的外れ
今日は聖パウロの回心の記念日だそうだ。
回心前、人一倍熱心なユダヤ教徒だったパウロ(当時はユダヤ名のサウルと名乗っていた)が、キリスト者たちを捕らえるためダマスコへの道を急ぐ途上、突然天からの光を受け、目が見えなくなった。
ミケランジェロの絵は、まさにその瞬間を描いたものだ。
それは復活された主イエスの啓示。
「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」
主イエスからの呼びかけ。
自分こそ、神のために誰よりも熱心と自負していたサウル。
その神のため、神を冒涜するキリスト者を懲らしめることこそ、我が使命と信じていた。
その生き方は根底から否定された。
まさに「的外れ」だったのだ。
信ずべきもの、生きる指針を喪失したサウロ。
彼に手を差し伸べたのもまた、主。
主の命によりアナニアがサウロを導き、
彼は「主で生きる」者とされた。
この体験が、パウロにとっての主イエスの福音の原点だった。
実は私自身、勿論規模は違うが同じような体験をさせられた。
自分達は神様のためにやっているという自負。その自意識とプライドで若い時になんでもやろうとした。
しかし、その自負の絶頂で、そのこと自体、全くの「的外れ」であることを、事実をもって示された。
そして、この「的外れ」こそ、
新約聖書の原語では、
「 ἁμαρτία ハマルティア =罪 」
なのだ。
その的外れを示された時こそ、
幸いなるかな。
私は今も
〈爽やかな敗北感〉
を伴ったその時を
感謝をもって想い起こす。
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