志の果てに #3
僅か数秒差で咲樹の方が早く待ち合わせ場所に到着していた。几帳面であった修司は先を越されたと悔やみ、自分を不甲斐なく思っていた。
ちょっとだけ丈の短いスカートに夏らしい青のTシャツ、底の薄い靴。蒸し暑かった所為か髪を束ねている咲樹の容姿は魅力的に感じられる。それに引き換え男の服装とは野暮ったい事この上ない。ファッショには些か関心のあった修司も、そのセンスの無さに恥ずかしくなり、咲樹の姿を真正面から見る事に憚られ、人見知りをしながらも、改めて女性の美しさに感服するのだった。
咲樹は至って冷静な表情を浮かべていた。電話での暗鬱な様子は何処に行ったのかと疑いたくなるぐらいだ。でもよくよく見てみると、その眼は幾分生気を失っているようにも思える。
「待った?」
修司の問いに直ぐ答えない咲樹は何か考え事をしているみたいだった。ただ元々根明であった彼女の顔つき自体はやはり明るく見え、その内情を探ろうとしている修司の表情の方が逆に暗く見えても来る。
「あ、ごめん、1時間ほど待ったけどな」
「俺は2時間前から此処に来とってんけどな」
二人は優しい愛想笑いを交わして歩き始める。
地元の港にある倉庫の裏。このような怪しい場所で待ち合わせをした理由こそが彼等の幼い頃の追憶に依るのもで、男同士でよく遊んでいたこの場所には咲樹もたまに姿を現し、鬼ごっこやかくれんぼ、更には係留されてある船に乗って皆で戯れていたのだった。
この港町にはそんな光景が多々あった。近所の子供達は疎か、地元の住民は、まるでこの港を自分の庭のように使っていたのだった。或る者は煙草を吸いに、或る者は立ち小便をしに、或る者は散歩、或る者は魚釣り、また或る者は洗濯物を干したりと。そういう意味では本当に皆がのびのびと生きていたような気がする。
例えば全くの初対面であったとしても、挨拶一つ交わすだけで気さくに話が出来、知り合いが知り合いを呼び、何時しか顔見知りの数は数倍にも膨れ上がるのである。
そこで唯一修司が嫌っていたのが幼馴染の健二だった。彼は先祖代々ここの地の人間でありながら、全く愛想が無く、顔見知りであっても挨拶などはまずしない男であった。それどころか、常に他の者をぞんざいに扱う癖があり、幼少の頃から大人達に嫌われていたのだった。
そこへ来ると修司などは大人に好かれていたようにも見える。何時も律儀に挨拶をし、話もする彼は、結構可愛がられてもいた。その事をも妬む健二は、保育所で修司と喧嘩ばかりしていた。中に入ってくれる咲樹や同級生や先生達。喧嘩を理由を訊かれた健二は決まって言うのだった。
「俺こいつ嫌いやねん、大人に可愛がられて調子乗っとうだけやん」
無論修司にそんな気などさらさら無かった。
それでも保育所では明らかに健二はモテていた。修司と比べると活発で運動神経も発達していたからだろうか。顔などははっきり言って大した事はないし、何か面白い事を言うような男でもなかった。
そんな健二を全く妬まなかった事だけが修司には誇らしく思えた。正直に羨ましくないのである。他者に対し、直ぐ憧れを抱いてしまう修司がそう思うという事はそれが本心であり、真実なのだろう。
行先きすら告げずに、先に足を進めだした咲樹の背中は淋しさを漂わせていた。男は背中でものを言うとかいうが、女も同じなのだろうか。同じ人間である以上はそういう事なのかもしれない。
歩いている最中も、咲樹は一切修司に目線を向けなかった。何か怖い感じもする。
徐に空を見上げると、早くも月が冴え冴えしく佇んでいた。いやに綺麗に見える。どちらかと言えば太陽よりも月が好きだった修司。でも今見る月は無性に冷えて見える。実際に寒気が走る。これからの二人の成り行きを物語っているのだろうか。
無口な修司は大して苦にしないまでも、二人の間ににある殺伐とした空気感だけは流石に堪える。何か言って気を和らげたい所だが、何も思いつかないし、咲樹から発せられるオーラがそれを拒んでもいるようだった。
二人が辿り着いた場所は、少し寂れた居酒屋だった。酒を酌み交わしながら込み入った話をするのも一興である。修司は特にそう思っていた。ただ浮かれるだけ、はしゃぐだけの酒の場というものに疑念を抱いてもいた。
この店も何度か来た事があった。下町にありがちな、独りでも気楽に入れるような店だ。マスターも余り気張った人でなく、優しいとまでは言わないが愛想だけは良く、どんな話にも付き合ってくれる鷹揚な人物であった。
「取りあえずビール二つ」
姐御肌であった咲樹は、男勝りな口調ながらも、綺麗な声で注文する。
「あいよ~」
景気の良い返事をしてくれるマスターの存在も有り難く思える。
敢えてテーブル席に坐ったであろう咲樹は、ビールを一気飲みするのだった。愕いた修司は負けじと一気飲みに挑むのだったが、半分ぐらい飲んだ所で諦める。すると咲樹は言う。
「相変わらずやなぁ~、でも無理せんでもええで、私はビール党なだけやから、あんたはどうか知らんけど」
最後の一言は余計だった。
酒のあては枝豆と冷奴だけだった。食が細い修司は酒を飲む時も余り食べなかった。かといって多く喋る訳でもない。一人酒が好きだった彼は酒の付き合い、というよりは団体行動自体が大嫌いで、その団体というのも二人以上を指すのであった。
店に入ってからの二人はまだ殆ど話をしていない。如何に孤独を愛する修司とはいえ、この状況には浮足立ってしまう。落ち着かない時間は結構長く感じられた。店にある時計はまだ十数分しか進んでいない。
狼狽える自分も嫌いで仕方ない。精神論で良くいう、男はデーンと構えとけ。この言葉は今をして露骨に修司を襲う。彼は残りのビールを一気に飲み干し、焼酎を頼んだ。ほぼ無臭に近い水と氷で割られた麦焼酎は、その絶妙なアルコールの度合いと透き通る外見、酒特有の少し硬い舌触りを以て、人を程よい酔い心地にさせてくれる。
全ての酒に備わっているであろう甘美にして峻厳な味わい。それを一言に苦いという表現で纏める事を嫌う修司。少し気持ちが落ち着いた所で口を切り始める。
「で、今日はどないしたん? まさか電話してくれるとは思わんかったわ」
咲樹は軽い溜め息をついていた。
「あんた何でそんなに優しいん? 連絡なんか無いと思いながら番号教えてくれたん? 変わっとうでなぁ~」
図星だった。修司はあくまでもダメ元で教えただけだった。これは男同士でも言える事で、彼は何時も一歩引いて物事を考え、物事に当たるのであった。たとえ消極的と言われようとも、その謙虚さこそが日本的伝統美、美徳勘定であると信じ切っていたのだった。
咲樹は修司に合わせてか焼酎を飲み始める。これにも一々動じてしまう修司。彼女の艶っぽい唇がグラスに触れた時に見る若干卑猥な感じが修司に要らぬ妄想を与える。でもその妄想の中にある本質は、二人をして尚真実を求めていたようにも思える。
修司は咲樹の事を好いていた。しかし今この場でそのような舞台を演じようとは夢思っていない。昔の誼からもとにかく彼女の真意が知りたいのである。それなくしては先に進みようもない。
枝豆を口でつまみながら、上目づかいで見る咲樹の表情はやはり陰鬱としていた。彼女は何故焦らすのだろう。らしくない。
カウンターには二三の客が就いていた。如何にも会社員風である。サラリーマンの酒の付き合いほど鬱陶しいものもないと考える修司は、内心彼等が早く帰ってくれる事を願っていた。その付き合いの場にありがちな、他者を気遣い過ぎる物言いが鼻につく。
時刻は午後9時。いつの間にか時は過ぎていた。帰りそうにもないサラリーマンを他所に本題へと入り込む修司は、それこそらしくもない口上を述べるのだった。
「ええから、はっきり言うたらんかいや! 何かあったんやろ!?」
若干ハスキーで、若干ビブラートの効いた彼の声は店中に木霊した。サラリーマンは無論、マスターまでもがこっちに目を向けている。
自分で言っておきながら恥ずかしがる修司。その様子を見た咲樹はクスっと笑っていた。
「あんたも成長したんやな」
「揶揄かっとんか?」
「ちゃうやん、みんな色々あったんやなと思ってな、でも今の言い方嫌いではないで」
凹んでいながらも明るい表情で話す咲樹の仕草はやはり先天性のあるもので、正に天真爛漫とも思える。そこに諍うようにして語気を強めてしまった自分を、またしても恥じる修司。
何かしては自省する。この繰り返しに半ば翻弄されて来た修司は、今にして咲樹が与えてくれた、この何とも形容し難い精妙で、隙のない空気感に、心の何処かで謝意を送っていたのだった。
家に帰った修司は、お茶漬けを一杯すすって横になっていた。家でひとり酒に興じている時は然程酔わない。それがたった二人とはいえ外で、店で飲んだ酒はこんなにも酔いを齎すものだろうか。そこにはたとえベロベロに酔ってなくても、多少なりとも高揚した心が自分ひとりの世界に没入する事を許さないという作用が働いていたようにも思える。
咲樹の悩みははっきりしていた。健二が行方知れずになったとの事だった。それを咲樹の口から訊いた修司は、少しだけ苛立っていた。如何に咲樹が昔健二の事を好いていたとはいえ、幼馴染であり、自分と健二の親同士も近しい関係であるにも関わらず、何故今までその事を知らされなかったのか。咲樹に出し抜かれたような気持ちさえ湧いて来る。
でもその中に恥は感じなかった。他者を干渉したり詮索する事を嫌う修司ならではの心境なのかもしれない。
ただ、もう少しでも早く知りたいという気持ちだけは現存していた。咲樹がそれを心配し、何時にない暗然たる表情を浮かべていた事も気になる。彼女はそこまで気を遣う性格であったろうか、そして今でも健二が好きなのだろうか。余り色恋に関心がない修司はそれを逆説的に捉える事でしか、己が心情を保つ事が出来なかった。
要約すると咲樹は健二の事を憂慮しながらも修司に頼って来たのである。それはつまり、修司に対し恋心がないまでも、一応は修司が頼りにされている事を示唆するものであって、他意はなくとも、少なくとも修司の事を男として認めてくれていたのではなかろうか。
男女、上下、右左、新旧、短絡的な二元論で論じるのも憚れる所だが、いざ自分が褒めて貰えたとすればどうしても良い気分になるのが人の性であろう。とすれば、わざわざ裏を読む必要もないような気もする。
裏を読み過ぎたが為に、結局はある事ない事、裏表を巡回しているうちに疲れても来る。その中で、ここだ、と思う事があれば、そこで一瞬でも時を止めてみたくもなる。無論そんな事は出来よう筈もない訳だが。
修司が異性から頼られたのはこの三十年のうちで初めてであった。咲樹との付き合いは自信を齎してもくれた。無論健二の安否も確かに気になる。
そこで思った事は、健二の安否を確かめた上で、改めて咲樹と付き合う。それでももし、彼女が未だに健二の事を忘れられないのなら潔く諦めよう。今の時点で修司が思う事の割合は、ちょうど五分五分であった。
ニートである修司は地元の浜を放浪人、ともすれば世捨て人のような有様で散歩する習慣を恥じなかった。大して大きな港ではなくとも、そこに見る海の情景というものは、何時見ても心を癒し、亦勇気づけてもくれる。
港に入る手前の交差点にある一軒の茶店。ここのマスターも顔見知りであった。恐らくは息子や娘、甥、姪が自分達と同世代であろう。
そのような事には全く頓着しない修司は、久しぶりにその茶店へと足を踏み入れる。
「カランカラン」
ドアを開けた時に鳴る昔ながらの、この鐘の音は余り好きではなかった。風流を感じなくもなかったが、何か理屈抜きに不自然性のある響きを感じ、鬱陶しく思えて来る。中に入るとマスターが競馬新聞を片手にタバコをふかしていた。
だだっ広い空間にある十数席のテーブル。当たり前のように窓際に坐る修司。窓外の景色も大した事はなかったが、外の風景を見られるだけでも、何故か優越感に浸れるのであった。
胃が強くない彼はストレートティーを頼んだ。昨夜の酒はとっくに消えていても、コーヒーだけは生理的に受け付けない。
店内の真っ白い壁には何枚かの画が飾られてあった。殆どは単なる、世俗的な風景画であったが、1枚だけは、神話の時代のような、神々のいやらしい戯れが映っているように見える。
詳細までは解らないまでも、確かに卑猥な画である。今時こんな画を飾っていれば、それだけで違法なのではあるまいかとも思われる。しかし、その画が表す、卑猥というものは実に美しくも思える。何処がどうと訊かれても断言する事は難しい。でも、確かに美しいのである。修司なりの考えでは、いやらしさの中にある硬派な漂いという所だろうか。
レオナルドダビンチ、ミケランジェロらが表すいやらしい画は有名である。西洋のロココ調にあるあのいやらしくも柔らかい、それでいて美しく見えてしまう魔力は、単に画家の裁量だけで創られた画ではなく、夢の中にある、自然的な心持が、純粋に人に浸透する事に依って、更なる自然観を表しているような気もする。如何に昔とはいえあんな光景があったのかとも思ってしまう。ただ、もしそれが現実であるとすれば、それも一興これも一興で、自然の理というものを夢と現実社会両方に見出すような、幻想的で神秘的ながらも、美醜を超越した崇高な漂いが無意識に感じられるである。
有名な所でいえば葉っぱで局部を隠している画。あれこそが品性であり、美の象徴であるとも思われるのである。これこそがたとえ洋画であっても日本人の思う日本的な美であろうか。
その時代にまでそんな必要があったのかまでは解らない。でもその葉っぱ一枚だけで心が和むのも確かな話で、言うなれば、真の美は隠してこそ価値があるように思われて仕方がない。
これは能ある鷹は爪を隠すとはまた違い、最初から隠す事に依って美を訴えかけているのではなかろうか。つまりはその美というものは衆生の髄でもあるのである。
これを最初から開けっぴろげに見せたのでは、あらゆる想像自体が意味を為さなくなってしまう。如何に感情に訴えるような芸術的な画であっても、一定数の隠語のような裏に隠された真意は必要であって、そこに各々が膨らます想像や空想、妄想に依って更なる美を感じ取る事が出来るのである。
つまりはイマジネーション。この想像性なくして人生を、世の中を面白くされる事は不可能であると言っても過言ではあるまい。
ならばこそその想像性を如何にして富まして行くかが鍵にもなって来る訳だが、哀しいかな今の修司にその力は備わっていなかった。
港では連絡船の船長が何か作業をしていた。船乗りにある夢もあった修司は、その光景を儚い思いでじっと見つめていた。一見しただけでは気楽そうに見える。はっきりとは分からないまでも、船長の顔色も優れているように思われる。
車が好きでない彼は船を買って沖合目がけて何処までも旅をしたいと夢見ていたのだった。遙かなる水平線の彼方。そこには何があるのだろう。普通に考えればただ海が続き、丘に上がろうとも地球が続くだけの話である。
そんな合理性のある夢などは持ちたくもなかった。でも幼児が口にしがちな、ありきたりな夢も持ちたくはない。言うなれば寝て見る夢と実際に持つ将来像を浮かべた夢。この二つを合体させたかったのである。
彼は暇そうにしていたマスターに声を掛けてみる。
「マスター、最近どうですか? 儲かってます?」
「まぁ、ぼちぼちやけど、兄さん、確か昔この辺で遊んどった人やでな?」
自分の昔の事などを覚えていてくれた事は有り難い。互いに顔見知りであっても、話をした事は余りなかった。個人的な話になる事をおそれた修司は、今見た画について尋ねる。
「マスター、この画綺麗ですねぇ~、誰の画ですか?」
「それか、ちょっとやらしいけどな、俺も画家までは知らんねん、人から貰ったんやけど、綺麗やったから飾っとうねん」
内心、知らんのかいや、と訝る修司だった。その画がルーベンスのアダムとイブぐらいの事は修司にも分かっていた。だが彼はマスターに対し鎌を掛けたのではなかった。寧ろ無知な自分にその画が表す真意を教えて欲しいと思っていたのだった。
店を出たあと、また港を彷徨うようにして家に帰る修司であった。
燦然たる陽射しは街を明るく覆い尽くし、それと同時に影を作る。その影は人を涼ませる役を担っていて木陰にある安らぎは強い陽射しと対照的な優しさを与えてもくれる。
でも夏の樹には当然蝉が蹂躙し、うるさく鳴き続けてもいる。健気に鳴き続ける蝉の勇ましさは修司に万感の意を伝えて来る。まず彼が感じた事はうるさい。その次に勇ましい。その次に可愛い。そして醜い姿だと。
特に蝉の死骸などは見るのも嫌なぐらいだ。幼少の頃に網を持って蝉取りなどをしていた事が馬鹿馬鹿しく思えて来る。でもその時そうした事こそ、紛う事なき正直な気持ちの為せる業であって、何も無理にしていた訳ではなかった。
最後の最後に蝉に思う事。それはやはり志であった。あの短い命の中で、あれだけ強く鳴き叫ぶ蝉の本心こそが、志を表すもので、そこには全くといって良いほど、雑念や邪念は含まれないのである生への執着心か、何か具体的な夢でもあるのか。そんな事は解る筈もなかった。
ただその様子から察するに、決して悲観的な想いは感じられない。何かに怯えているようにも見えない。
修司は思う志とは、夢であり、本音であり、亦先天的に備わった自分の性分を妥協する事なく発揮する事でもあった。
その道中にある様々な困難。それを打ち破り超えて行く事は至難の業である。時としては命を落とす危険性もあろう。人に莫迦にされる事もあろう。余りにも強く執着するが故に最愛の者に嫌われる、或は失くしてしまう危惧すらある。
力なき正義。この言葉が持つ意味とは力がない者は思想を抱いてはいけないという事なのだろうか。そう突き詰めて考えれば、力ない者はただ世の流れに靡き、意思も神経も通っていないロボットのように生きて行かなければならないといった極端な発想にも繋がって来る訳で、そこまで自分を卑下しないまでも要らぬ思想を排除し、それこそ痛点を持たない魚のように、少々身体を傷つけられても、ただ悠々と海を泳いでいたら良いという、人間が恣意的に浮かべる悲哀にも似た、衆生への憂いが込み上げても来るのである。
何が言いたいのかといえば、自分に与えられた命、その人生を自分自身が納得出来るよう全うしたいだけの話なのである。
こんなに難しい話もないだろう。如何な強者や地位のある者であっても、それなりの困難に向かい合いながら生きている訳で、天には天の、地には地の悩みがある事は今更言うまでもない。ただ、その悩みの度合い、多寡を敢えて他者と比べた場合、やはり繊細で神経質な者が抱く悩みの方が勝ってしまうような気もしないではない。
だからといって世の中の悩みを一身に背負うような自惚れた思考を持つ修司でもなかった。彼はあくまでも自分という存在に勝ち、存在意義を見出し、自分で自分自身を認めたいだけであった。
人の繋がりや義理を重んじる修司は、嫌いながらも健二の安否を探るべく、少ない人脈の中からそのヒントを見つけ出そうと奔走する。取りあえず親はその事を知っていた。友人の殆ども知っていた。知らぬは自分だけなのかと焦る修司は、思い切って健二の親御に会いに行く決心をするのだった。
幼い頃からよく遊びにお邪魔していた健二の家。真ん前にある公園は正に庭みたいなものだろう。この公園での思い出は尽きない。時には子供らしくじゃれ合い、時には喧嘩をし、また時には盆踊りなども興され、特に夏の終わりにある地蔵盆では子供達皆が一つでも多くの地蔵さんを回るべく果敢にな姿を見せていたのだった。
下町でありながらも静かに佇むこの少し大きな健二の実家の風格は、地主であるが故の才なのだろうか。それを自慢する事なく謙虚に漂わせ、それでいて訪問者を拒まないような度量の大きさにも関心する所だ。
おそるおそる玄関の引き違い戸を開け、声を発する修司は少々怯えていた。昔あれだけ訪れていた健二の家も、今では全く知らない家のように思えて仕方がない。
落ち着いた様子で出て来てくれた健二の母御だった。
「すいません、いきなりお邪魔してしまって」
「何や、修司君やん、久しぶりやな~」
「ご無沙汰しております」
「そんな気遣わんで、上がってよ」
「すいません、失礼します」
ただでさえ気を遣う性質の修司は、部屋に上げて貰った事で更に恐縮してしまうのだった。お茶まで出してくれた健二の母御の想いや如何に。咲樹と同様、元々根明で活発なその性格は悩み、凹むという作業を持していないのだろうか。そんな筈はない。咲樹でも悩んでいたぐらいだ。修司とは比べものにならないぐらいの浅い雰囲気の中にも。
「すいません、頂きます」
そのお茶は実に苦かった。日頃からお茶など殆ど飲まない修司は、久しぶりに飲んだお茶の味を深く噛み締めていた。
「修司君はまだ結婚してないの?」
修司が一番嫌う、年輩の者が言いそうな質問だった。
「はい、まだです、情けない限りです」
情けないとは全く思っていなかった。何故か母御の問い掛けが優しく感じられたから、そう答えてしまっただけだった。
「ところで、健二君は何処に行ったんでしょうか?」
母御は黙っていた。修司の突然の訪問の意味にも察しはついていただろう。何時までも当たり障りない話をするのに憚られた修司は尚も問い質す。
「はっきり言って欲しいんです、自分らは幼馴染なんです、他の奴等に先きを越されたくないんです、どうあっても自分が探し出し、腹を割って健二と話がしたいんです」
怖いぐらいに真剣な眼差しで問い掛ける修司。その気迫に感化されたのか母御は既に目を潤ませている。この時点ではっきりした事があった。彼女は最初から健二の行方を知っていたのだ。もしかするとそれを隠したいが為に自分だけには知らせなかったとまで勘ぐってしまう修司。
確かに元々仲良しでもなかったし、ここ数年は全く付き合いをしていなかった。でも修司は何時も何処かで健二の事を考えていたのだった。最近どうしているのだろうなと。
とすると健二の母御は無論、修司の親も息子の繊細な気質を慮って敢えて知らせなかったのか。もはやそのような事はどうでも良い。とにかく健二の安否が一番大切なのだ。
健二の母御は静かに口を開き出した。
「実はあの子、今九州に居るのよ」
「九州ですか? 何か仕事の関係ですか?」
「仕事って言うたら仕事やけど、二年前に離婚した時やけになったみたいで、前の会社を辞めて、九州の会社なんかに就職したんよ、そんな遠いとこに行く必要ないやろと止めたけど全然訊かへんし、何か狂ったみたいな感じやったわ、離婚してからのあの子の様子は見とられへんかったわ」
結婚どころか恋愛経験も少なく、異性の気持ちなど理解出来ない修司はただ呆気にとられて、言葉を失っていた。
でもそこを探るつもりもなかった。とにかく健二の安否が分かった事はこの上なく嬉しく、一安心するに十分であった。
「この事は私とお父さんしか知らんから、多分友達にも知らせてないと思うし、だから誰にも言わんとって欲しいんやけど」
「勿論です、言う相手も居ませんし」
こういう点では誰にも勝って口の堅い修司で、まず他言した経験などは一度もなかったし、そんな事をする者の神経も理解出来ない。
「有難う御座います、これで自分もすっきりしましたし、健二君には宜しくお伝え下さい、では失礼します」
要件だけを訊いて早々に立ち帰る修司。こんな所作こそ非礼に当たるのかもしれない。だが必要以上に話をする事で、余計要らぬ妄想を膨らまし、互いの内に芽生えてしまうかもしれない馴れ合いを徹底して嫌う、修司なりの配慮でもあった。
彼は健二の家を出た後、独り公園にあるブランコに乗ってブラブラと揺れながら考えていた。皆色々あるだろうけど、今回の事は完全に自分の取り越し苦労だったと。そして咲樹が健二の事をどう思っているか分からないまでも、幼い頃と同じく、またしても二人の仲に入って心の仲裁をしてくれたのだと。
甘んじて西日を受ける樹々の切ない快活さと眩しく光る海原は、厳しくも寛容な漂いを以て、修司の中に燻る強い拘りを優しく解きほぐし、その本質を探り出し開花させるが如く、無言の言葉を投げかけていた。