僕の裏詠みonリリック 人魚~Nokko~
『何年か前の春先、3月の頭のことだ。
通り過ぎようとしたニセアカシアの木の下で、白い花が落ちてきた。
白い雨みたいな花だな。白い雨に首根っこを掴まれた気分だ・・あれ・・。
そこには人魚が濡れたままで突っ伏して震えて泣いている。嗚咽の声は、そこそこ大きい。
・・・参ったな。
しっとりした極めて湿度の高い世界。
僕はなんと声をかけていいやら、ちょっと困った。
人魚(だと思う)を見かけたことなんて、初めてのことだし、
だいたい・・・泣いたオンナに何か声をかけて、うまく慰めることができた試しがない。』
≪天才メロディメーカー筒美京平 × ex.レベッカの歌姫Nokko≫の傑作である、
この曲は1994年にリリース。
アカシアの雨に打たれる・・・といえば、1960年リリースの先輩がいる。
それは、「アカシアの雨がやむとき」by西田佐知子である。西田の場合は、雨に打たれて死んでしまいたいと歌うのだから、人魚もまた死んでしまいたいくらいの激情の中、泣いているのだろう。別れのもたらす喪失感が「死」を想起させ程の激情に変わる。
一般的にいうと、「激情」というのは「知性的」とは真逆にあるというイメージを持たれているのではなかろうか。そして、それはきっと、「知性」の中にどこか自らを客観視する「理性」の存在を期待する人が多いからではないか。
その上で、僕自身にとっての知性は、理性とは別モノであり、敢えて言うなら、むしろ本能的、動物的な自分と向き合うことで出てくる創造力のことである。
本能とは流動的であり、形を様々変える為、コントロールするのが難しい。
人間はコントロールの難しい「流体」を内に秘めた存在だからこそ、それを燃料にし、燃焼なり、再合成なりし、取り出したエネルギーを外に伝導する。
そのマジックはとても美しく、その美しさこそが「知性」だと感じている。
時に迸る、激しい感情は、逞しい本能の支流である。
それはエネルギー的に「不効率」であるが、トータルすると「知性の源流」であることに変わりない。
『人魚は、いう。
私は、一時、満たされてしまったのだ。
甘い気持ち、高鳴る鼓動に。
相手を愛する程に狭くなる世界の実感に。
その世界が満たされることで、内面を内側から押し広げられる軋みと快感に。
それは月との呼応、引いては満ちる潮の様に。
満たされて、そして一呼吸毎に、拡がり、狭まる世界。
私は、知ってしまったのだ。
求められること。さらけ出すこと。
受け入れること。
そう。独りではないということを。』
『二人きりだった世界から、彼はいなくなってしまった・・。
満たされた、その味を知ってしまったからこそ、欠落の苦しみを味わう。
泣いている人魚の後ろ姿をみて、
無神経に、無責任に、そして、無慈悲に、僕はこう声をかけた。
「じゃあ、君もお帰りよ。君のいた世界があるんだろう?」
彼女が普通の女なら、それも可能だったかもしれない。
でも、彼女は人魚だから、
潮が引いてしまったら、・・・・・・帰れない』
もはや愛が満ちなくなったその世界に一人取り残された人魚だけれども、
曲も詩も、 ‘たおやか’で、どこか相手を許そうとしている温かさを感じる。
思い出してしまう、「その笑顔をしぐさを」
「すてきな事もさみしさも、輝きに似て」
何度でも、求めてしまう。失ったものの大きさ。
それは本気で愛したものだからこそ・・・そう。「本気で」叫んでしまった自分に気づく。
「抱いて抱いて抱いて」と。
『僕にできることは何もないが、一つ頼まれてはくれないだろうか、神様。
願わくば、この世界にもっと雨が降ればいいと思うのだ。
本気で叫んだ声が届かないのは、きっと「雨のせい」だから。
そして、降り注いだ雨が大きな流れになれば濁流の中でも、自然と泳いでいける。
ねぇ神様、野生の本能が何よりの知性であると無慈悲な僕ですら、信じているんですから』
※週刊キャプロア出版編集部. 週刊キャプロア出版(第5号):水に掲載されたものをそのまま載せています。
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