
【社会】の在り方が変わるのだ
ウィルスと情報は似ている。
目には見えないけれど、そこにあり、
我々は大きな影響を感じないこともあるし
でも、知らないうちに起きていく変化に、
意識はせずとも適応する為に、
我々もまた在り方を変えることもあるわけだ。
なぜか情弱(情報弱者)という言葉や使う人に違和感があった。
ノリと流行りで【使いやすい言葉】を使いやすいままに使い、自分自身のことを省みない様は浅はかで醜悪に感じてしまうからだろうか(老害という言葉を流行りの気楽さで使う人に対しての違和感にも似ている)。
誰だって害の部分はあるのだ。
そして、世の中を《弱と強》で測るなら、
そんなものは【状況次第】【環境次第】じゃねぇか。自分を害でないというならば、人を害というならば、あまりにも構造の固い世界に生きている。自分を強者と思うならば、世界が狭いか浅いかだ。
さて、こういう状況になると、
逆にみえてくることがある。
正しい情報、確度高い情報を探しては、
日々サーフィンする我々は足元の波の荒さに、
のまれたり、溺れそうになったり。
右往左往。
知識や情報には終わりがない。際限がない。
次から次、
比較的正しい、比較的正確な、
比較的信頼できるものが流れてきたり、
状況潮目により、
比較的正しくない、比較的不正確で、
比較的怪しいモノにあちこちで姿を変える。
足元に流れてくる情報をいつも読もうとし、
なんなら、自ら先に先に情報を取りにいかないといけなくなる。その上で、その情報だって確度は怪しいのだ。
こうした情報先取の行動は、これまでは、社会の中で自分を比較的優位にたたせる為にだったはずだが、今はもう安心と安定を獲得する為の鉄火場となっている。
そう考えてみると
情弱であるはずの年寄りは、
(中途半端な年寄りは除いて)
ちゃんと情報に疎いが故に、
バタバタしていないで、
自分の生活をしているのかもしれない。
やつらは
SNSに手を出さないが故、
情報の荒海に出ないが故、
強者!!
ともあれ
ソーシャルディスタンシング
(社会的距離をとること)は何もコロナに限った話ではないのだと思う。
レトロスペクティブ(懐古主義)な意味合いとは少し違う。
依存性高いものに寄りかかると、我がの足が使えなくなり、大声で多様性とかいってたナニも、一瞬で怪しいものになってしまうということ。
やれ海外から新しい情報が流れてきただの、
やれ医師の意見としてはなんだの、
どれが正しいやら正しくないやら、
日々フワフワぷかぷかと。
SNSはそもそもソーシャルなものだから、
一定のディスタンスをとることが大切だぜ、、(て、ルー大柴みたいなことをSNSに載せてる時点で、ちょっと救われないのだけど)
コロナ対策、抗ウィルス、抗コロナがメインになることで、まず、
社会の有様は変わるのだ。
中には、いろんな課題が解決してしまうなんていうラッキーもあるかもしれない。
しかし、《引きこもることが天国》ではない人は、相変わらず当たり前にたくさんいる。
じゃあ、この状況でどうすればいいんだ?
という課題が変わるのだから、
そこでもまた、
社会の在り方が変わるのだ。
我々は目に見えないものに不安になるが、
目に見えないものにすがってこそ生きてきた。
どうやったところで
見える化と見えない化の狭間にある道を
霊長類は進む