太宰治『眉山』 ―戦後と女性―
1.はじめに
太宰治『眉山』を大学の講義で取り扱ったため、その内容について自身の感想とともにブログでまとめることにしました。
2.あらすじ
戦後間もない時代の新宿。小説家の端くれであった「僕」は、知り合いの姉が経営している「若松屋」の常連客で、後払いや寝泊まりの融通が利いたため、そこの2階に入り浸っていた。
そんな若松屋には女中「トシちゃん」という子がいた。彼女は幼少の頃から飯よりも小説が好きだったらしいが、「僕」が友人(画家や音楽家しかいない)を案内すると彼らをみんな著名な小説家だと勝手に勘違いした。
ある日、ピアニストの川上六郎氏を店に案内すると、トシちゃんは彼を「川上眉山」であると勝手に思い込み、それから「僕」たちはトシちゃんのことを「眉山」と呼ぶようになった。
トシちゃんは、「僕」たちの会話に入りたがったり、階段をドタドタと走る音がうるさかったり、御不浄(トイレ)の扉をピシャリッと閉めたりと「僕」たちからは煙たがられるような人間であった。そのせいで「僕」たちは1階の客に冤罪をかけられたり、トシちゃんの「ミソ踏み事件」が発生したりと散々だった。しかし、「僕」たちがどれだけ面と向かって悪口を言おうともトシちゃんはずっと笑顔のままでいた。
後日、「僕」は新宿駅で友人の橋田氏と出会い、衝撃の事実を聞かされる。なんとトシちゃんは腎臓結核を患っており、長生きすることもできず、今は実家に帰っているという。「僕」は地団駄踏みたい思いにかられながらも、河岸を変えることにしたのだった。
3.登場人物
僕:主人公。小説家の端くれ。
トシちゃん:若松屋の女中で小説好き。20歳前後。
橋田新一郎:頭の禿げた洋画家。若松屋では林芙美子という設定。
川上六郎:ピアニスト。トシちゃんが川上眉山と勘違いした人物。
中村国男:前進座の若手俳優。若松屋では中村武羅夫という設定。
4.戦後と太宰
冒頭で、
とあります。これは1947年に発令された飲食営業緊急措置令のことで、それより前、つまり戦後直後を書いたお話です。東京は焼け野原になってしまったけれど、なんとか復興しつつある新宿が舞台となっているわけです。
第2次世界大戦における日本の敗北は、それまでの生活、価値観など人々の根底にある概念をひっくり返すような転換点であったわけです。それは太宰治自身も例外ではありませんでした。太宰は『トカトントン』という小説を執筆し、戦後の若者の苦悩を描こうとしました。
この小説では、トカトントンという音ともに物事に対する情熱がなくなり、虚無を感じてしまう男の話を描写しています。この場面も、玉音放送を聞き、自決しようとしたところでトカトントンという音が聞こえたというものです。敗戦によって現実は暗いものとなり、若者は未来に希望を持てなくなったことが示されています。太宰はそのような若者たちの心情を小説によって表現しようと試みました。
5.トシちゃんという女性
それでは、本題に戻りましょう。本作、『眉山』も戦後に書かれた小説であり、そこには何らかのメッセージが込められていたのでしょう。もちろん、この『眉山』も先行研究があり(『斜陽』などと比べると少ないですが)、作品について論じられています。ここでは、トシちゃんという人物像だけにしぼり、簡単に考察します。
まずはトシちゃんという人物を振り返りましょう。
ここからわかるのは、トシちゃんが「女中さん」という立場であること、「小説が好き」だったことです。
女中さんとは、現代でいうところの住み込みで働く家政婦さんのようなものです。当時、女中さんにつく人は身分が低く、若い時分からお金を稼がないといけない女性が就業する職でした。当然、教育水準も低く、太宰のような知識人ではなかったわけです。また、戦前では「女性に読書は不要」といった社会風潮があったといわれていました(注)。
しかし、そのような立場でいて、トシちゃんは「小説が好き」なのです。作中では、「法螺を吹いている」と揶揄されていましたが、「川上眉山」という明治時代の作家も知っていました。少なくとも小説に関する知識はあったのです。
ではなぜ、太宰はトシちゃんに対してこのようなキャラクター付けをしたのでしょうか。そこには戦後日本における新たな女性像を示そうという太宰の思惑があったのではないかと私は思っています。しかし、太宰がそのような考えを持っていたという記録は私が探した限り、見つけることはできませんでした。そのため、あくまで私の考えです。
さしずめ、「これからの日本は老若男女や身分の貴賤なく、幅広く文学を嗜む時代なのだ」といったところでしょうか。事実はどうであったか分かりませんが、戦後の人々に対する太宰のそのようなメッセージ性を私は感じるような気がします。
注 宮本愛「戦前における公共図書館の女性利用者─1930 年代東京市立図書館を中心に─」『日本図書館情報学会誌』第63巻、4号、211-225p