今注目の八雲製作所を高校生が取材!老舗メーカーの4代目はいかにして「社員あってこその会社」と言えるようになったか
1938年、佐賀県神埼市でプレス加工専門メーカーとして創業して以降、一貫してプレス加工周辺事業を展開してきた株式会社八雲製作所。
2019年~2021年には「SAGA FACTORY BRANDING*」にて、ものづくりの3K(きつい・汚い・危険)イメージを脱却し、「働きがい」や「働きやすさ」を実感できる魅力的な町工場へとなるため、デザイナーや行政と協力し、ハード・ソフトの両面からさまざまな取り組みを行い、企業のイメージアップを図ってきた。
そんな数々の取り組みによって注目を集める久保社長だが、実は私たちと同じ佐賀西高校出身。大学進学を経て、パナソニックの関連会社に就職したのち、八雲製作所に入社したという経歴を持つ。
なぜ八雲製作所に転職したのか? 代表取締役社長に就任した経緯とは? 八雲製作所はどんな企業風土を持つ会社なのか? これまでのキャリアや八雲製作所にかける思い、今後の展望などについて、話をうかがった。
もともとそんなに早く家業に戻る気はなかった
――社長は私たちと同じ佐賀西高校出身とのことですが、大学卒業後どのような経緯でパナソニックの関連会社に就職したのでしょうか?
佐賀西高校卒業後は熊本大学に進学しました。大学卒業後はたまたま縁があってパナソニックの関連会社に入社しました。運が良かったのかなぁと思います。
――その後、八雲製作所に入社された経緯とは?
うちの会社の創業が1938年なんですが、1番最初の創業社長が私の祖父で、その後の2代目社長は全然違う方がして、3代目が自分の父だったんです。ただ、2004年ごろに父が心臓の手術をしたことがあり、良いきっかけかなと思って2005年に八雲製作所に入社しました。もともとはそんなに早く戻る気はなかったんですけどね。
あと、新卒で就職したパナソニックの関連会社では、1年目は工場の技術部門を、2年目からはパナソニックの製品開発を担当していたんですが、そこでは製品の開発サイクルがちょうど5年だったんですね。父親の手術時期と私が担当した新規開発製品を出すタイミングがたまたま一緒で、区切りが良かったこともきっかけの一つです。
――パナソニックの関連会社にいたときにはどんな製品を開発していたのでしょうか?
パナソニックの関連会社にいた時は半導体の関連製造装置の機構開発をしていました。
退職理由のほとんどが「社長にはついていけない」
――会社を前社長から引き継ぐ際に会社経営で大切にしようと思っていたことはありますか?
35歳で社長を引き継いで、今11年目なんですよ。この11年間で定年退職とかも含めて、うちの会社を辞めていった人たちがのべ110人くらいいるんですね。おそらく半分以上の退職理由が「社長にはついていけない」というものだったと思います。それくらい、社長に就任してから最初の5年間ほどは本当に私の評判が悪かった。
そういう過去があって今は人が大事っていう風に変えていってるんだけど、30代のころは若かったこともあって、弱みは見せない、強いところしか見せないという感じで、人に対して当たりが強かったんです。
そんな中、自分が社長になって3年ぐらいでものすごい赤字を出してしまって、会社倒産の危機になってしまった。その時、当時の副社長から「もっと引いて(客観的にものごとを)見てくれ」と言われ、それから3年間くらいは、できるだけ社員に何も口出ししないようにしていました。
それで、当時No.2だった人が「社長とは違うやり方でやる」といって、いろいろと奮闘してくれていたんですが、やっぱりだんだんと孤立していっちゃうんですよ。
その様子を客観的に見ながら、「ああ、人のことを考えて行動しないと、どんなにがんばっても上手くいかないんだな。自分もこういう風だったのかな」ということが理解できるようになった。それでいろいろ変えないとなって思いました。
会社の業績自体はそこからなんだかんだで回復していったんだけど、人との付き合いをもっと大切にしないとだめだなと感じるようになったのは5年前ぐらいからですね。
お話しした通り、うちの会社はもともと親族企業なんですけど、今いる役員の中では、常務と総務部長と工場長がうちの親族とは関係ない人なんです。その人たちを幹部にしたのも、それまでの自分のやり方が間違っていたと反省したから。
赤字からは何とか回復したけど、同じやり方を繰り返してこれ以上赤字を出せば今度は本当に会社がつぶれるなって。そこで今回は社長としての強さを見せるだけじゃなくて、社員を第一にすることを決意して、もう一度、社員の皆さんと一緒にイチからやり直そうと思ったんです。
こういうことがあったことで、人を大事にするようになりました。やっぱり社員あってこその会社なんですよ。
大事なのは「問題を個人に帰結させない」こと
――ほかの記事のインタビューで、「馴れ合い体質に疑問」とおっしゃっていました。
だいぶ前の記事ですね。そのころの佐賀はどちらかといえば保守的な雰囲気があって、外部からの人を受け入れたがらないところがあったんです。それが結果として馴れ合い体質を生み出していた。
なので、中途採用の人たちを積極的に課長職に登用しました。それと、「やる気のある若者とやる気のないベテランがいたら、やる気のある若者を残します」というようなことも言っていましたね。
――若手育成のために行っている施策はありますか?
社内での教育についていえば、例えば「この人は仕事が遅い」とか「この人は覚えが悪い」といった風に問題を個人に帰結させず、仕事を教える先輩や同僚を含めていかにみんなで良い雰囲気をつくるかが大切だと思いますね。
――「人材強化で売上50億円を目指す」とおっしゃっていましたが具体的にどのようなことを行うのでしょうか?
九州内にある同業他社で一番売上が多いところが約40億とかなので、そこを超えるくらいの有力な企業になる!っていう気持ちでやらないとと思っていたころの発言ですね。2011年、代表取締役に就任したときの言葉です。
一番売上が低い時期から比べると売上は5億円くらい上がりましたが、このままプレス加工業を続けていった結果、果たして50億にたどり着けるのかというと、やっぱり厳しいかなというのが正直なところです。
――でも売上5億円アップはすごいですね!
うちは企業の下請け的な仕事が多いのですが、自社でコンシューマー向けのモノを新しく作るのは、ものすごくコストが掛かって大変なので、勝ち組の大企業と一緒に仕事をしていれば一緒に勝てるんじゃないか? とは考えています。
でも、だからといって取引先企業の業績に命運をかけて共倒れはしたくないので、いろんな有力な会社と取引するようになりました。その結果、10年前と比べると、上位10社の取引先中8社が別の企業に変わっています。そうした生存戦略が売上のアップにつながったといえるかもしれません。
「社長は口だけじゃない」と思ってもらえたら
――現在、社員さんたちの労働環境のために何か行っていることはありますか?
社長に就任してから2年目に、匿名で答えられるアンケートを社員に対して取ったんですよ。いろいろ要望は寄せられたんですが、全社員数の半分くらいの数しかアンケートに答えてもらえなくて。
たぶん「こいつに何言っても無駄だ」と思われてたんでしょうね。そのことがショックで、トイレの改修や給料のアップなど書かれていた要望は全部実現しました。
何をもって成功なのかはわからないけど、社員のためにやり続けるしかないですね。それで「社長って口だけじゃないんだな」と一人でも思ってくれたらありがたいです。
仕事とプライベートをはっきり分ける人もいると思うんですけど、毎日8時間週5日で働いていることを考えれば、仕事も生活の一部ですよね。なので、仕事する場の改善には力を入れています。夏暑いとか、冬寒いとかはどうしても変えられない部分だけど、現場で危ないものを使う環境を改良したり、変えられるところは変えていっています。
結論として、社長に就任してまだ若かったころは、絶対に弱みを見せない強い社長であろうとしていたのですが、大規模な赤字を経験したことで、「人を大切にする」ということの重要さを理解することができたと思います。それからは、社員が働きやすく、誇りを持てるような職場になっていけるように心掛けています。
感想
八雲製作所について調べ始めたときは、社長が私たちと同じ佐賀西高校出身であり、多岐にわたる改革を行っているという記事を見ていたことから、独断的な人なのかなと思っていましたが、現在は人との関わりも大切にしているということが分かりました。僕も人との関わりを大切にするようなところで働きたいと思いました。(3年:原 颯佑)
初めは、社長がパナソニックの関連会社に入社してから、八雲製作所に入ったというエピソードに興味を持っていましたが、インタビューで、社長が会社を立て直すまでの話を聞いて、失敗から学べる久保社長はすごいなと思いました。自分も失敗から学べる大人になりたいと思いました。(2年:園田 浩司)
最初は八雲製作所のプレス技術についてまとめようと思っていたのですが、調べていくうちに社内改革に興味が移り、大赤字の状態から安定した経営状態まで建て直せたのは社長が社員を大切にするようになったからだと思いました。(2年:居石 悠汰)