娘を男名前で呼ぶ父親
『「子供を殺して下さい」という親たち』という書籍が活字版にせよ、漫画版にせよ、結構な話題になっています。内容は元々貧困な家庭環境なのに生まれた子供が精神疾患だったり、親に暴力を奮ったり。ただでさえ生活をしていくのにいっぱいいっぱいなのに子供が暴れたい放題、金使いたい放題。そりゃ「死んでくれれば良いのに」と思って当然だと思います。
私は「親の持つ子に対する愛情」を否定する心算はありません。勿論、そういう愛情を受けて自分に子供が出来た時に、子供にそれを返してあげられている人なんて、過半数でしょう。昭和の時代か、『親業』というベストセラーがありましたが、ホントに「親業」に従事されている方々は凄いし、苦しさだってひとしおなんだろうな、と頭が上がりません。何せ、私はそれを放棄していますから。
放棄の理由は簡単です。「もしかして、私は『よく性格が似ている』と言われる父親のように、子供達に酷いモラハラをするかもしれない」という恐怖です。「父親からの娘への虐待」というと、大抵性的なレイプを幼少期にされた、というのがまず挙がります。父親に性欲のはけ口にされ、母親からは「あんたが誘ったんでしょ」とメスとしての嫉妬の視線を向けられた女性達の苦しさは察して余りあります。
私の場合はそう言った性的虐待はありませんでした。無かったからこそ、なかなか父親の異常性が理解されないのですが。
私は中学に入学する頃まで、父親から「太郎」と呼ばれていました。女きょうだいで育った長女なのですが、「うちには男が生まれないから、お前が男だ」と幼稚園の頃か、父親に言われた記憶があります。どうやら父親は男の子が欲しくて仕方が無かったようです。しかし生まれてくる子は女の子ばかり。「男の子が欲しいなあ」という父親に「じゃあ作ればいいじゃない」と幼い頃言った覚えが有りますが、父親は「女きょうだいが上に続いた末の男なんて、軟弱な奴にしかならない」と答えました。この時点で「この父親変なんじゃないか」と今の私なら気付けますが、まだそこまで深い情緒が発達していなかった幼少期の私は「そんなもんなのかな」と父親の「太郎」呼びにもさして疑問も沸かずに過ごして居ました。
ここまで読めは「父親は相当の男尊女卑思想の持ち主だった」と判ると思いますが、この男尊女卑思想を植え付けたのは父の母、つまり私にとっては祖母でした。祖母は父と伯母、父にとっては姉を産みましたが、祖母による父への偏愛と、伯母への冷酷な仕打ちは、今から考えると「酷いな」とも思えるものです。祖母にとって父は「大事な跡取り」で、非常に可愛がられて甘やかされて育てられました。団塊より上の世代で多浪を許して東京や京都の予備校にふらふらと通わせていた、と言うとうちの父方の家が裕福なのかと思われそうですが、ごく普通の勤め人の家です(風呂無しの借家でした)。戦時中は祖父は戦闘機の部品工として働いていました。ですから祖母にとっては伯母は「口減らし対象」でしかなく、中学を卒業してすぐに見合いに出されています。父親が晩婚だったこともありますが、私と父方のいとこたちが12歳以上離れているのはその辺りの事情もあったようです。
そんな祖母に育てられた父親ですから、芯から「男尊女卑&きょうだい格差当然」に染まっていたのは仕方ないかも知れません。ホモソーシャル万歳爺でしたので。
しかし、父親の子供は女だけ。「太郎」「次郎」「之進」と娘たちに付けて家の中で呼んでいたのは、せめてもの足掻きだったのでしょう。
因みに母親は、その親たちから非常に愛情を注がれて育ちましたから、私にも、下のきょうだいにも、非常に気を遣って育ててくれました。ただ、私が若干「物分かりが良い、手の掛からない子供」だったために、下のきょうだいが出来無い時には何時間もピアノ部屋に閉じ込めたり、夜遅くまで机の隣に座って勉強を叱りながら見ていたり、という目に遭わせてしまったことは、本当に申し訳無く思っています。(絶対音感が有る為に、聴音やら聞こえてきた音楽をピアノで再現、というのは、無い人にとっては「意味不明の苦行」でしかないです。)
私が幼少の頃は、まだ祖母は存命であり、祖母は私のことは物凄く可愛がってくれましたが、下のきょうだいのことはハイハイをしながら甘えて来ても「シッシッ」と追い払い、一切相手にしていませんでした。お蔭で「私にとっての『おばあちゃん』と下のきょうだいにとっての『おばあちゃん』が全く違う人物になっている」という、謎の状況になっていますが。
祖母は亡くなるまで、とにかく私だけを可愛がってくれました。まだ小学校低学年でしたが「人が死ぬってこんなに悲しいんだ」と泣いていました。その頃位から、父親は私達姉妹のことよりも、親戚の男の子やら、職場の同僚の息子やらの世話を熱心にやくようになりました。「父親とはそういうものなんだ」とよく判らないながら思いつつ、私の実家の地域独特の閉鎖性を朧気ながら感じるようになり、「ここは早く出て行った方が良い」と高校に入学する頃には思うようになりました。
その頃、「女の子は家に留めておくもの」という謎の地域ルールがあり、それを破るには、「この子は留めていては勿体無い」程度に思われないと大学ですら「家から通え」と言われかねませんでした。「とにかく家から出たい」一心で大学に合格した時には「ああ、やっと自分の自由が獲得できた」とほっとしました。
しかし、大学に入ってから、父親は何かにつけ、同僚やら知り合いに、「娘の学歴」でマウンティングを始めたようです。大体、入学したのは私なのに、何故か父親が大学新聞を定期購読している辺りで「何か違わないか」と思ったのですが、その頃はとにかくバイトやらサークル活動やらに明け暮れていましたので疑問を持ちませんでした。
そして大学に入ってから、私の身体がパンクしました。子宮内膜症の悪化です。(余り月経異常などは喋ってはいけないデリケートな話題なのでしょうが、流石に紀州南高梅大の血の塊が出た場合、かなり悪化しているので、嫌でも産婦人科に行くようにして下さいね。因みに私は南高梅大の塊は二回ほど出てます。)余りに痛くて、食事も出来無い、と言う時に、大事な試験があり、それに合格することができませんでした。
私の不合格を聞いた父親は、私の酷い体調などお構いなしに憤り、そして「手紙で」私に罵倒を繰り返しました。
「お前は人生の失敗者だ」
「お前が婦人病なんかで苦しんでるのはお前の内面が腐っているからだ」
まあ、こんな感じの呪詛が並んでいました。
いきなりの罵倒の手紙に、私は頭が真っ白になりました。その後今の私の身体の辛さを全く理解出来ない父親の酷い言葉に、大泣きしました。
実は私のこの婦人病系疾患、父方の女系の遺伝です。ですから、祖母も伯母も子宮筋腫の手術を受けています。母方の女系に一切そういう疾患が無いことからも、「悪いの私だけじゃないでしょ、あんたの女系の遺伝もあるでしょ」と言いたかったのですが、「女の病気なんか知らない」という父親の態度に、最初の腹腔鏡手術が終わった辺りで諦めが付きました。
こういうモラハラ父親にありがちですが、非常に見栄っ張りでしたし、「男の付き合い」を死ぬ間際まで一番に考えていました。看病疲れしている母への気遣いなど殆どありませんでした。ですから、知り合いの男性や親戚の男の子が困って父に相談事を持ちかけると父は喜んで世話を焼きましたし、そういう人達からは「とても良い人だった」と父の遺影を見て泣いていました。弔辞を読んでくれた方は葬儀で大泣きしていました。
私は、と言えば「ああ、やっと死んでくれたか」とホッとしました。一応娘で長女なのでお骨は拾いましたし、ちゃんと読経もしましたが、他の親戚や父の会社在籍時代の同僚のような「あの良い人が亡くなられた」とは微塵も思いませんでした。弔問の方々をお迎えした時も、「ああ、あなたが御自慢の娘さんですか」と言われ「どこまで娘のふんどしでマウンティングしてたんだよ」と内心呆れましたが。
一応、私は月一回、カウンセリングを受けてはいますが、「娘を男名前で呼ぶ父親」というケースはどのカウンセラーさんも「初めて聞いた」と言います。こんなケース、私と下のきょうだいだけで充分だと思います。でも、カウンセラーさんからの「お父様は男の子が欲しかったんでしょうね」という言葉は、「代理息子」として育てられ、そして婦人病を患って「お前は息子じゃない」と捨てられた私にとっては、「いや父はそうでしょうね多分」としか答えられません。
私と一番近い成育歴を持っているのは、彫刻家のルイーズ・ブルジョワ(1911-2010)でしょうが、彼女ですら「父親から男名前を付けて家の中で呼ばれて『代理息子』として育てられた」という、意味不明の行動に自我が不安定に振り回されたりしていません。恐らく、ルイーズ自身には弟がいましたし、ルイーズを理解してくれる夫が居たからでしょう。今だから「酷いモラハラ毒父」と言えますが、その酷さを知っているからこそ、「自分が子供を産んだら、子供に父親と同じ事をしてしまうかもしれない」という呪縛もあって、私は子供を持つ事を諦めています。(諦める、というとネガティブに聞こえてしまいますが、自分自身は割と今はポジティブに生きています。)
「ネットの海は広大だわ」と攻殻機動隊の草薙素子は言っていますが、私が知る限り、こういう成育歴を持った女性、というのはほぼ見当たりませんでしたので、こういう片隅で吐き出させてもらった次第です。