寝息の向こうに流れる時間《介護ワークシェアリング日記》
久々に夜勤に入る感覚は面白い。
介護ワークシェアリング(単日短期派遣)で宿泊利用できるデイサービスで勤務した。
自分自身がお泊まりデイの立ち上げなどしてたのはもう10年近く前だけど、まさにその頃の空気感がこの夜も流れていた。
手にとるほどまで近い距離から安らかな寝息が漏れ聞こえてくることでさりげなく安否確認がとれる時の安堵や
物音の立て方、声の掛け方一つで、ご本人の覚醒や認識のあり様をそれとなく探り、今、起きてもらってトイレに誘うがよいかどうしようかの逡巡するなどは、やはり大規模施設とはまるで違う、いわゆる民家で行うサービスの良さをそこはかとなく、感じることができるところだ。
働く側だろうがケアされる側だろうが、家族ではないもの同士が過ごす一軒家。
良い空間を演出できるかどうか、それは、しっかりとしたリズム感を打ち出せるかどうかに掛かっている。
しっかりしたリズムの上で気持ちよく踊ってもらえるかどうか
(コレは比喩です。夜中にほんとに踊られたら困る。)そこが介護職の本領だと思っている。
何回も書いてきたけど、
結局、僕のしたいことは『誰かの為にケアしたい』とかそんなことではなく。自分自身の為にロックンロールを放ちたい。それだけなのだ。
それが介護というジャンルで行われるというだけの話。
ちゃんと踊ってもらえるならば、
ちゃんと踊ってもらえる世界が演出できたならば、死ぬほどかっこよいパフォーマンスを見せてくれることがある、それがお年寄りというだけのこと。それは、バーテンダーも同じことだ。
だから、昨今のエッセンシャルワーカーなる言葉を使うえらい人達も、やたらと医療介護の人たちに感謝しますな風潮も、そのエッセンシャルワーカーです、ワタシ。頑張ってます、みたいな話もトータル釈然としない。
綺麗な言葉で奉られることに平気でいれば、
何か大切な核心を触れられない様になる気がする。
わざわざ綺麗な言い方されたとて、コレは単なる飯の種に過ぎない。
そして『不可欠な労働者』≒エッセンシャルワーカー?不要な労働者もいないでしょうし。
寝息は不意に止まる。
そして、1人の女性が独り言のように
『おかあさん?なにしてんの』とぶつぶつ呟いた。
それは、記録上では『独語』と書くものかもしれない。
でも、実際は、その独り言の様な投げかけに、
別の女性が『え?!わたし??』と反応し、しばらく一人一人それぞれの世界観がやんわりと交わり、絡まり、また静寂と寝息のターンを迎え、この一軒家の夜をつくる。
【エッセンシャルワーカー】という言葉にはみえないリアリティがココにはあって、
そのリアリティに立ち会えるおもしろみが
今日もこうして僕を迎えてくれる。
家族でもないもの同士がただ、お互いの気持ちよさを満喫し、お互いの邪魔にならない様に、すごす夜。働くものもケアされるものも、共に。
また明日を迎えるまでの幕間に流れる、太いそして澄んだ音。