和解の使者 ー コリントの信徒への手紙
和解の使者 ─ パウロとコリント教会の和解
17だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。18これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。19つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。20ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。
(コリントの信徒への手紙二 5章17節─20節)
(1) はじめに
NHKの人気歴史番組に「その時歴史が動いた」というのがあります。歴史でターニングポイントとなった出来事やそれに関わるキーパーソンに着目し、まさに歴史が大きく動いた瞬間をクローズアップした興味深い番組です。たしかに、歴史は人がつくるものと言えます。しかし、同時に偶発的としか思えない出来事が重なり、それらが歴史を動かすことも多々あります。その両者によって歴史は動いているように見受けられます。その意味では歴史はたしかに壮大なドラマです。では、世界史において「その時歴史が動いた」という事件をあげるとすれば、一体どの出来事を取り上げるだろうか、そんなことを思い巡らせてみました。
私個人としては、何といってもあのゴルゴダの丘の出来事だと思います。主イエスのわずか三年足らずの公生涯は、十字架と復活に象徴されます。それは人類に決定的な影響を及ぼし続けています。しかし、それは信仰の領域に属する問題で、とくに復活にいたっては客観的史実の対象ではないとみなす人が多いでしょう。
では、これに次いでどの事件が「歴史が動いた」重大な瞬間かと思いめぐらすと、いくつかある重要な出来事の中で、私はある史実に注目してみたいのです。それは、使徒パウロとコリントの教会が和解した瞬間です。
今から二千年ほど前、ギリシアのペロポネソス半島の付け根にある一大都市コリントで起こったこの出来事は、今日の私たちにはほとんど知られていません。それは当時の地元ですら人の噂に上ることもなかったでしょう。ローマ帝国の壮大な歴史において、その存在すら知られていなかった誕生間もない小さな新興宗教集団内の、全くささいな事件にすぎなかったからです。ですから誰もそれが歴史を動かすような事件などと思いもしなかったのでしょう。
しかし、もしその時、パウロとコリント教会が和解できなかったなら、歴史はその後どうなったでしょうか。実はそれがなかったら、その後の世界に多大な影響を及ぼしてきたキリスト教そのものが、全く別のものに変わっていたかもしれません。いや、それどころか、キリスト教そのものが存在しなかったかもしれないのです。
そこまで言ったらちょっと大げさかもしれませんが、こう言えばご理解いただけるかもしれません。それは、現在手にしている新約聖書がなかったかもしれないということです。いやたとえあったとしても、今の新約聖書とは違ったものとなっていたことでしょう。
なぜなら、新約聖書の主要な部分を占めるパウロの書簡や、パウロの影響を受けた文書などが、残らなかった可能性が高いからです。なかでも、後世に多大の影響を及ぼし、今も人類にとって最も重要な文書の一つであるパウロの畢生の大作「ローマの信徒への手紙」は誕生すらしなかったでしょう。
もしそうなら、仮にキリスト教が広まったとしても、それはパウロの思想が欠落したものとなり、現在伝えられているキリスト教とはかなり異なるものになったと容易に想像できます。パウロの福音理解とは異なるキリスト教の一派が当時存在していたからです。そしてもしパウロの書簡が残されなかったなら、それは、後にパウロから多大の影響を受けた思想家たち、アウグスティヌス、ルター、バルトなどの思想が生み出さなかったことを意味します。そう考えますと、この出来事が「その時歴史が動いた」瞬間として十分注目に値することが理解していただけると思います。
「和解」、21世紀は、2001年9月11日のニューヨーク国際貿易センタービルで起きた同時多発テロや、それを受けテロ撲滅を大義名分に起こされたアフガニスタン空爆や、イラク戦争に象徴されるように、不幸にして「新たな戦争」によって始まりました。それは、20世紀の負の遺産ともいえる大量破壊兵器の使用に加え、軍と民、戦時と平時が区別されない新たな大量殺戮への堰が切られた象徴的な事件でした。歌手の沢知恵さんはこの事件を自らにも関わるものとして受け止め、次のように語っています。
9月11日を境に、またもや私の魂は揺さぶられています。またもや、というのは、阪神淡路大震災、オウム真理教事件、少年A事件のときの感覚に似ているからです。ワールドトレードセンターとともに、私の中の何かが、大きな音をたてて崩れていくのを感じました。
……どうしてこんなにむごい、不条理な事が起きたのかを考えると、はっとさせられるのです。どうしてそこまでアメリカが憎いのか、と。……今私は、私自身のライフスタイルを問われている気がしています。私の消費行動が、そのまま世界の構造につながっていると感じるのです。うまく言えないけれど、あの日を境に、私の意識はかなり変わりつつあります。
(沢知恵『コモエスタプレス』16号より)
「人はなぜ殺し合うのか」という問いに、多くの真摯な人々が答えを探し続け、どうしたら平和をもたらすことができるか模索し続けているのです。
人類の和解はどうやったら達成できるのでしょうか。
アフガニスタンやイラク、それにパレスチナでの悲劇を聞くにつれ、気の遠くなるような遥かかなたの霞むような到達点に、途方に暮れてしまいます。
しかし、この和解こそ人類共通の悲願である平和への入り口です。
それは、民族対立、宗教対立、国家間の対立に止まりません。個人対個人、グループ対グループなど、戦争や紛争が起きていなくても至るところで和解を拒む勢力のせめぎ合いが続いています。
それは2000年近く前の、コリントの教会とパウロとの間でも起きました。
壮大なローマ帝国の歴史から見れば、ほんの些細な、何の政治的意義もない出来事にすぎなかったのですが、パウロは文字通り決死の思いでこの和解に全力を尽くしました。そして、それは激しい対立を越えて、再び互いに堅く握手する関係を回復することができたのでした。
和解を生む精神、それは何でしょうか。そして、和解によって何がもたらされるのでしょうか。パウロとコリント教会との和解という小さな史実を通して、それを学んで見たいと思います。
(2) コリント教会の設立
紀元50年の秋、パウロはアテネ経由でコリント市に到着しました。当時コリント市は推定人口60万人(自由人20万、奴隷40万)の大都市で、現在のギリシャを中心としたアカイア州の州都でした。また、ペロポネソス半島の付け根に位置し、ケンクレアイとレカエウムの二大港により地中海の東西を結ぶ交易の要衝でもありました。ですから、ローマに次ぐ政治、経済の一大中心地であり、また当代有数の大商業都市だったと言われています。そのため、帝国各地から多くの商人が集まり、また交易による繁栄のもとで文化的にも成熟し、芸術、芸能、スポーツと、ヘレニズム文化の粋が集められていました。また、多く民族による様々な文化や宗教が入り乱れていたようです。
中でも女神アフロディテ神を祭ったアクロコリント神殿が町の背景にそびえ立ち、その門前には神殿娼婦が多数侍り、淫蕩の町としても名を馳せていました。「コリント人」とは「みだらな人」の代名詞だったそうです。日本の活気と喧騒に溢れた都市の繁華街を想像すればよいのでしょうか。そしてそこには、歓楽街のような一角もあり、かなり賑わっていたようです。哲学者セネカは、当時の街の賑わいを次のように描写していますが、これはコリントにも当てはまったことでしょう。
…… 大広場がたくさんの人間で雑踏している。……大競技場には、民衆の大部分が姿を現わす。そういうところを見るときには、そこには人間の数と同じくらいの悪徳があると承知するがよい。平時服のトガを着た者たちを見ても、彼らの間には何の平和もない。ある者は僅かな銭をもらって、他の者を破滅させることに引き込まれる。他の者が損害を受けないことには、誰にも儲けはない。彼らは幸福な人を憎み、不幸な人を軽んずる。…矛盾した欲望に掻き乱される。僅かな快楽や利益のためにすべてを失うことさえも望む。
…これは野獣の集まりである。
(セネカ『怒りについて』茂手木元蔵訳)
「これは野獣の集まりである」。弱肉強食、欲望最優先の世界。儲かる話はないか、何か享楽の獲物はないかと目をぎらつかせ、価値観の多様化から、何が正しいかわからず、倫理の崩壊し始めた世相が今日の日本と重なります。
しかし、そうした世の中だからこそ、人々は魂の救いにも飢え渇いていたのでしょう。貧しさにあえぐ人々は、貧困や病気からくる不安、死への恐怖、深い孤独感から逃れようと様々な宗教や占いにのめり込んだことでしょう。また、歌やダンスのエクスタシーに身を任せ、一時の興奮で気晴らしする者も多かったと思います。今日と同じように、演劇に感涙を流し、スポーツと拳闘士の汗と血しぶきに歓声を上げ、浮き世の憂さを晴らしていたかもしれません。
特に奴隷や使用人たちは、自分を卑下し、富と権力を握る強い者たちへの憎悪と復讐心に身を焦がしていた者もいたことでしょう。一方、貴族や裕福な商人たちは、有り余る食物をもてあまし、食べては吐き、吐いては食べる饗宴や、悲喜劇の刺激にも飽き飽きし人生の倦怠を募らせながらも、さらなる富と安心を追い求め策略を巡らせていたことでしょう。
哲学者たちは知識の切り売りと弁論の技に走り、高尚な精神を提供できずにいました。爛熟した文明は崩壊の危機に瀕していましたが、別な見方をすれば、それは人々には救いを求める土壌が十分養われていたとも言えます。
新約聖書の「使徒言行録」によるとパウロは、コリントへ来る前アテネに立ち寄っていました。そこでの伝道はさんざんだったようです。
すでに、マケドニア州のフィリピ、テサロニケなどで小さいながらもヱクレシア(集まり)が誕生し、伝道の拠点を造ることができたパウロは、彼を憎むユダヤ人たちに追われるように独りアテネへ逃げてきました。哲学の殿堂ともいえるアテネで、彼は知識をつくして主の福音を説こうと試みましたが、結局興味は持たれたものの、知識による伝道の虚しさをとことん味わったようです。彼は後にこう述懐しています。
20知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。21世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。22ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。 (Ⅰコリ1・20─25)
また、コリントにたどり着いた時のことをこう述べています。「そちらへ行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(Ⅰコリ2・3)。
これはおそらくパウロの命をつけねらう追っ手が及んだことも含めてだろうと思われます。とにかくパウロは意気盛んにコリントへ乗り込んできたわけではありませんでした。しかし、彼は、ここに約1年半滞在することができ、やがてコリント教会が誕生したのでした。
パウロがこの間にどういう出会いをしたかは、想像の域をこえません。おそらく他の町でもしたように、手始めにユダヤ人の会堂(シナゴーグ)で伝道したようです。もちろん、多くの場合、最終的には一部のユダヤ人に拒否され、シナゴーグから追い出されたようですが、新約聖書によると、コリントにあったシナゴーグの会堂長クリスポの一家がパウロによって洗礼を受けました(Ⅰコリ1・14、使徒18・8)。また、その後任の会堂長ソステネも、どうやらキリストを信ずる者とされたようです(Ⅰコリ1・1、使徒18・17)。このようにコリントのユダヤ人社会にもある程度広まっていたようです。
パウロのコリントでの出会いの中で、誰よりもまずアキラとプリスカ(プリスキラ)夫妻を忘れてはなりません。
この夫婦はパウロと同じテント作りを職業としたポント出身のユダヤ人で、ローマ在住中すでにキリストを信じる者とされ、勅令によりローマを退去し、パウロと相前後してコリントに逃れてきたようです。
パウロとはシナゴーグで出会ったのでしょうか。いや、もしかしたら、テント作りの同業者同士ですから、職場で出会ったのかもしれません。互いに主イエスを崇め従う者として、すぐに親しくなったのでしょう。やがて夫妻は自宅を解放し、そこで集会が持たれるようになったことでしょう。そして、おそらくそこが教会の礎になっていったと思われます。また、この夫妻は後にエフェソにも移り住み、そこで終生パウロを支え苦難を共にするなど、パウロにとって特筆すべき同労者でした。
その他、彼の書簡や「使徒言行録」で、コリント教会と関わった人たちの名がかなり特定できます。
アカイア州の初穂とパウロが言うステファナの家の人たち(Ⅰコリ1・16、16・15)、家族や使用人一同も主人に従い信者となったのでしょう。
後に、彼と共にエフェソにいるパウロを訪ねたフェルナトとアカイコ(Ⅰコリ16・15、16)、クロエと彼女の家の人々がいまいした。クロエは資産家の未亡人か、成功したキャリアウーマンだったのでしょう。幾人かの使用人たちがいました。この内の誰かがパウロに宛てた質問状を持参し、エフェソで苦闘していた彼にコリント教会の窮状を伝えました(Ⅰコリ1・11)。
コリント市の職員、経理係のエラスト(ローマ16・23)もいます。また、パウロ自らが洗礼を授け、「教会全体が世話になっている家の主人」であるガイオ(Ⅰコリ1・14、ローマ16・24)も忘れてはなりません。おそらくガイオも資産家だったようで、コリント教会を経済的に支える重要メンバーの一人だったようですし、もしかしたら自宅を集会所として提供していたのかもしれません。
しかし、これらの名を残すメンバーのみがコリント教会を構成していたわけではありません。
いやむしろ、様々な人たちが救いを求めて教会に集まっていたことが、パウロの手紙の行間から分かります。
民族的にはユダヤ人もいましたが、「大多数が異邦人、異教徒」(Ⅰコリ12・2)でした。また、人数的には奴隷身分の者が多かったと思われます。
もちろん、奴隷の所有者(Ⅰコリ7・21以下)もいました。また、当時多く見られた寡婦(未亡人、Ⅰコリ7・6)も含まれていたようです。また、パウロは、彼らが「知者、能力のある者や家柄の良い者が多かったわけではない」(Ⅰコリ1・26)とも言っており、無学、無位無冠の者、「世の無に等しい者」「身分の卑しい者」「見下げられている者」が多かったと表現しています(Ⅰコリ1・28)。
もしかしたら、かなり問題のある者もいたのかもしれません。たとえば、コリントの信徒への手紙一の6章11、12節にある悪徳リストのような者たち、「みだなら者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者」といった人たちです。多少の誇張を考慮しても、コリントの教会が品行方正な紳士淑女の集まりではなく、最初からいろいろな問題を抱えた集団であったことが伺われます。
しかし、それだけに、当時の教会には人々を惹き付ける魅力があったのでしょう。実際、飢えを凌ぎ、病を癒す場所だったでしょうし、今以上に生き難い生活の悩みから解放されたこともあったのでしょう。
キリストの福音は確かに、そうした実績を伴っていたからこそ、いっそう人々を引きつけていたのだと思います。そのようにして、コリントにエクレシア(集会・教会)が誕生したのでした。
紀52年の春、パウロはコリントを離れ、エフェソ、カイサリアを経て、エルサレムへ行きました(使徒18章)。その間の詳細な消息はわかっていません。彼はその足でかつて母教会でもあったシリアのアンティオキア教会に立ち寄りました。
一般にパウロの伝道旅行は三回行われたと言われていますが、よくよく調べてみると、母教会のアンティオキア教会で盟友でもあるバルナバと決裂し、同志と共に異邦人伝道を志し、アジア州へと旅立ちました。
帰るべき家(ベース)がある場合旅行と言えますが、パウロの場合は、どちらかといえば出かけて行き帰って来るという旅行というより、あてどなくさまよい歩いたといった方が史実に近いのではないかと思います。
紀元53年から55年末にかけてアジア州の州都エフェソで丸三年間も滞在し、精力的に伝道に従事しました。多くの人が休憩する昼休みを有効に利用したり、また、一般の会堂を借りて集会などをしたようです。
この間に、指導者であるパウロと有力な同労者アキラとプリスカ夫妻を欠いたコリント教会では、さまざまな問題が噴出しました。
先にも言いましたように、もともと創立当初からいろいろな悩みの種を抱えていましたので、パウロがコリントを離れた後、それらがあちこちでトラブルを引き起こし、収拾がつかないほど混乱してしまいました。
クロエの家の使用人が使者となって、その窮状をエフェソにいるパウロに訴えでました。また、コリント教会のメンバーたちも自らが抱えるさまざまな問題について助言や回答をパウロに求めました。
この混乱を収拾すべく、また彼らの抱える問題に対する具体的な処方箋を認めたのが「コリント信徒への手紙」として残された彼の書簡です。
(3) コリントの信徒への手紙一
この書簡はおそらく54年頃エフェソで執筆されたもののようです。
内容は、コリント教会内の分争に対する戒め、また、さまざまな倫理問題に関する質問への回答、および助言で占めてられています。その記述はかなり具体的で、コリント教会が抱えていた問題を垣間見ることができます。
コリント教会の問題点をキーワードで挙げると、「わたしはパウロに」、「わたしはアポロに」といった分争、分派( εριs エリス)、次に、誇り( καυχημα カウケーマ)、ねたみ( ζηλοs ゼーロス)、争い(エリス)、高ぶり( φυσιωσι∀ フシオーシス)、みだらな( πορνεια ポルネイア)といった言葉が認められます。
また、教会を攪乱する者たちの発言としては、「食べたり飲んだりしよう、どうせ明日は死ぬ身」、「すべてのことが許されている」、「食物は腹のため、腹は食物のため」、「人が犯す罪はすべて体の外にある」といったものがあり、中でも「すべてのことが許されている」は、パウロが二度にわたって引用しており、彼らがパウロの説く「福音の自由」を歪めて受け止めていたことが分かります。
これらをふまえると、コリント教会で問題となっていた勢力が浮かび上がってきます。
まず一つは、パウロの伝えた福音の自由を履き違え、自分たちは神の救いに与って、あらゆる人間的な束縛から自由であるという霊的優越性を強調し、自らを「認識者」として知的にも霊的にも傲慢に陥っても平然としておれる人間を生み出したのです。彼らは分派、分争、高ぶりを懐き、弱い者たちを蔑み、互いに裁き合っていました。
また、倫理的には、一方で性的禁欲思想に縛られた者たちがいたかと思えば(「男は女に触れない方がよい」7.1)、逆に体に対する霊の優越性を主張し、「体はポルネイア(みだら)のため」として一般社会の性的倫理すら無視する者もいたようです。
「罪からの解放」であるべき福音の自由が、逆に無規律と放縦に陥ってしまいました。その背後には、アジア、ギリシア各地の様々な宗教思想の影響もあったことでしょう。彼らはヘレニズム文化の影響を受けた知的優位さを誇り、中には主イエスの復活は迷信として否定する者たちもいました。
これらの極端なものも含む多種多様な考えの中にあって、コリントの教会員たちは思想的混乱の極みに達していました。
特に家庭生活、結婚生活、日常生活でのあり方(つまり倫理)、また、教会内のあるべき姿、つまり礼拝、聖餐、信徒の交わりなどの教会形成に関して、その指針が不明瞭となり大変な混乱が生じていたようです。
これに対して、パウロは個々のケースごとに、それぞれ処方箋を書くように具体的な助言や指導を手紙に認めました。もちろん、その過程で、自ずから「福音とは何か」に触れずにはおれなかったし、また疑問視されたパウロの使徒性も語らずにはおれませんでした。
「わたしはパウロに」、「わたしはアポロに」といった分派、分争に対しては、「誰が十字架に付けられたか」と言い、「心一つにして思いを一つにして、固く結び合いなさい」と一致を勧めています。
また、知的に誇る者に対しては、自分たちの召されたときのことを想い起こせ、誰一人神の前で誇れる者はいない、「誇る者は主を誇れ」と勧めています。「高ぶり」に対しては自らを「死刑囚」に譬え、低さを対峙させました。
太田愛人氏によると、パウロは弱さへの評価、見えないところに働く神の霊の賜物を発見していたのに対して、彼の反対者たちは、目に見える力、奇蹟や業、力強い言葉を求めていたとも言えると述べています(『NHKこころをよむ コリントの信徒への手紙』より)。
そして、人はやはり、目に見える力や力強い言葉、実績に心奪われるのではないでしょうか。コリントの人々もきっとそうだったのでしょう。
また、結婚と性愛、割礼の有無、偶像に供えられた肉の処遇、使徒のあり方、偶像礼拝、礼拝のあり方、霊的賜物、異言と預言、復活と死者の解釈などの質問事項に対しても、パウロは言葉を尽くして懇切丁寧に答えています。パウロは手紙による指導だけでは不足を感じ、愛弟子テモテをコリントへ派遣しました(Ⅰコリ4・17、16・10)。
このコリントの信徒への手紙一やテモテの派遣により、ある程度落ち着いたかに見えたコリントの教会に、その後、新たな攪乱者が登場しました。
それは当時キリスト教会の本山でもあったエルサレム教会の大使徒たちの権威を笠に着た、今日一般にユダヤ主義者と呼ばれる人たちでした。伝統的なユダヤ主義的宗教性に固執し、エルサレム教会が派遣した使徒や伝道者の威光を偏重し、救いの条件として律法の遵守と割礼を重んじる人々でした。彼らが、パウロの使徒としての権威を否定したことで、コリントの教会は再び混乱に陥りました。事態は以前より先鋭化し、倫理面に止まらず、福音の本質に迫る問題にも発展しました。パウロが伝えた十字架の福音そのものが否定されたとも言えるからです。
また、一方では、ユダヤ主義者の対極をなす者たち、すなわち、先に述べた福音の自由を曲解し、霊的である故に一般的な倫理を無視した者たちに対しても、パウロの権威が失墜したため、ますます対応できなくなっていったようです。
両者がそれぞれ自己主張し、その間にあって何が正しいのかわからず、混乱の極みに陥ったエクレシアを憂慮した者が、再びパウロに使者を送り、指導と助言を求めました。
当時エフェソでのパウロの宣教は、多大な成果をあげる一方、敵対者も多く、時には投獄されるなど辛酸をなめ、「私はエフェソで獣と戦った」(Ⅰコリ15・32)とまで言わせるほどの大変な苦労の連続だったようです。
そのような中にあって、パウロはコリント教会のために心を砕き続けていました。
しかし、その状況は、刻一刻悪化の一途を辿っていきました。一方に霊的熱狂主義があり、他方にはユダヤ主義、いずれも「真理は我にあり」と、真っ向からパウロの説く十字架の福音に挑んでいました。
前者は知的、霊的傲慢に陥り、自由をはきちがえ、規律を乱していました。これは現在の日本に通じる問題でもあります。
後者は、律法と割礼の遵守、力ある業と言葉こそ信仰であると主張し、他者に改宗を強く迫るものでした。こちらは、イスラム原理主義やアメリカのキリスト教原理主義の問題に通ずるのではないでしょうか。
そうした多方面から受けた思想的挑戦の中で、何が福音であるのかわからず迷走し始めたコリントのエクレシアだったのです。
(4) コリントの信徒への手紙二
この手紙は元来一通の文書ではなく、複数の手紙が寄せ集められたものと分析されています。以下「岩波訳」に従い、年代順に概略を追ってみます。
①コリントの信徒への手紙二「A」(2章14節─7章4節)
この事態を受けて、彼はまず手紙によって彼らを諭したようです。コリントの信徒への手紙二の「A」と呼ばれる部分で2章14節から7章4節に相当し、第一の手紙の補足と言える内容となっています。
その後、どうやらパウロ自らが短期間コリントを訪問したようですが、事態は収拾するどころか逆に相当な仕打ちを受け、失意の内にエフェソに戻ったと想像されます。
②コリントの信徒への手紙二「B」(『涙の書簡』、10章1節─13章22節)
今回の敵はパウロの使徒性を真っ向から否定するものでした。正当な使徒ではないからパウロの福音は間違っている、と主張するのです。ですから、彼に対する悪口雑言はまったく酷い内容で、彼の手紙からそれが伺われます。
まずパウロの外見については、「弱々しく、力強さがない」と蔑んでいました。パウロは小柄で、頭は禿げ上がり、猫背だったという伝説もあります。また「肉体のとげ」(Ⅱコリ3・7)と呼んで彼自身自覚しているように、何らかの身体的障害(癲癇、躁鬱症、眼病、言語障害などが想像されています)があったかもしれません。ですから、どうやらパウロはいわゆる立派で凛々しく人目を引く容姿ではなかったようです。
また、パウロのことを「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」(Ⅱコリ10・1)とか、「手紙は重々しく力強いが、実際にあって見ると弱々しい人で、話もつまらない」などと揶揄されました。「話もつまらない」とは「話し振りは素人」(岩波訳)と言う意味で、もしかしたら、ギリシア的教養に富み、旧約聖書にも精通し雄弁なアポロなどと比較して、パウロの弁舌は力強さと洗練さがなかったのかもしれません。
また、パウロがテント職人をして自ら生活費を稼いでいるのは、使徒としての被扶養権の資格がない証拠だ、という非難もあったようです。「キリストがわたしによって語っておられる証拠を求めている」(Ⅱコリ13・3)とパウロは嘆いています。彼に対する辛辣な批判により、パウロの使徒としての信用はぐらつき、コリント教会の混乱はもはや手におえない状態に陥ったのでした。
失意の内にエフェソに戻ったパウロが「悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに」(Ⅱコリ2・4)認めたのが、コリントの信徒への手紙二にある『涙の書簡』と呼ばれる部分です。
おそらくこれは紀元55年初頭に書かれたもので、10章1節─13章13節がそれに相当する部分だと言われています(手紙「B」)。彼は後に「あの手紙によってあなたがたを悲しませた」と振り返っているように、彼の心情を吐露した激しくも厳しい内容の書簡なのです。
敵対者は、パウロとは異なる「他のイエス」、「異なった霊」、「異なった福音」(Ⅱコリ11・4)を強調し、信徒を惑わしていました。その彼らを「自己推薦する者たち」(Ⅱコリ10・12)、「偽使徒たち、狡猾な働き人たち」(Ⅱコリ11・13)、「大使徒たち」(Ⅱコリ11・5、12・11)とパウロは皮肉っています。おそらく主イエスの実弟ヤコブを初めとするエルサレムの大使徒たちの権威を笠に着た者たちだったのでしょう。彼らがもたらした福音はパウロが伝えたそれとは異なり、「モーセと同様な偉大な奇跡行為者イエス、その霊により自らも力ある者となる事を目指す信仰」を標榜していたと思われます。十字架の逆説はまったく理解されず、パウロのひ弱さを誹謗していました。これに対してパウロは自分の弱さをむしろキリストの故に誇り、彼らの求める強さと対比させました。
9すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 (Ⅱコリ12・9、10)
そして、再三にわたり「すべてはあなたがたを造り上げるため」(Ⅱコリ12・19)だと深い愛をこめて厳しく叱責しています。
さらに、この「涙の書簡」と共に、今回は愛弟子のテトスをコリント教会に派遣しました(Ⅱコリ12・18)。このテトスが和解交渉の苦役を引き受けたのです。パウロの熱き想いと、テトスの地道な努力により、時には問題の原因となったメンバーを一時退会させるという強硬手段を講ずることで事態は次第に好転し、恐らく総てのメンバーではないでしょうが、かなりの者がパウロのもとに戻ってきました。後にパウロは、退会させた者の赦しと受容を教会に勧めています(Ⅱコリ2・5以下)。
③コリントの信徒への手紙二「C」(1章1節,12章13節、7章5節─16節)
テトスの努力もあってコリントの信徒たちがパウロの和解の勧めを受け容れたという知らせを聴き、喜びに溢れながら認められたのがコリント信徒への手紙二の「C」(1章1節─2章13節、7章5節─16節)です。
「ほむべきかな( ευλογητοs エウロゲートス)私たちの主イエス・キリストの父なる神」(Ⅱコリ1・3、協会訳)、苦闘の末に賜った和解の歓喜と、主への感謝と讃美がほとばしるこの言葉で始まっています。「私たちが抱いている希望は揺るぎません」(Ⅱコリ1・7)、主の勝利への讃歌でもあります。
吉報を手に急ぐテトスに合うために、パウロはわざわざエフェソからマケドニアまで出向き(Ⅱコリ2・13)、そこで、コリント教会の恂恂たる改悛の様子を知って彼は歓喜の声を挙げました。「テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました」(Ⅱコリ7・13)。こうして、コリントの教会は「従順」となり、「すべての点で信頼できる」ようになったのでした。
④コリントの信徒への手紙二「D」(八章)、「E」(九章)
コリントの信徒への手紙二「D」(八章)と手紙「E」(九章)は、その和解の結果を受けて、深い信頼関係を回復したコリント教会と共に、エルサレム母教会へ献金をするための具体的な協力や援助の要請が述べられています。ここでもテトスが募金プロジェクトの大役を任され、パウロのこの手紙を携え募金活動で活躍しました。
紀元56年、パウロは再び共に熱い抱擁を交わすことができたコリント教会に三ヶ月間滞在し(使徒20・3)、ここで「ローマの信徒への手紙」を執筆しました。この大作を書き終えて、彼はアジア、アカイア諸州の献金を携え、エルサレムへと危険な旅を敢行しました(使徒21・15以下)。使徒言行録によると、案の定エルサレムでユダヤ人たちから命をねらわれ、争乱に巻き込まれてローマ軍に保護され、皇帝へ上訴したため数年後ローマに護送されたようです。そして伝説では、紀元64年頃ローマで殉教したと言われています。
(5) 和解の担い手
パウロとコリント教会との和解で、スポットライトを当てるべき立役者は誰でしょうか。もちろん、誰よりもまずパウロその人でしょう。コリント教会が混乱していた当時、エフェソ宣教では大いなる成果が上がっていましたが、彼自身は当局から睨まれ投獄され、一時は死を覚悟したこともあったようです。そのような困窮の中、愛してやまないコリント教会が紛糾しているとの知らせは、彼の心を引き裂いたに違いありません。残っているだけで6通以上の手紙を認めただけでなく、自らコリントを短期間訪問したことでもそれが窺い知れます。しかし、そのパウロが自ら出向いても和解は成り立ちませんでした。むしろ、彼の使徒性を真っ向から否定する敵対者たちの誹謗と中傷を前にして、彼は失意の内にエフェソに帰らざるをえなかったようです。その直後に書かれた『涙の書簡』と呼ばれる文書(Ⅱコリ10・1─13・22)は、彼の切ないほどの熱情と、そそのかしに引きずられる教会員たちへの厳しい諭しの声が生々しく残されています。
パウロは、どちらかといえば性格的に激しい面がありました。時には論敵に向かって「呪われよ(αναθεμα εστω アナテマ エストウ)」(ガラ1・8、9)とまで言ったほどでした。もちろん、そう言わざるを得ないほど重要な問題だったことは理解できますが、私の少ない経験から、こうした発言は互いの意思を交わす上で大変不適切な言葉ではないかと思います。
ビジネスではしばしば先鋭的にきわどい交渉をせねばなりませんが、そうした際、最も良い交渉人というのは、相互に信頼される人です。多くは実務に長けた人で、「あの人なら任せられる」と双方から認められるような人物です。また、相手側の言い分も十分聞き取り、相違点や問題点を見出し、整理し、相互に承認できるところを探り、また一致できない場合は妥協点を見出していく冷静さを併せ持つことも必要です。これは誰もができるものではありません。やはりこれも、重要な賜物のひとつと言えるでしょう。イギリス人がそうした経験が豊富であり、そのセンスが身に付いていたという話を故伊藤邦幸先生から伺ったことがあります(「平和を支えるもの」1980年)。リンゼイ卿などを生んだデモクラシーと「センス・オブ・ミーティング(sense of meeting=会議の精神)」の伝統を持つ国ならではと思いました。
もちろん、パウロとコリント教会の場合は、ビジネス交渉とは根本的に異なるもので、妥協点を探ると言ったたぐいのものでは決してありません。パウロには譲れない点がありました。それは主の福音の本質そのものに関わるものでした。また、逆に、コリント教会の側としては、パウロの使徒性が疑問視され不信感を懐いていた上に、彼の立場や性格を考えると、もはや素直にパウロに耳を傾ける余裕が、感情的にもなくなっていたのではないかと思えます。
ここでもう一人重要な人物に注目してみたいと思います。それは、今回の和解の使者となったテトスです。彼は不思議なことに、「使徒言行録」には全く登場していません。しかし、パウロの真正の書簡には、原始キリスト教史上非常に重要な局面において、なくてはならぬ存在として登場しています。
テトスは異邦人キリスト者でした。「ガラテヤの信徒への手紙」によると、彼は若き日に異邦人伝道の生きた証人として、パウロに伴いエルサレム使徒会議に出ています。紀元48年頃のことでした。その会議は、異邦人伝道において、割礼の要不要を議論しただけでなく、パウロの生涯の課題でもある異邦人伝道の是非を問うもので、キリスト教史において大きな分岐点となった歴史的な会議でもありました。
パウロはそこで、無割礼の異邦人クリスチャンであった青年テトスを同伴しました。パウロ自身、ユダヤ人からは裏切り者として睨まれていましたし、律法と割礼を無視する輩として一部の熱心派から命すら狙われていたようです。ですから、そのパウロに同伴することは、言うまでもなく生命の保証がないことを意味します。テトスはそのような危険な旅とエルサレム使徒会議に、パウロの要請を受けて同伴する勇気ある青年でした。パウロは、何よりも生きたテトスその人を見てもらい、福音を受けるには割礼がなくても大丈夫だということを示したかったのでしょう。百聞は一見に如かず、論より証拠というわけです。おそらくテトスの人柄もあったのでしょう。福音の喜びに生き生きとしていたテトスは、敵対者をも黙らせるほどにキリストの香りを漂わせていたのかもしれません。テトスに割礼は強要されませんでした。また会議も、異邦人がクリスチャンになるのに割礼は強要されないという、重大な結論が示されたのでした。
後に彼は、パウロの伝道した最西端であるダルマティア地方にも派遣されたことなどから(Ⅱテモ4・10)、教会の仲間たちの彼への信頼が大変厚かったのが分かります。また、新約聖書の「テトスへの手紙」はパウロの真正な書ではないようですが、テトスを「信仰を共にするまことの子」と最高の褒め言葉で讃えています。これはテトスが主に従う人生を全うした事実を受けた後世の賛辞とも受け止められます。伝説では後年彼はクレタで監督となり、90歳を過ぎるまで牧会したと言われています。不思議なことに、これだけ重要な役割を担ったというのに、「使徒言行録」にはテトスは全く登場していません。著者がテトスを知らなかったとは考えられませんので、意識的に登場させなかったようですが、もしかしたら、たえず裏方に徹した彼の性格が反映しているかもしれません。
今回のコリント教会との和解でもテトスの活躍を抜きに語ることはできません。もちろん、テトスはコリント教会設立以後、そこでの雑事を心込めて忠実にこなし、コリントのメンバーたちにも大いに愛され、信頼されていたに違いありません。
ところが数年が経ち、コリント教会の離反問題が起きました。パウロ自らは様々な事情でエフェソから出向くことができず、テトスがコリント教会との関係修復の大役を任されました。おそらくすでに30代半ば過ぎのテトスは、若き日と変わらぬ誠実な人柄にますます円熟味が増し加わっていたことでしょう。それは、パウロとは断絶しかけていたコリントの信徒たちとの交わりを維持できただけでなく、パウロの意向を彼らに十分伝えられるほどのものだったと思われます。テトスの話だったら仕方がない耳を貸してもいい、テトスはむげに断れない、そういう存在だったのではないでしょうか。
テトスはおそらく誰からも信頼される誠実な人ではなかったかと思われます。先にも述べましたが、ビジネスで渉外は最も難しい仕事の一つです。相手との信頼関係を築くことが何より大切です。確かにビジネスの交渉には、相手の裏をかいたり、欺き、出し抜くといった駆け引きもあるようですが、長く共に仕事ができるのは、互いの利害を超えて信頼関係が結べる場合です。また、そういう時の担当者とは、仕事を離れてもつき合えます。場合によったら、会社よりその担当者を信頼しているとも言えます。では、いったいどういう担当者が信頼できるかと言うと、まず、約束を守る、必ず応答する、といった言行一致の誠実な人です。また、的確な判断を伴う実務に精通した人でもあります。そうした彼らに共通するのは、会社や自分の利害を第一にせず、正しいこと、信用を重んじ、商倫理を尊重する点があげられます。
もちろん、今回のケースとビジネス交渉は決して同じ性質のものではありません。ビジネス特有の駆け引きなどとは縁のない交渉だったと思います。テトスは直球勝負でコリントの人たちに向き合ったに違いありません。またそれは、時には大変な痛みを伴うものだったことでしょう。パウロの代わりに罵倒されたり、嘲られたりしたこともあったと思います。激しい反発や冷たい視線も浴びたことでしょう。逆にある時は、彼らの罪を厳しく糾弾せねばならなかったに相違ありません。しかし、それは、福音の神髄に関わるものでした。そして、何とかして福音の喜びに立ち帰ってほしいと祈りつつ、真心込めて一人ひとりを尋ね、足繁く通い詰めたに違いありません。テトスも胃が痛み、眠れぬ夜を幾晩も過ごしたことでしょう。しかし、時が与えられて、彼はパウロの「涙の書簡」を披露し、その真意を心を込めて伝えるまでにいたったのです。おそらく、テトスは孤独ではなかったと思います。最初から彼を支えたコリントのメンバーもいただろうし、目が開かれていった者も日に日に増えていったことでしょう。いったいどれだけの期間、彼は説得に努めたのでしょうか。彼のコリントでの日々こそ、天使たちも息を飲んで見守っていたに違いない、まさに「その時歴史が動いた」瞬間だったと思わざるを得ません。
私は、テトスはそういう人ではなかったかと想像しています。先にも述べましたように、和解が成立した後、彼は本格化した募金運動の大役を任され、それにも喜んで携わったようです。彼に対する諸教会の絶大な信頼がその背景にはあったことでしょう。彼の人物としての信用はもとより、事務能力にも長けた実務の人だったことが、そこからも伺えます。わたしはこのテトスの生き様に、和解を担う人材のあり方を強く教えられるのです。
(6) 和解の結果と意義
パウロにとってこの和解が成立するかどうかは、彼の福音の真価が問われる天王山でした。おそらく、対立者も含めた教会全体での完全な和解は成立せず、ある者たちはコリント教会を去っていったでしょう。また、ある重要なメンバーは除名処分されたようです。しかしこうすることで、動揺していた信者たちがパウロの説く福音のもとに立ち帰り、最終的な分裂が阻止され教会の一致を保つことができました。立ち帰った者の中には、教会の有力なメンバーでもあるガイオやエラスト(ローマ16・23)などもいたのでしょうか。彼らはその後、心を一つにしてパウロに聴き従ったと思われます。「ローマの信徒への手紙」16章には彼らの名前が特に記されているからです。また、パウロは、除名処分したメンバーに対しては、非常に細やかな配慮を示しています。「その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべき」で、「ぜひともその人を愛するように」(Ⅱコリ2・7─11)と書き送っています。また、パウロはこの赦しを、「サタンにつけ込まれないため」と言っており、彼がこの分裂の背後にある不気味な勢力をたえず意識して闘っていたことが伺えます。
この和解により、パウロは次の重要な一歩を踏み出しすことができました。まず、彼の宣教の集大成であり、結果的には遺書ともなった「ローマの信徒への手紙」を執筆しました。この手紙の意義は言うまでもないことです。後世の世界に多大な影響を及ぼしただけでなく、今日もなお、人類が賜った最も重要な文書の一つと言えましょう。コリント教会の窓から見える街の喧噪を耳にしながら、幾多の苦難と試練に耐えて精錬された言葉の数々を思い起こしつつ、筆記者テルティオの協力を得て綴られました。そこには、コリントを含め各地での宣教で直面した数々の苦闘から得た福音の奥義が、随所に散りばめられています。中でも、コリント教会の対立者と交わした激しい言葉の格闘を通して、パウロは人の罪の深淵と頑迷さと、それらに打ち勝つ主イエスの福音の勝利への確信を高らかに讃美することができました。
神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。……
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。 (ローマ11・32)
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。……私たちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。(ローマ8・35─39)
彼はそれらの経験から生きた言葉を主イエスから賜ったのです。そして、限りある人間の言葉の制約を受けながらも福音の奥義を表現したのが、この「ローマの信徒への手紙」でした。
コリントの信徒とパウロの熱き関係は、彼が去った後も引き継がれたようです。コリント教会に宛てた彼の手紙は大切に保存され、おそらく筆写もされたことでしょう。また、時には礼拝などで講読され、福音の原点を想起したこともあったろうと思います。彼らは、そこに記された罪にまみれた自分たちの醜態を敢えて改ざんしようとは思わず、事実をありのままに残しました。そこにはパウロの伝えた福音の威力が、生々しいまでに残されています。それらはやがて新約聖書に結実していきました。この「コリントの信徒への手紙」が新約聖書に入っていることこそ、この「和解」の意義を雄弁に語っているのではないでしょうか。
もう一つ見逃せない出来事があります。
それは、この和解を受けてパウロが長年果たそうとして準備を進めてきた、エルサレム教会への献金プロジェクトを敢行できたことです。
彼は、エルサレム母教会との一致のため、エルサレム使徒会議での約束の履行を命がけで果たそうとしました。もし、コリント教会との和解が成り立たなかったら、はたしてそれが実現できたでしょうか。コリント教会は、構成員も多くかなり裕福だったようですから、諸教会の中でも特に発言権が強かったに相違ありません。そこでパウロの使徒性が疑われたのですから、すでに着手していた献金プロジェクトそのものがとん挫する瀬戸際に追い込まれたわけです。この信頼関係の回復がなければ、エルサレムへの献金などはありえなかったのではないでしょうか。和解が成立し、彼らとの深い信頼関係が回復したことで、コリントの信徒たちは再び喜んで募金に協力しました。
また、献金献上の旅は、結果的にはパウロの殉教への道となりましたが、これにより、彼が使徒会議の約束を命がけで守ったことで、パウロの使徒としての評価は決定的になったと言えるのではないでしょうか。数十年後、その結果も踏まえて書かれた「使徒言行録」には、パウロのこのエルサレム登りの危険な旅を、相当のページを割いて語られています。そこでは、パウロは「使徒」として鮮やかに描かれています。おそらく、パウロの殉教の数年後、紀元70年にエルサレムが崩壊したのを機に、エルサレム教会が衰退していったことや、パウロの育てた異邦人教会がその後ますます成長したことなどがその背景にあったと思われます。あのエルサレム上りを敢行したことで、「使徒パウロ」が全教会で否応なく承認されていったのでしょう。こうして、パウロの教えは、その後の全キリスト教会の中心的な指針のひとつとなって受容されていきました。そして、それは歴史に多大な影響を及ぼしていったのです。様々な束縛の虜となっていた人類が、彼の説く主イエスの福音により解放されていきました。そして、それは近代の基本人権と自由の精神として結実していったのです。
繰り返しますが、もし、この和解がなかったら、パウロの宣教はどうなっていたことでしょう。いや、そればかりかキリスト教はその後どのような道を辿ったことでしょう。その意味で、この和解の意義は計り知れず、まさに、「その時歴史が動いた」と豪語できる出来事だったと私は思います。
(7) む す び
さて今日、世界は大変な様相を示してきました。2001年の9月11日以降、目が離せなくなったアフガンやイラクでの「戦争」は、逆に、人類の悲願でもある「和解」を、全世界の人が考えさせられるきっかけともなりました。まさに「和解」こそ人類に残された重要な課題の一つです。あの日以来、世界は激しく揺さぶられ、罪と罪がせめぎ合っています。互いに他者を容認できない、絶対と絶対の「正義」が相対立し、その間に越えることのできない「隔ての壁」(エフェソ2・14)が高く聳え立つのを目の当たりにしています。沢知恵さんが歌う「ザ・ライン(The line=境界線)」が至る所で引かれているのです。
There's a line, invisible line
Everywhere in this world
そこにラインが、目に見えないラインが、
世界のいたるところに(引かれている)
21世紀が、あの同時多発テロとアメリカの報復戦争で始まったことは、深い意味が秘められていると思えてなりません。人類は果たして「和解」による平和を築くことができるでしょうか。
アフガニスタンの問題の解決は、いったいどこにあるのでしょう。アメリカが武力介入したことで、たしかにタリバン政権は崩壊し、北部同盟を中心とした暫定行政機構により新たな国造りが開始されました。しかし、それは真の解決への道でしょうか。アフガンの民はおそらくまだ新政権を心から信頼していないでしょう。また、アメリカはもとより、支援を声にする国際社会を、彼らは心から受け入れてくれているのでしょうか。特に今回躍起になってタリバン政権撲滅に走ったアメリカやイギリス政府を、彼らが無条件で信頼しているとは思えません。第二次大戦以前からアフガンを支配し、勝手に国境線を引いたイギリス、対ソ連戦争で援助を惜しまず湯水のごとく武器を供給し続けたアメリカ、いずれも自国の国益が損なわれるとみるや、さっさと引き上げてしまったことを彼らは決して忘れてはいないはずです。
これに対して、私はある一人の日本人を思い起こします。
ペシャワール会の中村哲医師です。彼は医師として17年間にわたり地道にアフガン難民救済に尽くしてきました。中村先生が属する非政府組織(NGO)でありまた、非営利団体(NPO)でもあるペシャワール会は医療活動だけでなく、給水など衛生問題や生活の基礎基盤の整備にまで手を広げ、アフガンのために地道に活動の輪を広げてきました。2001年秋に米軍の空爆が始まり、やむなく緊急避難の撤退を余儀なくされた時、彼は地元の人たちに「わたしたちは帰ってきます。……プロジェクトに絶対に変更はありません」と挨拶しますと、それを受けて村の長老らしき者が立ち上がり、こう述べたそうです。
皆さん、世界には二種類の人間があるだけです。無欲に他人を思う人、そして己の利益を図るのに心がくもった人です。PMSはいずれかお分かりでしょう。私たちはあなたたち日本人と日本を永久に忘れません。
(PMS:ペシャワール会医療サービスの略、『非戦』坂本龍一監修、幻冬舎46ページ)
和解を担う人、それは彼らのように困窮にある人を無条件で、まさに「無欲に他人を思」いつつ、医療など具体的な実務能力を発揮して、その重荷を黙々と担う人たちではないでしょうか。彼の無私の心と、それに伴う地道な実績が、不信と不安に苛まれ頑な人々の心を開かせ、信頼を勝ち得ていくのです。そこで初めて、「和解」への途を一歩踏み出すことができるのではないでしょうか。
ジコチュウ(自己中心)で、己の正義を振りかざすばかりのところには、和解の精神は決して生まれません。自分に死に、心から人に仕える者とされるとき、そこに和解の使者が誕生するのです。それを可能にするのは何でしょうか。主イエスの十字架の福音です。
しかし、その福音も、教義や神学に支配された頭でっかちで硬直化したものとなったとき、信頼の扉は錆付き和解の道は閉ざされ、宗教の名のついた「聖戦」が口火を切ってしまうのではないでしょうか。アメリカの強攻策によるイラクへの介入とイスラム原理主義者たちとの泥沼化した戦いは、平和を造り上げる苦闘ではなく、まさにその主義と主義の争いであり、対立者を抹殺しつくすまで終わらない戦いとなってしまいました。
私たちの進むべき道は、このような「悪に負けることなく、善をもって悪に勝つ」(ローマ12・21)ものであり、それは、あのテトスのように、そして、ペシャワール会の中村哲先生のように、どんな人に対しても、目前の困窮を見て見ぬ振りをせず、それを具体的に担い、たとえどんなに小さなことであっても忠実に仕える者に徹し、自分ができる実務能力を精一杯発揮することではないかと思うのです。パウロの「ソーフロネイン(テンペランス=慎み深い)」(ローマ12・3)の生き方にはそういう面があるのではないでしょうか。
互いに愛し合うことのほか、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。……愛は律法を全うするものです(同13・8─10)。
だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい(同15・7)。
その中で、テトスや中村哲先生のような歩みが「和解」の端緒となるではないでしょうか。そこに自ずと生まれた信頼関係が、福音の実なのです。
今から1950年ほど前、パウロとコリントの教会の間にも、越えられないほどの壁がそびえ立ってしまいました。しかし、その壁は福音の愛と厳しさによって取り壊されたのでした。そして、「その時歴史が動いた」のです。この和解によって、パウロが託された主イエスの福音が、歴史からの消滅するのを免れました。
キリストの福音による「和解」は、福音の実力を証しするものです。それは現在も変わらぬ希望の源です。キリスト者はその「和解の言葉」を委ねられている者なのです。主の憐れみに縋り、何よりもまず、かたくなな自分自身が神と和解させて頂かねばなりません。そして、和解の言葉を担う者として、地道にドラッジャリー( drudgery 単調な骨折り仕事)を忍耐強く負い続けていく者とされ、主にあって和解の希望をどこまでも諦めることなく抱き続ける者へと造り変えていただくのです。パウロとコリント教会が和解し、世界史において「その時歴史が動いた」といえるその時、万軍の天使が歓声をあげたように、私たちも今この福音の喜びに共に与るために、「和解」を祈り求めていきましょう。
(「番紅花」第14号2002年2月初出、『平和は大河のように』掲載を改訂したもの。)