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私の原点 ー昭和13年生まれのつぶやきー

太平洋戦争(指導者の資格)
 私は昭和13年9月新潟県長岡市で生まれました。戦争の悲惨さをからだで知っている最後の世代ではないでしょうか。
 長岡は真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官山本五十六の生誕の地でしたから、太平洋戦争末期、アメリカ軍に爆撃されるのは時間の問題でした。爆撃を食らったとき重要施設への延焼を防ぐため周辺の家屋は次々と取り壊され、住民は強制疎開させられました。そんなわけで私は小学校1年の1学期を長岡市で、2学期が疎開先の塚山村(今の長岡市越路町)で過ごし、そこで終戦を迎え、3学期に一家で東京に移り住みました。
 長岡が爆撃された昭和20年8月1日深夜、疎開先の家の2階の窓から見た長岡方面の夜空を真っ赤に染めて燃え広がっていく光景は今でも脳裏に焼きついています。
 東京の引っ越し先は港区の三田でした。一面に拡がる焼け野原、車道を走るガソリン車は進駐軍のジープやトラックばかりで、日本のトラックやバスはみんな木炭車でした。三田から品川に抜ける魚籃坂を木炭バスが馬力不足で登り切れないで乗客が降ろされていたなんていう情景が鮮明に思い浮かびます。
 そんな少年時代を過ごした私の心の中には、如何なる理由があろうと戦争は起こしてはならない、戦争という手段でことを解決しようとする者は国の指導者たる資格なし、という拭い難い思いがあります。

■青梅マラソン(本気度が問われる)
 青梅マラソンは今年2月に第56回目を迎えます。青梅市役所をスタートして15キロ地点の古里で折り返す30キロの市民マラソンです。山登りが好きだった私は、大会初期のころ会社の山仲間と一緒にトレーニングを兼ね5回程この大会を走っています。
 最初に参加したとき、10キロを過ぎたあたりだったでしょうか。向かいから走ってくる先頭集団とすれ違い、もう折り返しは近いと思いきや、行けども、行けども折り返し点にたどり着かなかったことを覚えています。考えてみれば、あれはオリンピックに出るような選手たちだったのだから当然なのですが。物事に本気で取り組んでいる人たちとの違いをいやというほど思い知らされました。
 20キロを過ぎたころから息があがり、腹も減り、足が進まなくなってきました。前方を見ると沿道の電柱にへそ饅頭の広告が繰り返し出てきて、その先にへそ饅頭本舗があるではありませんか。我慢できなくなって饅頭を買ってほおばりながらまた走り始めましたがすぐに足が止まってしまい、二俣尾の駅から電車に乗って戻ってきました。パンツのポケットに小銭を忍ばせて行ったのが敗因でした。以来2回目からはお金は持たないで本気モードで走ることにしました。

■会社生活(決断と実行)
 長年勤めた会社生活の思い出は多々ありますが、ひとつだけあげるとすれば、やはり企業合併でしょうか。昭和58年(1983年4月)横河電機は同業の北辰電機と合併しました。遡ること1年前、当時情報システム部長だった私は、社長室に呼び出されて「来年4月北辰と合併することになった。合併の日に新会社としてのシステムがしっかり動くように準備せよ。合併が公表されるXデーまで口が裂けても口外してはいけない。夢に見てもダメだ」と告げられたのです。
 ひとくちにシステム統合と言っても、営業・人事・経理・生産管理と多岐にわたります。部下に目的も言わずにそんな準備を進めることができるのだろうか。悩みぬいた挙句たどり着いた結論が、「丁度この時期に再構築を進めていた営業のオーダー処理システムを新会社仕様に変えて作ることにしよう。お客様と直接関係ない他のシステムは既存システムの手直しで急場をしのぎ、合併後時間をかけて順次作り変えればいい」ということでした。
半年が過ぎ合併が公表された後本格的作業に入るわけですが、その大変さは想像を絶するものでした。担当者は徹夜、徹夜の連続です。
 とにかく時間が足りません。本来であれば充分時間をかけてテストを重ねたうえリリースするのがシステムづくりの王道です。ただ、そうやって百点満点のシステムに仕上がっても合併のその日に間に合わなければ零点です。最後は、帝王切開で未熟児を生み出すことになりました。
 当然のことながらトラブル続きの数か月で針のムシロの毎日でしたが、そんな中でも私は心配していませんでした。このトラブルが収まれば必ず評価されると信じていました。
 なぜなら、システム開発の方法論PRIDEのステップを着実に踏み、本質をしっかり押さえたユーザーオリエンテッドなシステム構築をしてきたという絶対の自信を持っていたからです。

■山と川(自然を守る)
 会社をリタイヤした後の私は、好きな山登りや渓流釣りを楽しむ傍ら、かねてから考えていた山岳自然環境の保護保全の活動に本格的に取り組むことになります。日本山岳会の自然保護委員長として全国を飛び回っていたのもこの時期でした。
 国全体としても2000年を境にようやく開発一辺倒から環境保全に目が向くようになってきていました。いまでこそSDGsを唱えない企業や自治体はないというくらい気候変動問題や環境問題に対する理解が進んできていますが、まだまだそんな社会的理解が未熟な時代のことです。当然SDGsなんて言葉はありませんでしたが、考えてみれば当時私がやってきたことはSDGsそのものだったと思います。
 長年山に登り渓流で遊ぶ中で、経済開発、観光開発の名のもとに壊されていく自然を目の当たりにして、「こんなことでいいのか、一度壊された自然は元に戻らない、何とかしなければ」という強い思いが私を突き動かしてきたのだと思います。

■そして今(あー、時間がない)
 思えばあの3.11が私の人生の曲がり角でした。山岳会のメンバーから不要になった山登りのグッズをかき集めて被災地に送ったりしていましたが、それでは気が収まらず、自ら地域で自然エネルギーを作ることを決意し、意を同じくする仲間と屋根上太陽光発電の事業を行う会社を立ち上げることになります。
 同時並行的に複数のことができない性格の私は、好きな山登りや渓流釣りからも遠ざかり、夢の実現に向け一意専心の毎日になりました。私の中ではそんな延長線上に今取り組んでいるソーラーシェアリング事業があります。
「もうひとがんばり」「もうひとがんばり」と思いながら今日までやって来ましたが、最近は「もうそろそろ」と陰でもうひとりの自分がつぶやいています。
 自分のモットーは現場第一主義。みんなと一緒に汗を流してこそ自分なのだと信じてそれを貫いてきました。それができなくなった時が自分の引き時なのでしょう。

(2024.1.13 山川陽一)

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