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訪ぶらい(とぶらい)は後ろ髪と共に

『弔う(とむらう)』とは、『訪う』とも書き、
思い出すこと、訪ねること、見舞うことを示すと共に、冥福を祈ることを意味する。

ここ1年ほど、髪の毛は純然たるスキンヘッドではなく、うなじから10センチくらい一部分だけ残していた。

僕を知ってる方は、イメージしやすいだろうけど、知らない人は、ラーメンマンの辮髪がうなじ側からスタートしてる感じを想像してくれたら。
あんなに長くないけどね、もちろん。

何でそんなことに?と問われたら、
スキンヘッド生活も15年近く経て、飽きてしまったから、とその程度の理由が素直なところ。


主義も主張もないが出来るだけ自由にしていたい表現ではある、程度。

2年前にも、同じスタイルにしていたが祖母の葬儀出席を機に剃髪した。
祖父母4人のうち、最後の祖母は100歳近く行きたクリスチャンであり、まさか久々に帰省した四十路越えた孫の奇異な頭髪の件でザワザワしている衆人掻き分けて天に昇らせるのも気がひけたからである。

その後、しばらくは再びスキンヘッドにしていたが、コロナ入院の後(2週間ほど伸びっぱなしだった頭から)また、辮髪生活はスタートした。
そこから10ヶ月ほどで、またスキンヘッドに戻したのが昨朝の話。


伯母が亡くなったと連絡があった。

父の一番上のお姉さんにあたる人で、他のおじおばは皆関東に住む中、実家である我が家と同じ町内で生涯を過ごした。

思い出なんてのは、山ほどあり過ぎるし、しかも、大概は日常のことであり、忘れるのが定石だったり、鬱屈した少年期青年期を過ごした僕からすると、記憶も定かではないわけだから、
コレといった【佳き思ひ出】なども列挙しづらい。

そもそも、比較的常識的であろうとする家に育った僕からすると、なにかと奇怪な言動のある人でもあった。

しかし、いつの頃からだろうか。
僕とこの人は、とても仲良しであった。
何が?どんなタイミングで?…不明。
いやはや、変わったおばさんという印象が強いが、何故だか、仲良しであり、また、可愛がってもらったのだと思う。

だいたい、故郷を20で離れてこちら、実父実母に対してですら、死に目に逢えないのだろうなと想像しながら生きてきた。

特に30手前で高齢者関連の仕事をし始めてからは、年に一度の帰省頻度ならば、あと、顔を合わせる機会が10回あるか、20回あるかと頭の裏側におきながらの生活である。
幼少期から良くしてもらったおじおば、祖父母に関しては言わずもがなである。

今回の訃報を聞いても『なるほど、年齢的にも、まぁしょうがない』というのが1番の反応で、
こちらも仕事もあるし、無理に帰省する必要ないなぁと思っていた(しかし、ゆかさんが『良くしてもらったのだから帰らないといけない』と諭すので、帰るか、、、という次第)

『お別れはとっくに終わっている』

しかし、達観したことを言ってみても、良くも悪くも、僕は人の子であり、明日の告別式までの数日、コロナ禍もあり2年以上、帰省していない生まれ故郷に帰る事含め、ななえちゃんのことを考えている(本名は早苗だが、愛称が、ななえちゃん。終戦前後、幼少期の弟妹からのあだ名が継続したものと推察する)。

面白いほど、人生を変えてくれるようなビビッドで派手なセリフを吐いてくれた記憶がこれといってない。まるで出てこない。


でも同時に、はっとさせられた。

僕の生まれ育った環境はどちらかというと子ども心に【教条的】な印象が強く、道徳的であれ、理性的であれというのを感じていた。

多分、ななえちゃんは、初めて『世間の人の日常』を近くで見せてくれた人なのである。
言うなれば落語における熊さんやはっつぁんと同じで、『奇怪な言動をするが、決して憎むことのできない、そして愛情をかけてくれる』存在であり、それは今の僕の仕事観にも大きな影響を持っているのかもしれないなぁとおもう。

人の暮らしの本質とは、きっと適度な『力点』も必要でまた、きっと適度な『脱力』も必要で、

他者では無いが、家の外にいて、
家の外にいるが、時に、家の中に入る。
そんな存在が
曖昧なラインを時に崩し、時に補強ししてくれたことで、僕は最終的にモンスターにならずに済んだのかなと思う(これから先もそうでありたい)

2、3年前に最後に視界に収めたななえちゃんは、グループホームの脇に併設された小規模多機能型居宅介護中心の生活であったし、そこそこ強めな認知症症状も出ていたが、印象としては、何も変わらなかった(それこそ、家族は大変だったと思うけど)。

ボソッと面白いセリフをはく、かわいい人であり、僕の仲良しなおばさんで。

そのおばさんの周りにも急に『さぁ、みんなで歌いましょうよ』と高らかに歌い出す、元学校の先生?みたいなおばあさんが、何回もそのくだりを繰り返していたり、早苗さんの甥っ子さんに対して優しい視線を投げかけてくれるおばあさんがいて、ななえちゃんは少し得意げにボソボソっと面白いことを言っていた。

ふと思い出せば、印象の中、周りはおばあさんばかりだが、ななえちゃんはなぜだか、おばさんで、なかなかかわいいのだった。

『お別れはとっくに終わっている』
そして
『弔う(とむらう)』とは、『訪う』とも書き、
思い出すこと、訪ねること、見舞うことを示すと共に、冥福を祈ることを意味する。

ここ1年ほど、髪の毛は純然たるスキンヘッドではなく、うなじから10センチくらい一部分だけ残していた。

が、さて、ななえちゃんの為に帰省するかーという日の晩、剃り落とした。


主義も主張もないが出来るだけ自由にしていたい表現ではある、程度のヘアスタイルだ。
執着することが1番の害悪である。

訪ぶらい(とぶらい)は後ろ髪と共にある。

生きたようが死んでようが知ったことかよ。

ななえちゃんは、おばあさんではなく、
かわいいおばさんのままであり、

『お別れはとっくに終わっている』

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