富士山麓でプロの自然ガイドをしていた時の話
こんにちは。さがみこファーム代表の山川勇一郎です。
「ワタシ、実は以前、富士山麓でプロの自然ガイドをしていました。」
・・・と言うと、大抵の人は「えぇぇ~!?な、なんですか、それは」と驚かれ、興味津々で聞いてこられます。
現在私は再生可能エネルギーと農業の2つの法人の経営に携わっていますが、世界広しと言えど、この分野でプロ自然ガイド経験のある奇特な人間はあまりいないのではないかと思われます。
「プロの自然ガイドって、実際にどんなことをしていたのですか?」と、あまりにひんぱんに聞かれるので、今回はぼくが富士山麓にいた頃にやっていた代表的な仕事について書いてみたいと思います。(※写真はホールアース自然学校ウェブサイトより※一部個人所有)
ホールアース自然学校
20-30代の頃、富士山西麓の富士宮市にあるホールアース自然学校というところで働いていました。自然学校とは、主に野外での体験活動を通じて人と自然をつなぐ活動や組織の総称で、ホールアース自然学校は全国に3,000カ所*超ある自然学校の草分け的存在です。入社当時のぼくは、先輩たちの目には田舎暮らしに合わない都会っ子のように見えたらしく、「こいつは2年くらいですぐ辞めるんじゃないか」と思われていたようです(苦笑)。しかし、水が合ったのか結果的に12年もお世話になりました。株式会社とNPO(現在は農業生産法人も)の法人を持ち、フルタイムのスタッフが30人前後。登山、洞窟、キャンプ、カヌー、熱気球などのアウトドアフィールドでの活動にはじまり、森林伐採やテントデッキの製作などの作業や、ヤギやニワトリの世話に至るまで、圧倒的な現場数を全員でこなしつつ、それぞれ得意分野でいくつかの業務やプロジェクトを掛け持つという感じの働き方でした。ぼくは新規事業開発など企業や行政絡みのプロジェクトを担当することが多く、5年目からコーディネーター(いわゆる管理職)、最後の3年は株式会社の執行役員でした。基本的に作れるものは自分たちで作るのがポリシーだったので、大抵の道具類は使えるようになり、野外活動を通じて自然の知識とサバイバル技術が身につき、大勢の人前で話すことに緊張しなくなり、不測の事態にもほぼ動じなくなりました。自然ガイドという枠を大きく超えて、大げさに言えば『生きる』上で必要なことをたくさん経験をさせてもらいました。(※ホールアースのことは書くと長くなるのでネットで検索してください)
洞窟樹海探検
定番は富士山の青木ヶ原樹海と溶岩洞窟の探検で、観光洞窟ではない天然の洞窟を、修学旅行生を中心に老若男女、外国人に至るまで多種多様な人をガイドしました。樹海と聞くと恐ろしいイメージがありますが、実は生命力の溢れるダイナミックな森で、一度行けばほぼ100%の人が180度考えが変わります。ある年、試しに数えてみたら、ガイドをした人数は年間で延べ3,000人超えでした。ひえぇ~。それを12年続けたと思うと自分でも驚きです。
ある時は、関西の修学旅行生(中学生)に「うゎ~、関東弁や!きしょ!」とか散々言われ続けたあと、ツアーの最後に「ディズニーよりオモロかったわ。」とボソッと言われてほっこりしたり(ガイド冥利に尽きますね)。ある時は、ぼくの母校の高校がツアーに参加して、そこに偶然引率でやってきたラグビー部の顧問の先生に15年ぶりに再会したり。またある時は、道の駅の駐車場で修学旅行の観光バスのバスガイドに「ワタシも樹海で迷いた~い」と口説かれたり(笑)、実にいろんなことがありました。
ホテルニューアカオ
夏の間は、熱海のホテルニューアカオというホテルに泊まり込みで、ホテルの広大な敷地を使って、ホテルの宿泊客向けの自然体験プログラムの提供をしました。入社1年目の夏から担当させてもらい、その後一緒にやっていた先輩が退職されたので、2年目から退職するまでプロジェクト責任者として務めました。照葉樹林やハーブガーデンや磯といった自然を活かした有料の体験プログラムを新規開発し、ホテルスタッフとチーム一丸で取り組み、1年目はひと夏で1,600人だった参加者は、最盛期で6,000人オーバーになりました。(実績紹介)
熱気球
熱気球のパイロットもさせてもらいました。主に係留飛行でしたが、ホールアース流の熱気球はみんなでチームビルディング的に立ち上げから撤収までやるというもので、親子キャンプをはじめ、大人のグループや、大学のゼミや、たくさんの人と一緒に空を飛びました。(親子キャンプの参加者の「ゆうじ」さんが作ってくれたムービー)
溶岩石窯
富士山の溶岩で石窯を作ったこともありました。当時住んでいた家の隣が石屋さんで、裏に大量に捨ててあった溶岩ブロックをもらってきて、それをグラインダーでレンガ大に切削して、2層式の窯を作りました。当時、溶岩石窯は日本で他には例はなく、石窯づくりの本の著者の須藤さんに直接連絡して、「溶岩で石窯を作りたいんです」と熱く語ったところ、興味を持って全面協力してくれることになりました。そしてなんと現地にまで指導に来てくださり、参加者を集めてワークショップ形式で製作しました。その後、キャンプやアウトドアクッキングで溶岩石窯は大活躍しました。
(天然酵母のパン作りに参加した「まんま」さんのブログ)
ろうきん森の学校
入社3年目で労働金庫連合会という金融機関のCSRとして全国3カ所で森林整備・人材育成・森林環境教育プログラムを10年間に亘って行う「ろうきん森の学校」というプロジェクトを立ち上げから担当しました。当時の代表に「3年は辞めるなよ」と念を押されて責任者として関わらせてもらいましたが、人工林を伐採・搬出や、樹木の同定や、木工旋盤などの加工などから、プロジェクトマネジメントに至るまで、様々なことを経験させてもらいました。プロジェクトは当初の10年が終わって、2カ所増えて更に10年延長され、参加者は延べ20万人を超え、今も継続しています。
竹サミット
中山間地で社会問題化していた放棄竹林を何とかしようと、竹の有効活用方法を考える「しずおか竹サミット」というイベントを、静岡県で竹に関わる人たちでプロジェクトチームを組んで実施しました。今は亡きC.W.ニコルさんをお招きし、壇上でお話できたのは幸運でした。
(ゲストで参加いただいた「竹虎」の山岸社長のブログより)
JICA本邦研修
お世話になった先輩の後を引き継ぎ、JICAの途上国の本邦研修のコーディネーターもやらせてもらいました。中南米やアジア・アフリカの国立公園のレンジャー等対象に、体験型環境教育やエコツーリズムというテーマの約40日間の長期滞在研修で、言語は英語かスペイン語で、自分にとっては背伸びの連続でした。ある時、焚火をしたらニジェール人の研修生が突然怒り出し、「自分の国は木は貴重だ。なぜ貴重な木を自分たちの楽しみのために燃やすのだ?」と言われた時、自分たちの常識は必ずしも世界の常識ではないということを実感しました。このような長期研修を何度も経験し、世界中の人と話すうちに、人間の幅も少し広がったように思えます。
社会人大学院
入社7年目で母校の大学院の修士課程に社会人入学しました。「社会イノベーターコース」という社会人向けコースが新設されたことから、多様な働き方制度というのを使って、週3日富士宮からキャンパスのある藤沢まで通い、週4日仕事をするという生活を2年間続けました。入学当時は子どもがまだ3歳と1歳で、毎日朝4時起きで読書や課題をこなし、この時が人生で一番勉強した気がします。少し離れた立場で自分の仕事や業界のことを考え、整理する貴重な機会を得て、多くの知的刺激と、恩師や同期や先輩・後輩をはじめとする素晴らしい人との出会いがたくさんありました。
(当時のBLOG➤プロ自然ガイド・大学院生・2児の父 3足ワラジの奮闘記)
FUJIMOCKFES
大学院在学当時、自然学校と全く異分野との組み合わせで新しいものを生み出すチャレンジをいくつか試みましたが、その一つが、デジタルファブリケーションと自然の融合である「FUJIMOCKFES(フジモックフェス)」です。当時まだ日本では黎明期であったファブラボと連携し、管理をしていた富士山麓の森で、天竜の若手キコリ集団に指導してもらって木を伐採し、各自持ち帰って家で乾燥させ、それを鎌倉のファブラボでレーザー加工しました。初年度は林野庁の予算を引っ張ってきて、200人くらいに対して実施しました。その後ぼくは退職しましたが、メンバーが引き継ぎ、今でも毎年実施されています。デジタル工作機械とファブ関連のソフトウェアの発展に伴い、驚くほど多様でユニークな製品が生み出されています。(FUJIMOCKFESのウェブサイト)
ちなみに、参加者の一人の今西さんは、輪切りの丸太をひび割れさせずに乾燥させる方法を編み出して特許を取得して起業され、キコリ1号のマエダさんは世界初(!)キコリでTEDに出演し、キコリ2号のレイチェル(日本人です)は静岡初で民間のフォレスター兼樹木医として独立する等、関わったメンバーは多方面に活躍しています。
東日本大震災
大学院の修士論文も佳境に差し掛かった2011年3月に東日本大震災が起きました。論文執筆を中断してろうきん森の学校で付き合いのあったいわき市に急遽、緊急救援活動に行きました。そこで、原発事故の壮絶さに雷に打たれたような衝撃を受け、「コンセントの向こう側」をはじめて意識しました。なんとか論文を書き上げて同年8月に大学院を修了。その後、それがきっかけでエネルギー問題に強い関心を持ち、ホールアースを退職して地元・多摩に戻り、再生可能エネルギーの会社を興し、現在に至ります。
まとめ
このように、一口に自然ガイドと言っても、ガイド業に留まらない実に多様な活動であることが理解いただけると思います。
実際、ホールアース自然学校にお世話になった12年間で本当にたくさんの経験をさせてもらいました。人に言えないような失敗もたくさんして、今思えば、未熟で生意気な人間だったと恥ずかしくなります。そうした自分も許容し、思いっきりチャレンジさせてもらい、なんと懐の深い組織だったのだと感謝で胸が熱くなります。
ホールアース自然学校を退職してもうすぐ10年が経ちます。その世界から完全に離れ、もう戻ることはないと思っていましたが、相模原でソーラーシェアリングを始めたことで、かつてした様々な経験を別の形で活かせる場面が巡ってきました。人生とは不思議で面白いものだと感じます。今までたくさんのものをもらった分、「今度はあなたが社会に還元しなさい」と言われている気がしています。
ホールアース自然学校は、今でも自然学校のパイオニアとして、農業の六次化や、狩猟と食肉加工といった第一次産業分野での挑戦を続け、NPOの事業承継といった点でも社会的に注目されています。ぜひホールアース自然学校の活動もみてみてくださいね。
*自然学校全国調査(NPO法人日本エコツーリズムセンター,2010)