「聖化」への招き ー 『テサロニケの信徒への手紙 一』
「聖化」への招き ー『テサロニケの信徒への手紙 一』
2007年6月14日
はじめに
本日、ご一緒に学びます聖書の箇所は、新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙一』ですが、これは、パウロがしたためた手紙です。パウロは母教会だったシリアのアンティオキア教会を出て、福音を伝えるため異邦の地へ旅に出ました。そして各地に小さなエクレシア、つまり集会を誕生させました。
エクレシアと言っても、それは今日で言えば家庭集会のようなもので、おそらく有志の家がそのままエクレシアの会場となっていたのでしょう。
ヨーロッパ初のエクレシアは、マケドニアのフィリピにできました。
以前、皆さんとご一緒に『フィリピの信徒への手紙』を通して学びましたように(「主イエスの愛の心で」2005年秋)、そのフィリピでも迫害に遭い、町を追い出され、辿り着いたのがこのマケドニア州の州都テサロニケだったのです。
この町でもパウロの努力により小さなエクレシアが誕生しました。その小さなエクレシアに対しても、迫害が及びました。パウロはテサロニケにおれなくなって、とうとう脱出し、アテネ、コリントへと向かったわけです。この手紙は、後ろ髪を引かれる思いで残してきたテサロニケの信徒たちを案じて、おそらくコリント辺りで認めたものだろうと言われています。
聖書というと、例えば、「何々をしてはいけない」とか「何々をしなさい」という戒律や、倫理的な教え、人生の知恵が書かれていると思われがちです。
確かにそういう面もありますが、実にバラエティに富んでおり、歴史、法律、文学もあれば、本日学ぼうとしているような手紙もあります。「聖書」と言って身構えて読もうとすると、なかなかできませんね。でも、そうする必要はありません。
若い人たちはほとんどメールで済ませますが、皆さんはお手紙を書かれますね。
どんな時にペンをとりますか。たとえば○○さんが病気だ、心配事を抱えている。○○さんに相談に乗られた、何とかしてそれに応えたい。それから、逆に自分がすごく悩み落ち込んでいる、悩みを聞いて欲しい、この苦しみを分かち合って欲しい、相談に乗って欲しい、そういう時などに手紙を書きますね。
まさにこの『テサロニケの信徒への手紙』も同じです。
そういう目で読んでみますと、聖書が生き生きと甦ってくるのではないでしょうか。
神様は主イエスを通して何を伝えようとされたのか、パウロたちを通して何を伝えようとされているのかを味わい、体得するかのように読む、その一助として、今日のお話がお役に立てればと思います。
それにはまず聖書自体を読むのが何よりです。
確かに読みにくい書物ですが、何度も、何度も繰り返し向き合っていただければ、聖書は必ずそれに応えてくれると思います。
1.テサロニケの信徒へのパウロの手紙
この手紙は、誕生間もないテサロニケのエクレシアとパウロたちとの、スプランクナ(「腑」、「心」の意味、『フィレモンの手紙』にあるパウロ独特の言葉)からの交流が、生き生きと描かれた貴重な記録で、パウロのこまやかな配慮が全編に溢れています。
この手紙を大まかに見ると、二部に分けられます。
第一部は1から3章で、テサロニケで起きていることを通し神に感謝と讃美を表明しています。
つまり、この手紙の3/5がパウロの感謝の言葉で占められているのです。
パウロが脱出した後、テサロニケの信徒たちは迫害の中、苦しい立場にあるにもかかわらず、じっと耐えてパウロの伝えた福音を信じ、愛の交わりを続けているとの知らせを受け、それに対するパウロの感謝が綴られています。それがこの手紙全体の3/5も占めているわけです。
残りの2/5ではテサロニケの信徒たちの質問にパウロが答えています。
ですから、大きく二つに分かれていますので、本日は途中の休憩を挟んで、前半で第一部を、後半に第二部をお話ししたいと思います。(註1パウロ時代の手紙はどのようにして書かれたのか)
2-1 第一部 感謝と讃美
まず、第一部の1─3章で、感謝と讃美が綴られています。早速、本文を読んでみましょう。
挨拶
1.1パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
この手紙の差出人は、先程ご紹介したパウロと、アンティオキア以来ずっと同労者だったシルワノ(ヘブル名はシラス)、それに、パウロが異邦人伝道で得た弟子の一人テモテです。
主に倣う者
2わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。3あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望をもって忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。4神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神に選ばれたことを、わたしたちは知っています。5わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
2節から5節までが一つの文章です。その冒頭は、
エウカリストーメン トー セオー パントテ ペリ 〜
私達は感謝します 神に すべて 〜以下について
です。3節以下の内容を思い起こして、祈りのたびに神に「エウカリストーメン(感謝します)」という美しい言葉によって、この手紙が書き出されており、これがこの手紙全体の基調となっています。
3節に、「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していること」(新共同訳ほか)とあります。
ここは、一見するとテサロニケの人たちが信仰によって働き、愛のために苦労し、また希望をもって忍耐している様子をパウロが誉めているようにも受け取れます。
確かにその通りですが、3節の原文を直訳しますと、
思い起こす、あなたがたの、
働き(エルゴン)、 真・信(ピスティス)の そして
労苦(コプー) 、 愛(アガペー)の そして
忍耐(ヒュポモネー) 、希望(エルピス)の
主なるイエス・キリストの
わたしたちの父なる神の御前で、
となっています。新共同訳などでは、「主なるイエス・キリストの」が「希望」にのみかかり、「主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐」と訳されていますが、実は、「ピスティス(真・信)」、「アガペー(愛)」、「エルピス(希望)」の三者すべてにかかると解釈できないか。
つまり、「主なるイエス・キリストのピスティス」、「主なるイエス・キリストのアガペー」そして「主なるイエス・キリストへのエルピス」となり、「働き」とか「労苦」、「忍耐」というのは、テサロニケの人たちの「働き」「労苦」「忍耐」というだけではなく、「主イエスによるピスティスの(に基づく)働き」、「主イエスのアガペーの(による)労苦」、「主イエスに対するエルピスの(による)忍耐」ということで、それらに対してパウロは感謝し、讃美しているというふうに解釈できないかと思います。
ギリシャ語の専門家ではありませんので、間違っているかも知れません。
こじつけみたいですが、パウロという人は、もちろん事実として現実に起きていることをしっかりと観て受け止めていますが、それだけではなく、その背後にあるもの、それに絶えず視線を向けていたのではないかと私は考えます。
人間が共同体社会を造っていく「働き」(エルゴン)の上で、一番大事なことは「信」つまり信頼、信用、約束を守るということです。
もし、信じられなくなったとき社会はどうなるのか。
ニュースによると広島県の神石高原村で不審火が二十数件続発し、その犯人に土地勘があることから、村人の誰かではないかということで、村人同士が疑心暗鬼になってしまったそうです。それまで開放的な村人たちが変わってしまい「あの人が犯人では」と風評が流れるなど、村が崩壊しかかっているそうです。信用を無くすというは、そういうことでしょう。
そして、正に今、日本の社会はこの「信」が問われています。
年金問題始め、様々な分野で信用の崩壊が眼に見えて明らかになっています。
では、人間というものは心底信じられるのでしょうか。
残念ながら、なかなか難しいです。時には自分自身ですら信じられない不確かな存在です。
そんな不確かな人間を信じられるようになるには、どうしても、その人間を背後から支え、約束を保証し、時にはその負債をも弁償してくださる真実な存在が必要なのです。
このように人間社会の基盤となる「信」には、人間を超えた確かな存在でもある〈神〉の真実(ピスティス)、どこまでも貫き通す真実が必須なのです。
そして、テサロニケの信徒たちがなす社会的な「働き」の背後には、この神のピスティス(信)の裏付けがあり、それゆえに社会的な信用を勝ち得て意義のある有益な働きができている、そのことをパウロはここで述べているように思います。
次に「労苦」と訳した「コプー」というギリシャ語は、前述の「働き(エルゴン)」とは違って英語のドラッジャリー、つまり骨折り仕事(これは内村鑑三が述べた言葉で後ほど詳しくお話しますが)、極めて日常的に繰り返される日々の労働です。
私たちの生活のかなり部分はドラッジャリーですね。
仕事もそうですし、一番分かりやすいのは家事でしょう。来る日も来る日も繰り返されるコプーです。
中でも介護は大変きついコプーだと思います。
そういう単純作業をきちんと担う、これは当たり前のようで実は当たり前ではありません。
それを支えるもの何でしょうか。
突きつめてみると、例えばお母さんであれば、子供たちや夫に対する「愛」でしょう。
テサロニケの信徒たちも無償の奉仕に励んでいたのでしょう。それを支えていたのがこの「愛(アガペー)」で、その源泉が、「主イエスのアガペー」に遡るのだとパウロは述べているように思います。
それから次に「希望」(エルピス)ですが、これが「忍耐」と結び付けられています。
昨日ご紹介した安積力也先生のお話(「『教育の原理』とは何か」)にもありましたように、「教育とは待つこと」です。
それは成長という希望があるからこそ待てるのですね。
待てない希望は希望ではなく、それは諦めです。
絶対そうなってくれるのだという気持ちを起こさせてくれるものが「希望」です。
希望とは「忍耐」して待つことによって達成されます。その希望の源も主イエスだとパウロは述べているのです。
主イエスの「ピスティス」に基盤をおく「働き」それが本来の信用関係に基づく共同体形成となります。
そして、「アガペー」による無償の「労苦」、それは特別な献身としてテサロニケの人たちを動かしたことでしょう。
さらに主への「エルピス」に支えられて「忍耐」する姿は、彼らを練達へと導いていたのだと思います。
これらの「真実の働き」や「愛の労苦」「希望による忍耐」は、人間が努力して達成するものではなくて、それらを与えて下さる神がいらっしゃるからこそできるのだ、そのようにして働いたり、苦労したり、忍耐しているテサロニケの人たちの背後に、それを支える主イエスがいらっしゃることに対してパウロは感謝しているのではないでしょうか。
そういうテサロニケの信徒の姿、これこそエクレシアのあるべき姿だと思いますが、それは実は、神の現実(神の歴史の支配)を現しているのだ、そしてパウロはそのことへの讃美と感謝を表明しているのです。
そして、まさにそれを実現される神に、あなたがたは「愛され、選ばれている」のだよ、とパウロは伝えています。
それは苦渋の中で悩みと迷いに囚われ、打ちのめされそうになっているテサロニケの信徒たちにとって何という励ましの言葉でありましょう。
しかし、それは決して虚言ではない。
なぜなら、事実がそれを物語っているからとパウロは断言します。
だからこそ、この手紙の本文の冒頭で、「神に感謝します(エウカリストーメン トー セオー )」と神への感謝の言葉で始まっているのです。
2-2.パウロたちのテサロニケでの伝道
では、いったいパウロたちによるテサロニケの伝道とはどのようなものだったのでしょうか。
それを次にみてみましょう。
これについては、6節以降から2章にかけてパウロ自らの証言から推測されます。
6そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、7マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。8主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、10更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。
一見するとパウロは、テサロニケの信徒たちの生き様を誉め讃えているように見受けられます。
実際、テサロニケの信徒たちは大変な苦労をして、福音を受け入れたようです。
そのあたりの消息は新約聖書の『使徒言行録』17章1−9節に書かれています。
簡単にご紹介しますと、パウロたちは、トロイアから海を渡ってヨーロッパに足を踏み入れ、最初の町フィリピで小さなエクレシアを立ち上げました。しかし、そこでも迫害に遭い、町を脱出し、アンフィポリス、アポロニアをへてマケドニア州の州都であるテサロニケに辿り着きました。
ここにあるユダヤ人会堂(シナゴーグ)で、彼らは聖書(今日の旧約聖書、またはヘブライ語聖書)を通して、メシアの受難と復活を説き、さらにそのメシアはイエスであることを伝えました。
これを聞いて、ギリシャ人の信心深い人たちが入信したようです。
意外なのはギリシャやローマの高貴な人たち、中でも貴族のご婦人方が信徒になったようです。
そういった人たちがなぜ信徒になったのか。実は彼女たちは、今で言えばセレブというか、お金も時間も余裕があり、それこそドラッジャリーな家事などはする必要もなく、ある意味で大変うらやましい境遇の人たちだったのですが、逆にそういう人たちは、満たされていなかったのではないでしょうか。どこか空虚さを抱いていた。満たされていないから色々高価なものを身につけたりするのでしょうね。そういう魂の空虚さ、虚しさを実感している人たちが、〈本物〉に出会うと、意外にすっと受け入れていくのではないかなと思います。そして、感謝の印として彼女たちは自分の財産などを喜んで差し出そうとしたのでしょう。
それに対して市民たちの反発やねたみが生まれ、謀略によって町に暴動が起き、パウロたちのせいにされました。
また、パウロたちが「イエスという別の王がいる」と宣伝しているとして、「皇帝反逆罪」だと告発されたようです。
そのため、パウロたちは命からがらベレアに逃亡したのですが、その代わりに残っていたヤソン一家が逮捕、投獄されました。
彼らは後に保証金で釈放されました(恐らくここにも高貴なご婦人方の尽力があったのでしょう)。
蛇足ですが、その後のヤソンは、パウロと同道し、主のために労苦を共にしたようです。
ローマ書16章21節によると、パウロが最も苦闘したコリントに滞在しており、そのエクレシアの重要人物だったことが推察されます。
では、そんな逆風吹き荒れる中で、テサロニケの信徒たちが受け入れた福音とは一体どういうものだったのでしょうか
。また、その福音を聞いたテサロニケの人たちはどう変わったのでしょうか。
それについてもパウロはこの手紙で触れていますので、見ていきましょう。
パウロたちの伝道の特徴は何だったのか、それが2章1−14節に述べられています。
まず、パウロたちの視線は絶えず生ける神にあったことが述べられています。
「迷いや不純な動機」、「ごまかしによるもの」ではなく、また、「人に喜ばれるためでなく」「神に喜んでいただくために」伝道したこと、そして、「相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったり」せず、「人間の誉れを求め」なかったと述べています。
インチキ宗教や何とかカウンセラー、霊能者などにしばしば見られるやり方とはまったく異なっているのは、パウロたちが絶えず生ける真実なる神の存在を意識していたからです。
パウロは人間の顔色を窺うのではなく、絶えず神に眼を向けていた人でした。
ならば神ばかり見ていて、人に対していい加減だったのかというと、そうではなく、パウロは男性でしたが細やかな人間的配慮もできる人でした。
指導者として、いわゆる「先生」としてパウロは父親的な存在でしたが(「父親が子供に対するように、励まし、慰め、勇気づけた」)、時には母親のようでもありました。
彼は元来、使徒としての権威を主張することができたにもかかわらず、敢えてそれをしませんでした。
むしろ、テサロニケの信徒たちの間では「幼子のように」、原意は「やさしく、柔和に」でしょうか、ちょうど「乳母がその子供を大事に育てるように」臨んだと述べています。
また、ちょっと大げさな表現ではと感ずる方もいらっしゃると思いますが、「自分の命を与えたいと願う」とも述べています。おそらくパウロの正直な気持ちであり、また文字通りそうだったのだと思います。
パウロたちは、本来なら正当な報酬として信徒たちに養ってもらってよいにもかかわらず、敢えてそれをせず、「だれにも負担をかけまいと、夜も昼も働いて自分たちの生活費、経費を稼」いだと述べています。
このスタイルをパウロは異邦人伝道においてずっと貫いていたようです。
パウロはテント職人でもありました。
また、革細工などの仕事もしていたようです。
ですから工具類一式をいれた作業袋を担いで彼は旅を続けたことでしょう。
町の市場に、「テント作ります。テント修理、革細工請け負います」といった看板を立てて露店を開き、文字通り「昼夜働いて」日々の糧を得ながら、その合間に伝道していたようです。
そのような場所で知り合った同業者が、後にパウロを最も支えたアキラとプリスキラ夫妻です。彼等もテント職人でした。
そして、「謙虚に、礼節をつくし」て彼等に臨んでいたそうです。
これもなかなかできることではありませんね。
自らこういう事を述べるのもどこか日本的ではないのですが、おそらく実際にそうだったのでしょう。
そういうパウロに出会い、彼の生き様、彼の人柄、語る言葉を通して、主イエスの福音とはどういうものか、また、パウロを生かしている福音とはどういうものかを、テサロニケの信徒たちは肌で感じていったのだと思います。
そのパウロたちの苦労によってどうなったのかと言いますと、まず、「あなたがたは、神の言葉を受け入れた」(2.13)、とあります。
そして、「わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり」(1.6)、「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至った」と書かれています。
では、「神の言葉を受け入れた」とは、具体的にはどういうことをいうのでしょうか。
まず、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの(アレーシノス=real, genuine正真正銘本物の)神に仕えるようになった。」(1.9)とあります。
ここは読み飛ばしがちですが、とても大切なところです。
今の日本では偶像など信じる人はいないと言って、ピンとこないかもしれませんね。
でも現代に生きる私たちも、たくさんの〈偶像〉に支配されているのではないでしょうか。
〈偶像〉というと仏像などを思い浮かべてしまいますが、英語で言えばidol(アイドル)です。
皆さんにもたぶん、大なり小なりアイドルはあると思います。
人間のアイドルはもとより、考え方、思想、信条、そういったようなものもアイドルになり得ます。
では、アイドルの実態は何か?
実は意外なことに、私たちがそういう偶像を見るとき、その偶像というのは〈神〉のようであってそうではなく、自分たちの希望や欲望の延長にあるもの、私たちの願いがそのまま延長されて〈神〉になっているのではないでしょうか。
本ものの神というのは、私たちの思い通りになるような方ではありません。
「健康にしてください」といった願望はもちろんのこと、自分たちの価値基準でもある思想、信条、信念も、よくよく突きつめてみると、自分の思い通りになって欲しいという願望の延長線上にあるものでしょう。
それを〈神〉つまり、〈絶対〉にしていて、思い通りにならないときは、「そんなことは絶対あってはならない」と怒りを覚えるのです。また、自分が信じる〈神〉に対し異議を唱える人には反発する、そうやって互いにぶつかり合うのです。
武田清子女史は「普遍的価値のクライテリア(基準)」として、次のような基準をあげています。
自己を絶対化するのではなくて、自分を超えた、普遍的、超越的な価値の前に立ち、その普遍的、超越的なもの(神、天、真理等)の拠り所から、自己を対象化し、相対化し、自分が批判され、裁かれるという謙虚な自己認識をもつ、自己超越の発想を堅持すること。(『峻烈なる洞察と寛容』35〜36ページ註2)
「自分も批判され、裁かれるという謙虚な自己認識をもつ」ことが、真の神の前にある人の姿です。
そこでは自分が絶対的に正しいと主張することなどできません。
自分は間違っているかも知れない、そうやって自分を相対化し、謙虚に自己を見つめられるのですね。
まず、この「まことの(アレーシノス)神」の存在を認めるということが「普遍的価値」に至る第一歩です。
グローバル時代の現代において、自分たちの特殊性を絶対化して世界に臨むことは、自他共に決して善い結果を生みません。「普遍的価値」を基準にしてものごとをなさねばなりません。
そのためには、この「まことの神」を避けては通れないのです。
次に、その神が、イエス・キリストを通して私たちに真理を教えてくれたというのです。
そのイエスは、最後は十字架にかかって死にました。
そのような人を、神からの喜ばしいメッセージ(これを「福音」と言います)だというのは、信じがたい、本当にむちゃくちゃ、非論理的で馬鹿げた話です。
確かにその通りで、パウロ自身も「十字架の愚かさ」だと認めています(Ⅰコリ1.18-25)。
これは本当に常識では理解しがたく、また、論理的に言葉で説得できるものではないと思いますが、パウロたちはそれを伝えたのでした。
繰り返しますが、パウロが伝えた主イエスの福音とは、「神の言葉」を伝えることでした。
その内容を整理してみましょう。
まず
①まことの神が天地万物を創造され今も生きて働き給うこと。
②地上の救いのためひとり子を遣わしたこと。
③その方は、イエス、イエスであり、彼こそ主(メシア)。
④主イエスはわたしたち人間の罪故に十字架に付けられ死んだが、神は復活させたこと。
⑤復活された主は再び地上にやって来て、私たちを解放して下さること、と要約されます。
実はこの内容は、後に数百年の議論を経て、今日「使徒信条」(ニケア信仰告白)として知られているものに結実しました。
それは現代においても、全キリスト者の一致信条として大変尊重されています。
しかし、最近これに対して学者から疑問の声があがっています。
その例として、「キリスト教の再定義を」と題してなされた佐藤研(みがく)氏の講演をご紹介します。
佐藤氏は岩波の新約聖書の訳を監修した日本を代表する新約聖書学者の一人です。
その講演の紹介記事が「キリスト新聞」に掲載されていました。
そこには次のように書かれています。
クリスマスと結婚式・葬式が慣習化しており、「クリスチャンのアイデンティティが崩壊しているのが実情」だと指摘。「キリスト教という定義はできない。なんとなくいえば、イエス・キリストを大事にしようとする人たちの集まりだ」とし、「イエスをキリストと告白する宗教では完全に機能不全である」と明言。現在のキリスト教は「ニカイヤ・コンスタンチノポリス信条」と「カルケドン信条」に全宗派がよっているが、ここにも問題があると指摘し、「これらの信条でさえ、4〜5世紀の完成だ。イエスの時代にさかのぼった時には、こんなものはないということである」。……中略……
結論として、イエスをキリストと告白する伝統的定義の宗教よりも、「イエスに人間の本質と可能性を見、イエスの生死に学ぶ宗教」を提案した。
「キリスト教は再定義されなければならない。伝統的定義では、イエスをキリストと告白する宗教だが、これは我々の時代には妥当しない。いわば、博物館入りする定義だ」。……中略……
「もしも、イエスの生死に学ぶのであれば、どうやってイエスを神の子として信仰するかではなく、いかにして、我々にあの生き方と死に方ができるかという問いになってくる」。
新約聖書学者佐藤氏はこう主張するのです。
ここにはいわゆるニケア信仰告白に準じた「信仰」はなく、
聖書はあくまでも人間の生き方を学ぶための、道徳や倫理の書にすぎません。
イエスという人はどういう人であったか、福音書やパウロの書簡にある信仰の対象として描かれた伝統的なイエス像ではなく、実際はどうだったのか、歴史的に生きたイエスを再現し、その史的イエスの生き様を見習って、今日生きる私たちに応用しようという主張です。
そういう人生の模範、孔子や仏陀のような先哲としてイエスを探求するために聖書を読むべきというのです。
このように、イエスはもはや信仰の対象(人格的に仰ぎ向き合う対象)ではなく、人生の処世訓を学ぶ世界の先哲のひとりにすぎないと見なされているのです。
この記事を教えて下さった稲城教会の内坂牧師は、このような〈思想〉では、苦難の時代を乗り切ることなどできないと指摘されます。
日本が朝鮮半島を占領していた間、ずっと信仰を保っていた人たちがいました。
彼らは強制的に日本の国家神道(天皇教)に改宗させられ、言葉や名前も日本的なものに変えさせられ、自分たちのアイデンティティを剥奪されにもかかわらず、ひたすら信仰の真実を保ってきました。
このような生き様がはたして佐藤氏のいうような聖書理解から生み出されるのでしょうか。
それから、この文章を拝見して佐藤氏はとても強い人ではないかと感じました。
これに対してパウロは、『ローマ書』の7章24節にこんな叫びとも呻きとも言える言葉を遺しています。
「タライポーロス エゴー アンソローポス」
( 惨め わたし 人間 )
あのパウロが「何と惨めな人間だ、私は」と言っているのです。
しかし、この言葉の直後にすかさず、
「カリス デ トー セオー」
( 感謝 だ しかし 神に )
こんなひどい惨めな人間だけど、赦されて生かされている、「神に感謝します」と喜びの叫びをあげています。
本日、最初に皆さんとご一緒に拝読した聖書の中に次のような御言葉がありました。
「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」(『Ⅰテサロ5・9』)。
パウロがこう言い切れたのは、自分自身の実感があったからでしょう。
パウロは、かつてそれが最も正しいと信じて、怒り狂うほどキリスト者を糾弾していました。
自分は正しいと信じてやっていたこと、それが全くの倒錯だった、方向違い、的外れだったのです。
キリスト教の〈罪〉という言葉は「的外れ」という意味ですが、まったくの的外れであったにもかかわらず、そんな自分をも、「よし」として赦して下さっている。
それをパウロは痛切に実感させられたのです。
この絶大な赦し、愛され受容されているという体験が、あの迫害者パウロを変えたのでした。
だから、パウロはその福音を語らざるを得なかったのです。
何とかしてこの信じがたい福音を多くの人々に分かってもらいたいと、様々な体験と苦闘の中から得た貴重な言葉を通して伝道したのでした。
処世訓や道徳、倫理で人生の荒波を乗り切れる人は本当に幸せで、多くの人にとって自分の力では到底いかんともしがたい人生の不条理に直面させられます。
中でも、自他の罪によって引き起こされる深刻な事態を前に、ただ立ちつくすばかりでしょう。
そんな時、果たしてそのような〈思想〉や〈知恵〉がどれだけ私たちの力となり得るのでしょうか。
私たちは、佐藤氏が思うほど決して強くありません。
また、佐藤氏の主張するように、「いかにして、我々にあの(イエスの)生き方と死に方ができるか」ということを、果たして聖書を通して「学ぶ」ことが可能なのでしょうか?
自分の能力や意志で、完全な自己放棄である十字架の道を歩むことができるのでしょうか?
内村鑑三はこう言っています。
真(まこと)の伝道師になくてはならぬ者が三つある。その第一は神に救われたる実験である。これなくして彼の聖書知識は如何に該博なるも、彼の哲学的素養は如何に深遠なるも、彼は人を教え、霊魂を救うことは出来ない。己(おのれ)まず神に救われたるの実験を有せずして、他(ひと)を救いの道に導くことは出来ない。(内村鑑三)
本当にそうだなと思います。
聖書に向き合う極意がここにあるように思います。
次に話の本筋から少し外れますが、ユダヤ人の断罪の言葉が綴られた2章15−16節は、後代の加筆の可能性あります。
これは聖書を読むときに注意せねばならないところですので、補足してお話しします。
まず本文を読んでみましょう。2章の13節からです。
13このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。14兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。〔15ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、16異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。〕
〔 〕でくくった15、16節は、高橋三郎によると、マタイによる福音書23章34−36節に内容的に著しく類似しており、また用語の面からも後代の加筆の可能性もあり、また手紙の主旨から逸脱しているとのことです。
「この激しいユダヤ人弾劾の言葉は、この手紙の文脈から逸脱しているばかりでなく、初代の信徒の激しい反ユダヤ主義思想の表明と見るのが、最も穏当な解釈だと思われる」(『第一テサロニケ書講義・病床雑感』44ページ)。
おそらく14節のパウロの発言「彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです」を受けて、後代に書写した誰かが、ユダヤ人によるキリスト者迫害が激化していた自分たちの時代状況を反映させて、「ユダヤ人」という部分を敷衍して、15、16節を加筆し、それが写本を経て本文に組み込まれたのではと推察されます。
加筆された当時は、ユダヤ人が圧倒的に強い立場だったのでしょう。
これらはその激しい迫害や抑圧の中で発せられた言葉として見なされなければなりません。
ですからこの部分は、おそらくパウロ自身が書いてものではないと私は思います。
パウロ自身ユダヤ人として同胞の救いのために、自分が捨てられ、殺されても厭わないとまで述べています。
わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。(ローマ書9.2,3)
何とかして自分の同胞に、……その幾人かでも救いたい。(ローマ書11.14)
神の賜物と招きとは取り消されない。(ローマ書11.29)
確かにパウロも同胞であるユダヤ人、そしてユダヤ人からキリスト者になった同志からも、厳しい追及と迫害を受け、時には彼らに「呪われよ」と吐き捨てるかのような発言をすることもありましたが、パウロの本心は、彼らの真の救いを心から願っていました。
それからすれば、この15、16節は余りにもパウロの真意にほど遠い発言と言わざるをえません。
しかし、この加筆された部分が後世になると、実にユダヤ人憎悪を是認する根拠となり、後の西欧社会に於けるユダヤ人迫害へと繋がったとも言えましょう。
その意味では、この聖書の箇所を権威あるものとして文字通り受け取ることはできません。
このような点で聖書は決して無謬ではないと思います。
2−3再会の願いとテモテ派遣
本来なら、パウロは自らテサロニケに出向いて、信徒たちとの再会を切望していたのですが、彼が行けば当然、大変な騒ぎになってしまいます。
そこで仕方なく、弟子のテモテをテサロニケへ遣わしました。
テモテは信徒たちに大歓迎されました。
彼は、彼らが一生懸命パウロの教えを守り、互いに励まし合い、エクレシア形成に努めているのを目の当たりにしました。
テモテはその様子をパウロに報告したわけです。
それを聞いてパウロが喜びと感謝に溢れて認めたのがこの手紙でした。
テモテはその報告と共に、テサロニケの信徒たちからいくつかの質問を受けていたようです。
パウロはそれにも丁寧に答えています。それが後半の4章にありますので、後ほどお話し致します。パウロがどんなに会いたがっていたか、聖書本文をお読みいただければストレートに伝わって参ります。
テサロニケ再訪の願い
17兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、──顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが、──なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。18だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。19わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。
3.1そこで、もはや我慢できず、わたしたちだけがアテネに残ることにし、2わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、3このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。4あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました。5そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。
「切に望みました」、「もはや我慢できず」、「もはやじっとしていられなくなって」、これらの言葉からパウロが如何に会いたがっていたかが伝わって参ります。
パウロはどれだけ旅をしたのでしょう。
旅費を節約したでしょうから、ほとんどが歩きか、または船旅だったようです。
おそらく、何足ものサンダルを磨り減らしたことでしょう。
その苦労は並大抵のことではなかったと思います。
にもかかわらず、彼は福音を伝えたい、信徒たちと会って福音の喜びを共にしたい一心で旅を続けました。
パウロのこうした生き様が、テサロニケの人たちの心を打ったでしょうし、彼らを動かし変えていった原動力の一つだったのではないかと思います。
6ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。7そこで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。8あなたがたが主にしっかり結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。9わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。
11どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。12どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊に満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。13そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。
ここにも再会し、福音の喜びを分かち合いたいとの切実な願いが述べられています。
ここで注目していただきたい重要な聖句が3章8節にあります。
「あなたがたが主にしっかり結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」
分かったようで、わかりにくい言葉です。原文を見てみましょう。
ホティ ヌン ゾーメン エアン ヒューメイス ステーケテ エン キュリオー
ので 今 私達は生きる なので あなたがたが 立つ に 主(あって)
直訳しますと、「あなたがたが主にあって立っているなら、わたしたちは今、生きる」です。
これもピンと来ませんね。
「主にあって」というのは「エン キュリオー」というギリシャ語で、「エン」というのは英語でin(何々の中に)で、「キュリオー」というのは、「主」です。
直訳すれば、「主の中に」で、日本語ではよく「主にある」と訳されます。でも、これも分かったようでわかりにくい訳ですね。
新共同訳では「エン キュリオー」を「主にしっかり結ばれている」と訳しています。
では、この「エン キュリオー」という具体的な状況とは何か。色々深い意味のある内容なのですが、当時のテサロニケの人にとって、「主にある」とは、「主の側に立つ」ということも意味していました。
イエスの側につけば同罪で十字架刑に処せられるかもしれません。そういう状況の中で、「私はイエスにつきます。イエスの側にあります」と言うのが、「エン キュリオー」です。
そういうふうにしてイエスの側につくと宣言して、テサロニケの信徒たちが生きていること、それが私たち、つまりそれを伝えたパウロが生かされているというのです。
逆に見れば、テサロニケの信徒たちが、「エン キュリオー」ではなく、主の福音を捨て去っているときは、パウロは死んでいる、意味のない、生きる価値のない存在だというのです。
だけど、彼らがイエスの側に立ってくれているなら、パウロは本当に心の底から、生きているのだという実感を味わっているのです。
また、パウロはその「エン キュリオー」にあるとき、エクレシアはどうあるのかを、12節でこう言っています。
「お互いの愛とすべての人への愛とで、豊に満ちあふれさせている」と。
このことについては、私もよく分かります。皆さんが、お手紙などで様子を知らせてくださいますが、皆さんが「主にあって」生かされているとき、例えば、今回は、○○さんが御病気で入院され、皆さんがそれぞれ具体的にご配慮され、心を合わせて主に祈らされたとのご報告を伺い胸が熱くされ、私自身も皆さんと一緒に生かされていると強く感じました。
これが、先にお話させていただいた『フィレモンへの手紙』でパウロが使った特殊な言葉、「スプランクナ(腑・心)からスプランクナへ」伝わるものではないかと思います(拙講「愛に訴えて」より)。
単なる「愛」ではなく、腑(はらわた)から、日本語には「腑に落ちる」という言葉がありますが、まさにそのように伝わるもの、それが福音の力だと思います。
それによって、お互いが生かされる。この命のやり取りがまさに証しなのだと思います。
これが第一部です。
休憩を挟んで第二部に移ります。
第二部は、テサロニケ訪問から帰還したテモテによってもたらされた信徒たちの質問にパウロが丁寧に答えています。
信仰にはたえず、不安と疑問がつきものです。迫害に耐え、忠実に従っていたテサロニケの信徒たちにも色々懸念することがあったのでしょう。
それを質問状にしてテモテに託しました。パウロはそれらに丁寧に答えつつ、彼らを励ましています。
3.第二部 信徒への勧めと励まし
3−1信徒への勧め(1-8節)
神に喜ばれる生活
4.1さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。2わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。3実に神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、4おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。6このようなことで、兄弟たちを踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。7神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。8ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。
第二部は、4章と5章です。
こちらは、テサロニケの信徒たちがパウロに寄せた質問状に対する応答です。
今回この聖書講義の題を、「聖化への招き」とさせていただきました。
これは4章3節の「実に神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」という御言葉から採ったものです。
「聖なる者となる」というのは、ちょっと訳すのが難しい言葉で、ギリシャ語では、「ハギアスモス」、英語のsanctification(聖別、神聖化、罪の清め)という言葉です。
これは単純に訳すと「聖とされる」ですが、これを「聖化」と言います。
「聖」というのは私たち日本人には理解し難い概念です。
「キヨイ」という意味ですが、日本語で「キヨイ」といえば、まず「清い」を思い浮かべます。
これは、三水(さんずい)ですので水に関わり、水でよく洗ったり、すすいだりして清めるという概念です。
しかし、聖書の世界で言う「聖」の場合は、この「清い」とは異なり水で流すということではないのです。
ヘブライ語(「カードーシュ」)の概念では、分ける、それも厳しく分ける、峻別する、聖なるものとそうでないものをしっかりと分けるという概念で、「一番大事なことは、創造主と被造物、神と造られた者をハッキリと峻別するセパレートする」ことだそうです(武祐一郎『第一テサロニケ書講解』p.37)。
ですから、そこから逆に、聖でないものに対する明確な規定が定められています。
以前ご紹介したように、厳格なユダヤ教徒は今日でもそうですね。
食べてはいけない物、触ってはいけない物とか、活動してはいけない日など厳格に規定され守っています。
旧約聖書には、『レビ記』などにそうした規定がこと細かく記載されています。
「聖なる者とされる」ためにどうしたらよいか、それが律法に凝縮されているのです。
正に、ハギアスモスというのはイスラエルの民にとっては人生の究極の目的なのです。
新共同訳のこの箇所の副題には、「神に喜ばれる生活」とありますが、パウロはそれを次のように要約しました。
「実に神の御心は、あなたがたが聖なる者となること(ハギアスモス)です。」(4.3)
神様に喜ばれる生活とはどういうことかというと、あなたがたが「聖くされる」こと、つまり「聖化」だとパウロは言うのです。先程紹介した4章3節を直訳しますと次のようになります。
トゥート ガル エスティン テレーマ トゥー セウー ホハギアスモス ヒューモーン
これが — 〜だ 意志 神の 聖化 あなた達の
ここを直訳しますと、「あなたがたの聖化(聖くされること)が神の意志だ」となります。
願いとか期待ではなく、「神の意志(テレーマ)」なのです。
神はそう決意されているというのです。
どんな人間も「聖くしたい、するんだ」、異邦人はじめ汚れていると見なされる人であっても、律法の規定により峻別され切り捨てられるのではない。
どんな人であってもハギアスモス、つまり「聖化」することが神の意志だというのがパウロの主張です。
では、「聖化(ハギアスモス)」とはどういうことかと言いますと、パウロは色々言い換えています。
①「全く聖なる者」(ホロテレイス)(5.23)、
②「何一つ欠けたところのないもの」(ホロクレーロン)(5.23)、
③「非のうちどころのないもの」(アメンプトース)(5.23、3.13参照「非難されることのない」2.10)
と表現しています。
このように見てきますと、なんだか私たちには縁遠い世界で、厳しい修練を経た修道僧や修験者だけに当てはまりそうに思えますね。
とてもじゃないけど自分はふさわしくないと思うのですが、実はそうではなく、実に日常的なこと、当たり前のことだとパウロはこの後、具体的に敷衍しています。
4章3節の「神の意志だ」という言葉に続けてこう述べています。
「すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。」
「聖化」、つまり「聖なる者とされる」とはどういうことか、ここでパウロは二つあげています。
一つは、「みだらな行いを避ける」、もうひとつは、「汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活する」というものです。
「すなわち、みだらな行いを避け」は、原文では次のようになっています。
アペケスタイ ヒューマース アポ テース ポルネイアース
遠ざかる、 あなたがたを 〜から ポルネイア(情欲)
「アペケスタイ」の基本形「アペコー」は、「自由でいる(束縛されない)、避ける、距離をとる」という意味です。
同じような言い方に、有名な「主の祈り」の次の一節「悪より救い出し給え」があります(マタイ6.13)。
リューサイ へーマース アポ トゥー ポネールー
解き放て 私たちを 〜から 悪
「アペケスタイ」は、「避ける」、「遠ざかる」という意味で、「主の祈り」にある「リューサイ」の「救い出す、解放する」よりはどこか消極的のように思いますが、極めて現実的な忠告だと思います。
パウロは5章22節で、「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」と繰り返しているように、このことをとても大事な問題だと認識していました。
「ポルネイア」は、ポルノという言葉と同根の言葉です。
いわゆる狭義の意味でのポルノ的なものをさすだけではなくて、「情欲」とも訳されるように色々なものが含まれるでしょう。ですから、3節は次のように読めます。
まさに、それこそ神の意志だ、あなたがたが聖くなること、(すなわち)あなたがたがポルネイア(情欲)に束縛されないことが。
そして、4節以下にその具体的な内容が続きます。すなわち、
あなたがたは互いに学ばねばならない、それは、自身のスケウオスを、ハギアスモス(聖なる思い)とティメー(尊敬、敬愛)をもって如何にコントロールするかを。
これは直訳ですが、「妻」と訳された単語は、ギリシャ語で「スケウオス」は英語でvessel(器)、one’ body(自らの身体) or one’ wife(その人の妻)です。
意味としては、
①人間の体、人間。
例としては、『ローマ書』9章22、23節に「怒りの器(スケウエー オルゲース)」、「憐れみの器(スケウエー エレウース)」とあり、また『コリントの信徒への手紙二』の4章7節には有名な「土の器(オストラキノイス スケウエシン)」という言葉があります。
これらは、人間のことを比喩的に神に造られた「器」と表現しています(参照『イザヤ書』29章16節)。
次に、②として「妻」という意味が「スケウオス」にはあります。
①の「人間の体、人間」を意味するとすれば、ここは、自らの体をコントロールすること、自制を意味するのでしょう。
②の「妻」であれば、夫婦生活をコントロールする意味となり、新共同訳ではこの②と解釈して訳されています。
様々な注解書によると、おそらく②の「妻」とみるのが正しいようですが、私は両者含むのではないかと思います。
実はここで、家庭生活、性を含む夫婦間の真実が問われているのです。
結婚生活の「聖化」(ハギアスモス)、これが人間社会の基盤だという認識です。
そして、それこそ「神の意志」だとパウロは述べているのです。
夫と妻との間のピスティス、つまり真実、真心、それが失われ、互いに不信が生じたとき、家庭の存在の基盤が崩れていきます。
今日、子供たちの精神的荒廃が目立ち、その原因がいろいろ言われていますが、よくよく突きつめていくと、その深いところに夫の妻との間の〈不信〉があります。
極端な例が不倫、裏切り行為ですね。
それは夫婦間だけでなく、子供たちや周囲の者たちにも大きく影響を及ぼします。
人がよって立つ基盤、それがピスティス(真実)です。
それがないと人は無軌道となり、カオス(混沌)とニヒル(虚無)に陥るでしょう。
それが当事者だけでなく周囲の者たちに大きな傷を負わせていきます。
これは今の日本に限らず、当時のローマでも同様だったのでしょう。
パウロは、あなたがたを聖くするのが神の意志だと言ったのですが、その具体的な内容として、信頼関係に基づいた家庭生活の中に見出しているのです。
ではなぜ、そのような不信関係が生まれるのか。
その原因が「ポルネイア」だとパウロは指摘しています。
「情欲」と訳されていますが、この情欲というのは、ものすごく根深いものですね。
単なる性欲とかではなく、所有欲、独占欲、嫉み、嫉妬なども含まれるでしょう。
こういうポルネイアを避けて、信頼関係の上に築かれた家庭生活を営むことが、「ハギアスモス(聖化)」であり、それが「神の意志だ」と言っているのです。
なぜなら、「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」。(4.7)
これが、「あなたがたをポルネイアから遠ざけ、聖なる者とすることが、まさに神の意志だ」という4章3節の御言葉に繋がります。
以前『コリントの信徒への手紙』でご紹介したように(拙著『コリント書に学ぶ』参照)、パウロの伝えた福音によって解放(自由)を味わった人の中に、その自由を曲解して、ポルネイア(性的放縦)を主張して憚らない者が現れました。
「自分たちの罪は既に赦されている、自由だ、だから何をしてもいい」、「それこそが自然だ」という屁理屈と開き直りです。
もちろん、彼らのような極端な例だけでなく、一般の信者でも、信仰を理由にして家庭生活を疎かにする、軽視する傾向は大なり小なりあったのでしょう。
しかし、パウロはその当たり前のような家庭生活こそ、「聖化」されねばならない第一歩だというのです。
そして、4章8節にこう続けられています。
これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。
ここでも、如何にパウロがこの問題を重視していたかが分かります。
この問題は「聖霊」に直結するほど重要なのだと。
ところで、「聖霊」というと現代に生きる私たちには奇妙なものに思われるでしょう。
聖霊とは何か、内村鑑三が大変分かりやすく説明していますので、ご紹介します。
聖霊は神が人類に賜う最大の賜物(たまもの)である。しかし賜物であるからというて物ではない。触(ふ)れ、量(はか)り、分析することのできるものではない。霊は気である、勇気である、正気である、道徳的感化力である。聖霊をみたまとよんで、瑶玉(ようぎょく)のさらに清化したる者であるかのように解するのは大なる誤りである。聖霊は霊である、ゆえに気である、精神である、生命(いのち)である、心である、情である。ゆえに道徳的感化力としてわれらに臨み、その中に愛を生じ、信仰を起こすものである。聖霊に鳩(はと)の形もなければ、?(ほのお)の熱もない。われらはただこれをわれらの霊の力、光、生(いのち)として感ずるまでである。
(内村鑑三『一日一生』5月10日)
本当にそうだと思いますね。
思いもよらず内側から溢れんばかりに、勇気とか、深い憐れみとかが湧いて、それが源泉となって、自分でも信じられないくらいの威力を発揮することがあります。
これはクリスチャン、ノンクリスチャンに限らず、経験されるでしょう。
実は、それらは聖霊に由来していると言うのです。
そういうものを拒む、例えば、夫婦の間に不信や不倫が生じたとき、それは互いの「心」や「情」を拒んでいましょう。
聖霊を拒むことは、ある意味で尊厳ある人間性(聖性)を押し殺すことです。
パウロは別の書簡で、それこそ最大の裁きだと述べています。
そういう罪の状態にそのまま放置される時、私たちは狂ったように己の感情に囚われているのではないでしょうか。
怒りや憎しみ、嫉みに呪縛されています。
深い愛情や憐れみの思いとはかけ離れているでしょう。
そのような状態に放っておかれること、そのままに放置されることこそ最大の罰だと言うのです。
恵みの賜物である聖霊(Ⅰコリ13.13)を拒否することは、最大の罪、取り返しのつかないほどの罪なのです。
『マタイによる福音書』には次のような記述があります。
人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。(マタイ12.31、32)
「赦されることがない」と断罪されています。
聖書にこんな激しい発言があり躓くこともありますが、ここはおそらく上述の消息を伝えるものではないかと思います。
聖霊を拒んでいるときは赦されようという気持ちすらないわけですから、救いようがありません。
パウロは、テサロニケの信徒たちの質問に答えるに先立ち、あなたがたの結婚生活、家庭生活を深い信頼関係によって築くこと、それが「聖化」、つまり「聖なる者とされること」であり、しかもそれが「神の意志だ」と述べているのです。
3−2具体的な質問への返事(9節以下)
9兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。10現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟にそれを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。11そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。12そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。
ここからパウロがテサロニケの信徒から寄せられた質問に答えています。
ここも一見すると当たり前のことが書かれているようでさっと読み飛ばしてしまいがちですが、実は深い真理が述べられています。この返事から次のような質問内容が推定されます。
【推定質問1】
「信徒の兄弟の中で、熱心に活動はしているが、ほとんど自分では労働せず兄弟に依存している者がいる。そのような兄弟に対してどうすればいいのか? 兄弟愛の奉仕をすべきか?」
これに対して、パウロは「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません」、あなたがたはそれについては十分承知しているでしょう。
だけど、自分で落ち着いた生活をして、自分で働いて食べるように心がけなさい、と当たり前のことを言っています。
というのは、この当たり前のことをしていない人たちがいたようなのです。
宗教や信心などに熱心な余り、家族を顧みず、家事や仕事をほどほどにして、自分の修養や教団の奉仕活動に奔走していた人たちがいたようです。
そういう人たちのことを念頭に置いています。
この推定質問①に対するパウロの回答が続きます。
11そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。12そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。
ここで大切なのは、「落ち着いた生活」と訳された言葉です。
ギリシャ語では「ヘースカゼイン」です。
これはhJsucavzw(ヘースカゾー:「静かである、落ち着いている」の現在・不定形で、その名詞形は「ヘースキア」は、「静かさ、静粛、沈黙 silence, quietness」を意味します。
この部分を、前田護郎訳では「静かに生きること」、文語訳では「安静(しずか)にして」、フランシスコ会訳では「腰を落ち着かせて」と訳されています。
その他は新共同訳と同じように、「落ち着いた生活」と訳されています。
私は「静謐(せいひつ)」という言葉を思い浮かべます。
英語で言えば、serenity(セレニティー)ですね。
あのラインホールド・ニーバーの有名な祈り「The Serenity Prayer(ザ・セレニティー・プレイヤー)」にある言葉です。
では、「ヘースキア」とはどういう内容でしょうか。
実はこれは旧約聖書の時代から、ずっとあるのですね。
神に寄り頼む人というのは、落ち着いているというか、安らかというか、慌てない。
不安な状況に陥っても、本当にどっしりしていて騒がない。
その代表的な例が、イザヤ書30章15節です。
立ち帰って、静かにしているなら救われる。
安らかに信頼していることにこそ力がある。
私はこの新共同訳がとても好きです。
特に後半の「安らかに信頼していることにこそ力がある」は、口語訳や岩波訳にはないすぐれた訳だと思います。
この御言葉だけでも勇気と安らぎを賜ります。
「静謐」について、内村鑑三は「静謐の所在」と題する所感を残しています。
静謐は天然にあり、神の造りし天然にあり。静謐は聖書にあり、神の伝えし聖書にあり。一輪の縷斗菜(おだまき)の露に浸されてその首(こうべ)を低(た)るるあれば、一節の聖書のわが心中の苦悶を宥(なだ)むるあり。怒濤四辺に暴(あ)るるときに、われは草花に慰癒を求め、旧き聖書に世の供しえざる安静を探る。
(一九〇四年、内村鑑三所感集115ページ、岩波文庫)
ここでは「安静」という言葉も使われています。
今朝、ホテルのカーテンを開けると、目の前にまるで墨絵のよう湖が広がっていました。
朝靄の立ちこめた静かな湖面、対岸の小高い山々の影……。
内村鑑三が露に濡れた一輪のおだまきに見たように、私は今朝の湖の風景に、何かどっしりした〈静謐〉を感じました。
ニーバーの「The Serenity Prayer(静謐の祈り)」も、この「ヘースカゼイン」という言葉から想起されます。
O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.
Reinhold Niebuhr
神よ、
変えることのできないものは
それを受け入れる冷静さを、
変えることのできるものはそれを変える勇気を、
そして、
それがどちらであるか見きわめる知恵を、
与えたまえ。
この「冷静さ」と訳された単語がセレニティー、つまり静謐です。
この祈りは私の座右の銘です。
では、この「ヘースカゼイン」ではないときとは、どういう状況を言うのでしょうか。
実は、これが先程述べたような宗教的に熱心になっている時なのです。
その最たるものが熱狂的な生き様、狂騒状態(fanaticism)ですが、これは5章14節で指摘される「怠けている人」(ギリシャ語で「アタクトス」)がこれに相当します。
元来「アタクトス」という言葉は軍隊用語の「隊列を離れること」で、そこから「秩序を乱し常軌を逸した生活」を指し、時には暴動や叛乱を起こすことを意味したそうです。
さらに転じて、「霊的興奮のあまり跳ね上がった生活」をすることも指すそうです(高橋三郎)。
オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件などがこれに該当するでしょう。
しかし、彼らのような極端な例ばかりでなく、宗教に熱くなり「興奮の余りに跳ね上がった」人にしばしば出くわすことがあります。
しかしこのことは、上述のアタクトスほど極端でないにせよ私たちにも当てはまるのではないでしょうか。
そこで、あるエピソードをご紹介します。
これは、信仰に熱心な人にしばしば見られる例です。
内村鑑三の弟子で石原兵永という方がいらっしゃいました。
石原は後に独立伝道者として生涯を全うされましたが、師範学校の卒業を控えたある日、内村と将来について話す機会があり、内村から「卒業したらどうするのか」と尋ねられ、「先生にでもなるしかない」と答えられたそうです。
そして、次のように話が展開したそうです。
「学校につとめても、つまらぬ仕事や雑用に自分の時間と全精力を用いるのは、もったいないような気がするのですが。」
と。これを聞かれた先生は、たちまち目をむき、声をはげまして、面とむかって私に言われた。
「それは君は誤っている。人生の大部分はドラッジャリー(drudgery骨折仕事)である。重荷を負って牛車を強く引かねばならぬ。それが人生であるのだ。イエスもそれをなされた。もし君にその仕事が堪えられないのならば、君はどこへ行っても役に立たぬ。それをいやがってはだめだ。君がやらなければ、誰かがやらねばならないではないか。同じいやな仕事を、君がやる時には、正しく勇ましくそれをやってのけねばならぬ。その仕事を君がやらないのならば、君はその仕事について論ずる資格がないのだ。かく牛車を引いて得た自由でなければ貴くないのだ。今の時からそんな事を言うのは、少し生意気だ。よっぽど、そこには貴族根性、怠け根性がはいっているよ。」
と、火が出るほどビシビシやられた。内容もない言葉だけの自由や真理などを叫んでいい気になっている虚栄心に対する、実に強烈な鉄槌であった。高慢の鼻は無残にも打ちひしがれ、全く顔色がなかった。しかし、何という真理の言であろう。Life is real, life is earnest.(人生は真実であり、人生は真剣である)と、日ごろ暗誦したロングフェローの詩は、私の耳に快よい「人生の歌」であった。しかし「人生の大部分はドラッジャリー(労役)である」という、内村先生の言葉は、真に人生を生かす力であった。
この時からすでに半世紀余りにもなるが、この教えの貴さが、そして真剣に叱って下さった先生の深い愛のありがたさが、年とともに身にしみる思いがする。
(石原兵永著『身近に接した内村鑑三』上 189-190頁)
石原にしてみれば、自分はもっと神様のために働きたい、伝道のお手伝いがしたいという気持ちが強かったのだと思います。
学校に勤めたらそれこそ雑用に振り回され、そうした大切なことに時間を割けない。
それはもったいないと思ったのでしょう。
それを聞いた内村先生は「たちまち目をむき、声をはげまして」、声を荒げて厳しくビシビシ指摘をされたのでした。
この若き日の石原先生が抱いた思い、神様のために働きたいというアンビションはとても大切なことですが、その背後に潜む人間の罪を鋭くえぐり出したのが内村でした。
それを石原は、「内容もない言葉だけの自由や真理などを叫んでいい気になっている虚栄心」であり、また「高慢」であったと述懐しています。
私たちもしばしばそういう思いにとらわれます。
「虚栄心」、「高慢」、これはまさにヘースカゼインではない状態を的確に言い表しているのではないでしょうか。
パウロはそれに対して、そうではない。「落ち着いた生活」をしなさいと勧めました。
それは内村の言葉で言えば、まさに「ドラッジャリーを担え」ということではないでしょうか。
毎日の、つまらない繰り返されるドラッジャリー、しかしそれを誰かが担わなければ社会は廻らない。
例えば家事などもそうですね。
誰か家事を担っている人が、「私、やめた」といって家事を放棄したらどうなるでしょう。
言うまでもありませんね。
そして、そのドラッジャリーを担った者こそがその仕事について論ずる資格があると、内村先生は述べています。
今日の政財界で問題なのは、そういうドラッジャリーを担っていない人が、ああでもない、こうでもないと色々無意味な指示したり、規則や法律を作ったりするから、現場に混乱をもたらしているのですね。
年金問題などもまさにそうでしょう。データの入力などは文字通り単純作業、ドラッジャリーといえましょう。
しかし、それがきちんとできていない。忠実にやっておればこんなことにはならなかったはずです。
こういうドラッジャリーこそがとても大切なのです。
パウロのいう「ヘースカゼイン」、「落ち着いた生活」とは、別な面から言えば、内村先生の言う「ドラッジャリー」を黙々と担うという生き様となりましょう。
このような「ヘースカゼイン」を失った人たちは、このパウロの忠告がなされた後もずっとテサロニケで問題となっていたようです。
パウロの後代に書かれたと推定される『テサロニケの信徒への手紙二』の3章12節には「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」と書かれおり、なかなか根深い問題であったことがわかります。
次に、もう一つこれに関連して、最近の日本の「スピリチュア・ブーム」にも触れておきましょう。
これは例えば、最近テレビに頻繁に出演している江原啓之氏や、細木数子女史などが相当します。
ある意味で疑似宗教的なものとも言えましょう。
彼らによって、ある人は人生の悩みを解消し、ある人は人生の指針として教えを請うたりしています。江原氏や細木女史の本はいずれも大ベストセラーで、若い世代から熟年世代まで広く支持されているようです。
これらに対して島薗進氏が次のような警鐘をならしています。
これは内坂晃牧師の聖日説教(「教会と国家学会会報第5号」より)によって教えられましたので、以下、内坂先生の文章を引用します。
最近「キリスト新聞」に、「スピリチュアル・ブームにひそむ危険」という見出しで、東大の宗教学者の島薗進氏の発言が載せられていた。その内容を私なりに要約すると、今の日本人は、オウム真理教の事件やカルト集団のスキャンダラスな事件が、メディアで大きく取り上げられたこともあり、宗教への強い警戒心がある。また既成宗教を背景に持った戦争やテロのニュースなどから、既成宗教に対しても期待感を持てないでいる。しかし他方、近代合理主義の行き詰まりや渇き(非人間性、うるおいのなさ)は強く感じていて、そういう人々が、特定の宗教という形はとらないスピリチュアルなものを求める流れがあり、それに対して手軽に応えていこうというメディアの動きがあり、それはスピリチュアル・ブームとでも呼ぶべき現象を引きおこしている。しかし、そこに危険はないのか、として、島薗氏は次のように言われる。
「宗教集団については強すぎるほどの警戒心を保っているが、消費文化についてはいたって寛容というバランスを失している。……テレビ番組でスピリチュアルな癒しを説く人物を見慣れているうちに、霊の世界が身近になる視聴者はすくなくないだろう。それは霊的な世界のイメージに頼る姿勢を育てることになる。だが、自ら霊的な世界を身近に感じるようになったとして、それをどのように確かな生き方を結びつけることができるだろうか。……
……新しいスピリチュアルのもっとも深刻な問題は、堅固な学びの道や自己陶冶(とうや)の過程を見いだしにくいということだ。消費文化の中のスピリチュアルに親しむだけでは、長期的に指導を受け修練を積んで身につけたが故に力となるようなものを得にくい。自由に取捨選択でき、束縛されたり強制されたりすることがないのがメリットであるように見える。だが、それでは自己が拡散してしまい、自己を見失って主体性を失う過程の始まりかもしれない。
……人気のスピリチュアル・カウンセラーがおもしろおかしい雰囲気にとけこみ、親しみ深くかつ頼りになるヒーローを演じていくテレビ画面はどこか危うい。カリスマ的なリーダーを信じやすいメンタリティを育てつつ、同調しない者への排除が勧められているかのようだ。……
テレビ視聴者の間に集団的な軽信を育てることは、また偏狭なナショナリズムや自己滅却的な指導者崇拝や排他的な集団主義の魅惑に引き込まれやすいパーソナリティの形成に道を開くだろう。」
お読みになって分かるように、彼らのような存在に依存する生き方では、自分で判断し自分の足で立っていく独立人が育たないのです。
それは非常に危険な徴候だと指摘されています。
扇動に乗っかるのはとても楽なことです。しかし、それが大衆的扇動となり、まっとうな判断を押し殺すマス(大衆)となる。批判できる精神を養えず、独立した人格が育たない風潮を作ってしまいます。ここに「ヘースカゼイン」は生じません。
また、こうしたスピリチュアル・ブームによって安易な「癒し」と慰めが流行っています。
「もういいよ、それでいいよ」と何でも許されてしまいます。
人は確かに神に赦された存在です。
パウロが言うように、私たちを聖くすることが神の意志です。
私たちを滅びに至らせるのではなく、救いに至らせるのが神の願いだというのは確かですが、同時に、人間は他人を自分の目的に利用しよう、神すらも自分の道具に使おうという利己的な存在であるという人間の怖さ、人間の悪魔性、そういうものもあります。
要するに人間の「罪」の問題を、今のスピリチュアル・ブームにおいては余り重視されていないのです。
パウロは「そのままでいいんだよ」と決して言っておりません。
その罪は確かに罰せられねばならない、裁かれるのだ。
自分たちはその審判の畏れの前に立たされている。
だけどその罪は、主イエスが十字架にかかり身代わりになって下さったという絶大な恩恵によって赦されているという事実、それに圧倒され、神の赦しと愛の深さ、神秘を示されるのではないでしょうか。
それが分からない。
そのような罪と審判の認識自体が最近流行のスピリチュアル・ブームにはありません。
そして、そういう安易な癒しを受けても、結局は「ヘースカゼイン」にならないのです。
ちょっと人に悪いことをしたけど、もういいや、となってしまいがちです。
裁き抜きの赦し、そこでは本当の人格が確立され得ません。
確かに、細木女史も、「そんなことをしては駄目だと」強く叱る時があります。
しかし、細木女史が信じる倫理に従えということなのですね。
それは日本の伝統的な倫理や慣習に基づくものである場合がほとんどです。
昨今は「武士道」がもてはやされ、古い倫理観への回帰が声高に主張されています。
それは、利己的でジコチュウな現代日本人が忘れてしまった精神であり、自己よりも大義を重んじ、時には命をも投げ出す犠牲的精神、潔い精神だと賞賛されます。しかしその本質は、「国家」・「家」への忠義、「国家」を中心、第一義とする倫理への回帰ではないでしょうか。で
は、その古い倫理の本質はどうか、すでに歴史が証明しています。
忠義の対象たる国家とは、果たして命を投げ出すにふさわしい対象なのでしょうか。
国家共同体とは、まさに自分たちの《エゴ》の延長、民族レベルでの《エゴ》ではないか。
抽象的な「国家」を第一義とする時、そこでは健全な個人の人格形成ができず、一人一人の命より「国家」という偶像が大切にされ、国家レベルの自己中心的な倫理となりましょう。
自分や自分に関わりのある者の安寧、繁栄を最優先に追求し、自ずと排他的になります。
そこに「傲慢」が生じ他者に対して非寛容となりましょう。こ
うした自己中心的な倫理は、それ自体、内側から崩壊することを歴史は雄弁に語ってくれます。
(註3「国家偶像」への警鐘より)
また、たとえそういう倫理や道徳が社会的に有益であったとしても、それに従おうとして従えないというのが私たちの罪の実態ではないでしょうか。
従いたくても従えないという人間のどうしようもない実情をさしおいて、既存の道徳的な言葉で納得させても、真の解決にはなり得ません。そこが彼らの限界だと思います。
そして、彼らを担ぎもてはやすマスコミにも問題があります。
「大衆的情緒(national emotion)は常に批判と討論を抑圧する」とA・D・リンゼイは指摘しましたが、まさに今日の我が国では、大衆的情緒が日本の民主主義を混乱に陥れています。
様々な討論が形式的に演ぜられますが、そこには真の意味での真理探究の手段としての「批判と討論」がなされていません。
双方が自分たちの利害や主義主張をがなり合うばかりです。
真に絶対者である神に向き合おうとしないため、「個の確立」が余りにも未熟なのです。
そして、「センス・オブ・ミーティング」を養う教育がなされてこなかった結果とも言えましょう。
少し話が逸れましたが、パウロの勧めをまとめましょう。
パウロの具体的な勧めは、まず繰り返し述べてきましたように、「ヘースカゼイン」つまり「日毎のドラッジャリーを担え」です。
これをパウロはまた、同じ4章11節で次のようにも述べています。
「プラッセイン タ イディア 」
(すること 自分自身のことを)
新共同訳では「自分の仕事に励み」と訳されていますが、直訳すると「自分自身のことをやれ、気にかけよ」という意味です。
他所のことを気にかけて走り回るのではなく、まず、自分自身のことを、身の回りのこと、足元を気にかけなさい。
まさにドラッジャリーを担えと同じですね。
次に、「品位をもって歩め」(4.12)と勧めています。
「品位」とは、原語では「エウスケーモノース」で、意味は、「品位をもって、適宜に、慎ましく」という副詞です。
その名詞形は「エウスケーモスュネー」は、「見栄え、品位、麗しさ」となります。
実は、この言葉も、新約聖書ではパウロが特異的に用いています(Ⅰテサ4.12以外では、ローマ13.13、Ⅰコリ7.35、Ⅰコリ12.23、その他形容詞形でⅠコリ12.24、7.35。
(パウロ以外ではマルコ15.43、使徒13.50にあるだけです)。
動詞形「エウスケーモーン」 は、「声望のある、地位の高い、見栄えのよい、麗しい」という意味になります。
『広辞苑』によると、「品位」とは「人に自然に備わっている人格的価値(品格)」とあります。
では、「品格」とは何か?
英語ではdignityつまり、「尊厳ある様」、これはラテン語のdignitasに由来し、意味としては「価値あるもの、練達、崇高、尊敬すべきもの」です。
またこれ以外に、英語のgrace「優美、優雅」、およびrefinement「洗練された、高尚な」という意味も含まれるそうです。
今、『国家の品格』という本が大ベストセラーになっています。
『女性の品格』という本も出版されたそうで、「品格」という言葉が大変注目されています。
品位、品格を見失った現代日本人に対して、古くからの日本の良き伝統や生き方の中に「品格」を見出し、それへの回帰が主張され、それに多くの国民も賛同しているようです。
確かに、その提案にも一理はあると思います。
が、果たしてその通りになるかどうか、私には疑問に思えます。
『国家の品格』の著者は、古き日本の良き伝統に基づいた国家に「品格」を見出しています。
しかし、いかなる「国家」が最高の「人格的価値」をもちうるのでしょうか。
かつて大日本帝国では国家を擬人化し、その象徴が「天皇」でした。それは、「天皇を頂点とする神の国・日本」という偶像崇拝となり、あの太平洋戦争へと暴走した事実を重く受け止めねばなりません。
『国家の品格』の著者はそのおぞましいまでの、そして、なかなか抵抗しがたいほど巧妙に私たち自身を呪縛する実体が見えていないのではないでしょうか。
それは、自殺した松岡大臣を「サムライだった」と称した石原都知事のセンスに通底するものではないかと思います。
確かに、国家のために、また自分が属する共同体のために命を賭すほどの生き様は人を黙らせるものがありましょう。
しかし、本当の「品格」とは、そういうものなのでしょうか。
そこには日本的な情緒的美しさ、かっこよさはあるかも知れませんが、「品位」の本来の意味であるdignityつまり、「尊厳ある様」があると言えるのでしょうか。
本当に「価値あるもの、練達、崇高、尊敬すべきもの」として若者たちに見習え、と言える生き様でしょうか。
松岡前大臣のなすべきことはむしろ、自分のやったことを正直に告白し、審判を仰ぎ、出なおすことではなかったか。
その出直しが許されているのに拒否し、自ら命を絶ってしまう。それを「サムライだった」、潔かったと誉め讃えるような価値観が、はたして本当に品格ある価値観なのでしょうか。
まことの「品格」は、「尊厳、崇高」とあるように、まさに創造主なる神にのみありましょう。
それを地上に現したのが主イエスでした。その主イエスの《ピスティス(まこと)》こそ「品格」の根源です。
そのピスティスの光に照らされたとき、私たちも「品格」を帯びることができるのです。
そしてそれをパウロは、ハギアスモス《聖化》と言ったのでした。
主によって聖化されたとき、私たちは自ずと本来の意味での尊厳ある品格を賜ることができるのではないでしょうか。
質問の2と3は、「主の再臨の前に死んでしまった信徒はどうなるのか」、と「主の再臨はいつ起きるのか」というものだったようです。
パウロの伝えた福音の中に、主イエスは十字架で処刑されて死んでしまったのではなく、復活され、さらに再臨され、この地上を聖化し、御国を完成されるというものがありました。
またパウロは、復活された主イエスはまもなく来る、それも、自分が生きている間にも再臨されると思っていたようです。
この混乱と苦渋に充ちた地上を是正され救いが完成される日が近いと切実に感じていたようです。
その再臨の日こそ、全世界の救いの日ですから、その前に死んでしまったら、その人はその祝福に与れないという懸念が生じたのでしょう。それが推定質問2となります。
【推定質問2】
「主の再臨(パルーシア)の前に死んでしまった信徒はどうなるのか?」
これに対するパウロの回答が以下に続きます。本文をお読みしましょう。
主は来られる
13兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。14イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
15主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。16すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、17それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。18ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
実際、パウロの言ったように、彼の生前中に再臨は起きず、パウロもその前に死んでしまいました。
ですから、パウロは間違っていたと批判する人もいます。
しかし、私はこう解釈するのです。
実はパウロも、復活とか再臨について具体的なことは明確に説明できなかったのではないか、と。
私たちにはっきりしているのは、死がこの世の終わりでないということと、私たちは復活させていただけること、そして、神は必ずこのひどい世を放置されず、最終的には主イエスによって是正されるのだ、という希望です。
主の復活と再臨は間違いないのですが、それが具体的にいつ、どのように起きるのかは、パウロのみならず使徒たちも弟子たちも誰にも分からない。
それについての主イエスまで遡る様々な伝承がありますが、確たる話はパウロのみならず私たち人間には分からないのだ、なぜなら、それは神の領域であり、人間が確認できるものではない、ということではないでしょうか。
それ故パウロは、『コリントの信徒への手紙一』の13章で、今は色々なことがおぼろげにしか分からないが、召されて天に行ったとき、真理を目の当たりにし、あらゆることが明確になる、というようなことを述べています。
ですから、パウロはそれまで他の弟子や使徒たちによって伝え聞いた復活や再臨についての伝承をいくつか引用して色々説明していますが、要は、復活と再臨という希望の確かさを再確認して、懸念や不安に捕らわれることないようにと励ましているわけです。
再臨の前に死んでしまっても、失望したり絶望せず、希望を抱きなさい、死が決して終わりではない、その先にも今賜っている二人といない尊い「私」という〈人格〉が生かされるんだよ。
そしてこの地上の不義不正が決してそのまま放置されることなく必ず是正され御国が完成し、その祝福に与れるのだから、その希望をしっかりと抱いて励まし合いなさいと勧めているのです。
【推定質問3】
「主の再臨(パルーシア)はいつか?」
これも前の質問と同じです。パウロの回答を読みましょう。
5.1兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。2盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。3人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。4しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。5あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。6従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。7眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。8しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。9神は、わたしたちを怒りに定めたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。10主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。11ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。
主の再臨はいつか。
それはパウロにも、誰にも分かりません。
それは私たちの宿命である死と似ています。
「死」も突然訪れることがあります。ある日突然、思いもよらぬ形で愛する人を失うという悲劇はしばしば起きています。
不条理な死、明日、予想外に偶発的に戦争が起きるかも知れない。
しかし、そういう突然の不幸に見舞われたとしても、「暗闇の中にいるのではありません」。
4、5節に希望の根拠が明示されています。
だからこそ、6節以下にあるように「目を覚まし、身を慎んで」、日々のドラッジャリーを担って歩みましょう。
なぜなら、「神は、わたしたちを怒りに定めたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」
パウロは彼等の質問に直接的に、いつ、どこで再臨が起きるなどとは答えていません。
ひたすら、福音の確証と希望を語っています。
「あなたがたはもう救われているんだ」ということを再認識させ、だからもう「いつ再臨があるのか」とか「どうなるんだ」といった不安を払拭し、「安心して落ち着いて(ヘースカゼイン)、日々のドラッジャリーを担って生きなさい」と励ましているのです。
時間が迫ってきました。最後の結びの言葉に移ります。
4. 結びの言葉と勧め
パウロはテサロニケの信徒たちの質問に答えながら、最後に結びの言葉として、次のように述べています。
結びの言葉
5.12兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、13また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。14兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。15だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。
まず、
①「怠けている者」は、怠慢な者というよりアタクトスです。
宗教的な活動に身を焦がし、霊的興奮状態で忘我し、他者への配慮(愛)ができない者、つまり日常のドラッジャリーを担っていない者で、彼らに対しては、「戒めよ」と述べています。
次に、
②「気落ちしている者」。
これの原語は「オリゴプシュコス」で「オリゴ」というのは「小さい」、「プシュコス」は「心」という意味です。
「小心者」とか「気弱な者」と訳され、何かと不安を抱いている人を指すのでしょう。
上述の質問も彼らからのものだったかも知れません。
いつもどこかで希望を懐けず悲観的な者、委ねられず、不安におどおどしている自信のない人をさすのでしょうか。
そういう彼らに対しては、「励ませ」と勧めています。
三番目に、
③「弱い者」、原語は「アステノーン」で、これは文字通り病人(心身に病を患っている者)です。
心身が弱り助けを必要とする者については、具体的に「助けよ」と勧めています。
高慢になったり、不遜なことをしている人には戒め、気が小さくなっている人を励まし、肉体的、精神的に弱っている人を助ける、これは共同体の大原則ではないかと思います。
そして、「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」とパウロは言います。
いや、「それはむつかしいな」と思う人が多いでしょう。
しかし、パウロは「あなたがたは可能だ」と言っているのです。
主イエスにあれば(「エン キュリオー」)、あなたがたもそれができるのだ、と。
これは現代の言葉で言えば、「寛容の精神」でしょう。
そして、真の寛容の精神とは、自分と異質なものに耐える精神だと言われます。
アタクトスにも、オリゴプシュコスにも、アステノーンにも、どんな人に対しても、一面的なこと、一時的なことで判断せず、時間をかけて向き合うことが求められています。
これも「待つこと」つまり忍耐に通じますね。
主イエスの戒めである「裁くな」を思い出します。そ
してこれこそ、エクレシア、つまり共同体、社会の基本的な倫理規範とすべきものでしょう。
私たち社会の指針であるべき言葉です。
それにしても、今日の日本社会は、何とこの理想からほど遠いことでしょうか。
アタクトスが祭り上げられ、もてはやされ、オリゴプシュコスやアステノーンが切り捨てられています。
主イエスのエクレシアは、まさにこの風潮に「否」を言い放たなければなりません。
そして、地道にドラッジャリーを担いつつ、地上のヘースカゼインを求め続けねばならないのではないでしょうか。
15だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。
この「だれも、悪をもって悪に報いることのないように」という所がいろいろ問題視されています。
原文は次の通りです。
メー ティス カコン アンティ カコウ ティニ アポドー
not 誰も 悪 対(に) 悪 誰にもreturn(報いる)
この「報いる」と訳された動詞は「アポディドーミ」で、意味は英語ですと give, pay, render, give back, repay, return, rewardとなります。
比較としては、マタイよる福音書5章39節に「悪人に手向かうな」という有名な御言葉あります。
「手向かう」の原語は「アンティステーナイ」で「アポディドーミ」とは異なりますが、意味的には同じでしょう。
これらの御言葉は長く誤解されてきたと言えます。
特に、権力側にある悪人にはむかうなとか、悪事を放置、容認するような解釈がなされたこともあったそうです。
「アンティステーナイ」の本来の意味は、暴力的反抗、武装蜂起、激しい衝突で、真意は、悪に対して、「悪」の手段でもって手向かうなという意味だとW・ウィンクは指摘しています(『イエスと非暴力 第三の道』p.15)。
それは、「善」(愛)をもって悪に向き合うことを意味し、具体的にはM・ルーサー・キング牧師らが指導した公民権運動に代表される非暴力抵抗運動などに象徴されます。
実はこれが日本国憲法第九条の精神です。
武力を放棄するというのは、武力に対して武力をもってやり返さない、報復しないという意味です。
ですから、これはある意味で、軍事的にはやられっぱなしを覚悟しなければならないのですね。
ですから「そんなばかな」との反論が当然あがるわけです。
また、それは「奴隷の平和だ」(小泉前首相の言葉)とも。
そして、多くの知識人や政治家が、国際法上容認されている当然の権利だとして「自衛権」を主張し、そのための軍備の正当化を主張するわけです。
しかし、主イエスは、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とおっしゃいました(マタイ5.39)。有名な言葉ですね。そして、パウロは「悪をもって悪に報いず」と言っているのです。
これは本当に大変なことです。
確かに「非常識」のように思えます。
しかし、歴史を詳細に点検すると、この〈常識〉は覆ります。
名も無き市井の人たちが黙々とこの主の戒めに従ってきました。中にはその意味すら知ることもなく殺されるまま犠牲となっていった人も数多くいました。
あのユダヤ人のホロコーストもそうだったでしょう。
しかし、そのように積み重ねられてきた多くの犠牲が、どれだけ人類を深く教育してきたことでしょう。
あのキング牧師の運動もそうでした。
昨年の会ではそのきっかけになったローザ・パークスさんというご婦人をご紹介しました。
当たり前のように、仕事で疲れた体を市バスの座席に鎮めていたローザは、混んできたため、条例により席を白人に譲るよう運転手に強要されたのでした。しかし、彼女は譲らなかったため逮捕された。そこから、バスボイコット運動へと発展し、黒人の公民権獲得へと歴史は大きく動いたのです。
その時に、激しい迫害があり、時には命まで奪われるような中で、彼らが貫いたのが、「悪をもって悪に報いず」の精神だったのです。
それはキング牧師始め多くの尊い犠牲を伴いましたが、白人たちの心を動かしたのでした。
まさにこの御言葉を実践した人たちがいたし、今もいるのですね。
犠牲を伴いながらも、その犠牲を通して憎しみを乗り越え、魂を獲得し、正義を実現していくのです。
暴力によっては、それは根源的に不可能です。
ですから、クリスチャンは本来、非暴力であるはずですが、実はこの2000年のキリスト教の歴史を見ると、そうではないのですね。今のブッシュ政権もそれを支える強大な勢力にクリスチャンたちがいますが、彼らは「正義のための戦争」があると固く信じているようです。
確かに聖書には「聖戦」と見なされる思想もあります。ですから、自由と正義を守るためとの旗印で戦争を是認しているのです。しかし、それがいかにこの主の福音から遠いことでしょう。
彼らはこの御言葉をどう解釈するのでしょうか。
パウロは続けます。
「パントテ ト アガトー デ ィオーケテ」
いつも 善を 追求しなさい
その「善の追求」の具体的な内容が、16節以降に述べられています。
16いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。19“霊”の火を消してはいけません。20預言を軽んじてはいけません。21すべてを吟味し、良いものを大事にしなさい。22あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
「これこそ、神があなたがたに望んでおられること」だと。
そのために、自分で努力苦闘するのではなく、「“霊”の火を消してはいけない」と非常に適切なアドバイスが添えられています。
しかも、それを実現する力の源は、「聖霊」なのだとも。
私たち自身によるのではなく、主が私たちに賜る「聖霊」によってそれが可能となるのです。
聖霊に溢れている時、あらゆる悪、罪から遠ざかっています。
今、こうして共に集い、祈り、御言葉を学んでいる直中に聖霊が溢れているからこそ、ここが罪から離れた聖なる場所とされており、普段、罪にまみれ、汚れている私たちさえも聖められているのではないでしょうか。
これもまた、ハギアスモス(聖化)であるとパウロは述べています。
23どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。24あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
「聖なる者とされる」というこの手紙の主題が再度確認されています。
私たち一人ひとりの「聖化こそ神の意志だ」と。
それは、ピスティス(真実)なる主が必ず実現してくださるのです。その希望こそ、真の希望なのです。
25兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。
26すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。27この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。
28わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。
以上駆け足で『テサロニケの信徒への手紙』を見て参りました。
そこで、パウロがどんなに信徒たちと深い繋がりを持ちつつ、なおかつ彼らの状況を的確に把握し、それにふさわしい助言や励ましをしているかがよく分かります。
ぜひ、お帰りになってから聖書の本文そのものをじっくりお読み下さい。
そうして僅かでもパウロの気持ちに触れていただき、彼を通して神が私たちに何を伝えようとしているのかを味わっていただければ幸いです。
(2007年7月1日)
註1 パウロ時代の書記について
パウロの手紙はどのようにして書かれたのか。その一端をかいま見せてくれる記述をご紹介します。
「一世紀には、書くということは書記という名を鼻にかけた専門家による熟練した仕事だった。書記は長い勉学と訓練の後に、給料を要求できる知識を獲得する。下書きを書かずに文書を作成することができたのは書記だけだ。彼はときには、人々が考えているよりはまれにだが、ろう引きの書字板を使い、その上に尖筆を使って、頼まれたことを刻んだ。たとえばパウロの書簡など、長いテキストに取りかかろうとするとき、今日わたしたちが読む記述の内容を並べなければならなかった。インク入れのついた小さな板、きちんと文字を直接彫り込むための尖筆、字を削って消すためのナイフ。
書記は専用のインクを作った。煤からとった黒、黄土からとった赤、そのカラムとよばれるペンは燈芯草または葦でできていた。ろう引きの書字板のほかに、パピルスか羊皮紙が選べた。パピルスは、エジプトで収穫される植物の茎から取られた繊維を、一辺が20センチから40センチの一枚の紙になるように並べて作られた。紙は両面とも使うことができる。もっと高価でもっと丈夫なのは、なめし、漂白した動物(羊、山羊、羚羊など)の皮そのものの羊皮紙である。ミシェル・ケスネルはこのテーマの研究でレファレンスを作り、「そのような素材で、1分間に約3つの音節を書くことが可能なら、1時間では72語となるだろう」と締めくくっている。」
(『聖パウロ』アラン・ドゥコー著、女子パウロ会、94,95ページ)
註2 「普遍的価値」のクライテリア(基準)
「普遍的価値」のクライテリアとして武田清子女史はつぎの5点を上げています。
①自己超越の発想の堅持
自己を絶対化するのではなくて、自分を超えた、普遍的、超越的な価値の前に立ち、その普遍的、超越的なもの(神、天、真理等)の拠り所から、自己を対象化し、相対化し、自分が批判され、裁かれるという謙虚な自己認識をもつ、自己超越の発想を堅持すること。
②人間の尊厳と人間の怖さを知る人間観
人格を人格として尊重する。それと同時に、手放しの人間尊重ではなくて、人間というのは、他者を自己目的に利用しようとし、自分の道具に使うというような、利己的な存在だという人間の怖さを知る。人間の尊厳と人間の怖さの両方を自覚する人間観、人間理解に立つこと。
③デモクラシーの厳守される社会制度
④経済における社会正義の尊重
経済における公正と平等の堅持、社会正義の尊重
⑤平和的共存・モザイク的共生の世界共同体
民族自決の尊重と、多元的な価値が、平和的に共存できるような、モザイク的な世界共同体の共生の構造が、それを尊重する寛容な心のあり方と共に求められている。
(武田清子著『峻烈なる洞察と寛容』35─36ページ)
註3「国家偶像」への警鐘
ある方より、クリスチャンの中にも最近の「愛国心」への回帰を支持する人が多いことについて、どうしてなのかとの質問を頂きました。「国家偶像」について下記の小泉仰氏の文章を引用しつつ以下のようにお応えしました。
「利己的衝動は、元々自己保存本能に根ざすが、自分の利益のみを追い求める衝動である。これに対して非利己的衝動は、意識的な次元に浮かび上がれば、他人に対する愛や、思いやりとして現れる。非利己的衝動は利己的衝動を抑えて、人に奉仕する役割を果たし、理性はその行動を正当化する。個人においてはこうした行動と正当化は、道徳的であり、ニーバーによれば、人間は道徳的個人となる可能性がある。
しかし国家という大集団の中の一員として行動する個人は、どうであろうか。非利己的衝動は、利己的衝動を抑制ないし犠牲にして、国家に愛情を注ぐ。これが愛国心である。個人は自己を犠牲にして自分の属する国家に奉仕しようとする点で道徳的に見られる。理性もこうした行動を道徳的だと正当化する。
他方、利己的衝動は、一見犠牲にさえる装いをまとうが、自己を国家集団と一体化させるようになり、自己犠牲の形をとりながら国家を拡大させていくことで、実は自己のエゴイズムを拡大させている構造を無意識のうちにとってしまうのである。こうして結局は非利己的衝動の最たる愛国心も、実は無意識のうちに自己のエゴイズムを拡大させ充足させることになる。
従って愛国心は無意識の自己拡大(self-aggrandizement)であり、結局のところ集団エゴイズムにすぎない。そこで愛国的熱情は一皮むけば偽善であり、偽善であるゆえに、個人のエゴイズムよりもはるかに悪を含み得るのである。要するに、神の正義と公正によって制御されないままの、生の愛国心は、集団エゴイズムの一種にすぎないものである。」(『預言者エレミヤと現代』小泉仰著 95-96ページ)
ここに指摘されるように、愛国心は一見、理性においても自己犠牲を伴う道徳的行為として写ります。したがって、社会の現状を憂い嘆く良心的な人々は、その解決のために、この良心的な志向性を否定することができません。しかし、そこにはそれらの個々人の良心的な非利己的衝動が、国家レベルになると御しがたい利己的衝動になるという悪魔的トリックに気付いていません。それは、蛇のように聡く罪の現実を見据えられないことに原因があるように思います。良心的で、鳩のようにすなおなクリスチャンほど、この罠にかかってしまうのではないでしょうか?
悪のおぞましいほどの深さ、それは主イエスの十字架の惨さにつながりますが、それが分かっていないのです。つまり道徳的宗教のレベルに留まっているかぎり、この罠にはまり、むしろ率先して非利己的衝動たる「愛国心」を賛美し、牽引する勢力となりましょう。
「聖化」への招き テサロニケの信徒への手紙 一
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