詩編131編「乳離れした幼子」
詩編131編の「乳離れした幼子」に思う
詩編131編は、好きな詩だ。
以前、『母の胸にいる幼子のように』と題した文を書いた。
(拙著『平和は大河のように』204ページ)
孫の安らぐ姿を見ていたら、
ふと、この詩編を思い出し、
改めて読んでみた。
主よ、私の心は驕っていません。
私の目は高ぶっていません。
私の及ばない大いなること
奇しき業に関わることはしません。
私は魂をなだめ、静めました。
母の傍にいる乳離れした幼子のように。
私の魂は母の傍の乳離れした幼子のようです。
イスラエルよ、主を待ち望め。
今より、とこしえに。
(聖書協会共同訳)
月本昭男氏の訳ではこうなっている。
ヤハウェよ、わが心は驕らず、
わが眼は高ぶりませんでした。
私は大きな業に関わりませんでした、
私にとって不思議すぎる業には。
私は魂を静め、沈黙させたのです。
わが魂は母のもとで乳離れしたこのよう、
母のもとで乳離れした子のようでした。
イスラエルよ、ヤハウェを待ち望め、今より永遠まで。
(月本訳)
カソリックの典礼委員会の訳は、シンプルに、音読してスッと入ってくる訳になっている。
神よ、わたしはおごらず、高ぶらず、
偉大なこと、身にあまることを求めようとしない。
心静かに、わたしは憩う、
母の手に安らぐ幼な子のように。
心静かに わたしは 憩う、
神の前にある幼な子のように。
イスラエルよ、神を待ち望め、
今より、とこしえに。
(典礼委員会訳)
2節の「乳離れした幼子」(聖書協会共同訳)は、
ヘブライ語の「ケガムーる」で、
確かに「乳離れした幼児」という意味。この聖書協会共同訳や、月本訳でそう訳されている。
また、単に、「幼な子」「幼児」と訳しているものもある。
ミルトスの対訳では、
「乳を飲み終えたばかりの乳児」
という訳もある。
これは、初耳。
これも情景として、魅力的だ。
おっぱいを飲み終え満足した乳児が、母に抱かれている情景。
それは何と安らかで静穏なことか。
「私は魂をなだめ、静めました。」
というくだりを際立たせている。
安らぐ孫の姿を目にして、
なんか、この詩のシーンとして、「乳を飲み終えたばかりの乳児」の姿の方が、合ってるように感じた。
そして、なかなか難しいけど、そうありたいなぁと。