと異なり,日本が昭和19(1944)年まで外交関係を維持または樹立していた国々は以下のとおり。これらの国の大使館ないし公使館が東京に置かれていた。
アメリカやイギリスそれ以外の国とは,開戦直後から国交断絶または宣戦布告による戦争状態にあり,直接的な外交関係は閉ざされていた。これらの国々の在東京大使館ないし公使館は閉鎖され,大使その他外交官は交換船により引き上げていた。
昭和19年9月頃 疎開
昭和19(1944)年7月9日,サイパン島が陥落。同年8月2日には同じくテニアン島が陥落。これらマリアナ諸島は,日本が第一次世界大戦後に国際連盟から統治を委任された日本領であり,第二次世界大戦時「絶対的国防圏」とされていた。
「絶対的国防圏」が破らるや,同年11月1日には,テニアン島を飛び立ったB29が初めて東京へ飛来してきた。これは偵察だったが,同月24日,80機のB29による初めての空襲が行われた。それ以降,昭和20(1945)年8月15日午前1時30分の青梅村への空襲まで,合計106回の東京への空襲が継続的に行われることになる。
承知のとおり,このうち大きな被害を残した空襲は,同年3月10日の”下町”を標的にしたもの,同年5月25日に”山手”をターゲットにしたものである。
このような事態を想定し,日本政府は,昭和19(1944)年9月頃から,各国在東京大使館・公使館に対し,箱根や軽井沢への疎開を要請することになる。
中華民国の駐日大使は軽井沢に疎開した。他方で参事官らは箱根の富士屋ホテルに疎開している。また,満洲国の大使以下は,箱根の富士屋ホテルに疎開した。
軽井沢に疎開した外国大使館との渉外業務のため,外務省は,昭和20(1945)年4月15日,軽井沢事務所を設置。箱根にも強羅ホテル内に事務所を設置している。
なお,その外務省軽井沢事務所が同年7月12日付けで作成した同年1月から6月末までの「食糧燃料配給報告書提出の件」からは,終戦の直前まで,「外国人」に優先的に食料などを配給していた事実をみることができ,戦後の日本人としてとても興味深い。
この書類によると,昭和20(1945)年3月7日に鶏卵10個が「中華」に配給されていることが分かる。
このことから,同月10日の下町を襲った東京大空襲の前には,少なくとも中華民国大使館の一部が軽井沢に疎開していたことも分かる。
また,各外国公館への配給内容をみていると,食糧難のなか,肉,牛乳やチーズやバターまで,既に断交していた国を含め,かなり優遇して配給していた様子も窺える。
そして,空襲が激しくなるにつれ疎開してくる人数が増え,配給の量も増えていった事情もみることができる。他方で,テニアン島(昭和19年8月2日にアメリカ軍に占領される。)など南方で生産されていた砂糖については,昭和20(1945)年3月以降,配給が止まっていることも分かる。
参考までに,外務省軽井沢事務所が作成した同年6月6日付け「軽井沢在住外国団員に対する食料及び燃料の配給状況に関する件」によると,同月1日時点で,大使館(公使館)関係者が軽井沢に在籍していたのは,アルゼンチン(断交),ルーマニア(断交),ポルトガル,スエーデン,フランス(断交),スイス,スペイン(断交),ドイツ(降伏),アフガニスタン,デンマーク(断交),中華民国,イタリア(降伏)及びトルコ(断交)と,赤十字代表部である。
昭和20年5月25日 焼失
昭和20年(1945年)5月25日午後10時22分に空襲警報発令,翌26日午前1時20分に空襲警報が解除されるまでの3時間,470機ものB29が”山手”をターゲットに,焼夷弾を雨のごとく投下した。
アメリカに宣戦布告し敵国だった「飯倉町」の中華民国大使館は,徒歩20分程度の「桜田町」満洲国大使館とともに,容赦なく焼き払われた。
昭和48(1973)年11月24日に発行された「東京大空襲・戦災誌第3巻」313頁には,昭和20年5月26日付け警視庁警備総第183号「帝都空襲被害状況に関する件」が引用されている。これは,昭和20年5月26日午後3時現在までに判明した被害概況を報告したもの。
その「五、重要施設の被害状況 13、外国公館」には,満洲国大使館,フィンランド公使館,中華民国大使館,ソ連大使館,スウェーデン公使館,スイス公使館,ドイツ大使館,ベルギー公使館及びデンマーク公使館が空襲により焼失した旨が記録されている。
不幸中の幸いとしては,中華民国に限らず,既に軽井沢や箱根に疎開していたため,外交官やその家族に人的被害はなかったことである。
昭和20年9月2日 消失
昭和20(1945)年9月2日,日本は中華民国(重慶蒋介石政府)を含む連合国に降伏する。
日本の降伏は,中華民国(南京汪兆銘政府)にとって,単に敗戦や降伏だけでなく,その消失を意味していた。
同年8月15日の直後から,重慶の蒋介石軍が中華民国(南京汪兆銘政府)の首都南京に攻め入り,同政府は,降伏などの余地もなく瓦解,汪兆銘は既に故人であったが,その他要人らが逮捕された。
日本の降伏により,駐日中華民国大使館は,空襲により建物を焼失しただけでなく,その”主”をも失った。
「飯倉町」系の断絶
焼き払われた中華民国大使館が立っていた「飯倉町」の土地は,前述のように借地。昭和3(1928)年6月14日,紀州徳川家から日本政府(大蔵省)が買い取って以降,日本政府(大蔵省)が地主として,これを中華民国に賃借していた。
そのため,戦後の”中国”が,「飯倉町」の土地を大使館用地として引き継ぐことはなかった。
こうして,明治11年(1878)年に増上寺に始まり,永田町二丁目を経た「飯倉町」の血統は,昭和20(1945)年,67年で途絶えた。
現在 外務省飯倉公館・外交資料館
この「飯倉町」の土地には,昭和42(1967)年8月から外務省飯倉公館・外交資料館の施工が始まり,昭和46(1971)年3月に竣工,現在に至っている。
前述のとおり,「飯倉町」の土地については,昭和3(1928)年6月14日以降,登記名義人は「大蔵省」であった。これを,昭和44(1969)年1月31日の「所管換」を理由に,「外務省」へ名称変更している。
しかし,その登記名義人名称変更の登記は,遥か後年の平成28(2016)年3月8日に申請されたものである。これは,次に述べる隣接地で始まった再開発に伴うもの。
「飯倉町」の隣接地には,かつて郵政省本庁舎があったが,その土地もかつては紀州徳川家邸の敷地であった。
「飯倉町」よりやや先に,貯金局の敷地として大蔵省に売却されたものであるが,平成31(2019)年3月に郵政省本庁舎建物が解体され,現在,森ビルによる一帯の再開発下にあり,「Modern Urban Village」の一区画(A街区),地上64階325.19mの日本一の高さとなるビルが建設中である(令和5年3月31日竣工予定)。
昭和3年から昭和20年まで中華民国大使館があった「飯倉町」は,森ビルによる再開発の対象外で,現在も外務省飯倉公館・外交資料館が存続している。