「ネコと和解せよ」
「ネコと和解せよ」
ネットで以前、話題になった写真がこれ。
「神と和解せよ」と書かれた看板の、
「神」の漢字の一部が消えて、「ネコ」となり、
「ネコと和解せよ」と読めたということから、
話が広がって、、というもの。
この聖句は、『コリントの信徒への手紙 II 』の5章20節にある。
「神の和解を受け入れなさい」 (聖書協会共同訳)
「神と和解させていただきなさい」(新共同訳)
「神の和解を受けなさい」 (口語訳)
「神と和解させていただきなさい」(新改訳2017)
「汝ら神と和(やわら)げ」 (文語訳)
「あなた方は神と和解しなさい」(田川健三訳)
「神と和解せよ」は、上述の代表的な和訳ではないようだ。
ネットの情報によると福音派系の「聖書配布協力会」という団体が、リーフレットの配布と合わせ、全国各地に造った看板の一つのようだ。
年月が経ち、「神」の漢字の一部が剥がれて「ネコ」と読めるようになったことから、
話題になったようだ。
さて、私がここで注目したいのは、
「ネコ」ではなく、
「和解」という言葉だ。
調べた限り、殆どの和訳で「和解」という訳語が使われている。
英訳では、reconcile。こちらも訳せば「和解」。
KJVはじめ、主な英訳はもとより、特長ある個人訳やメシアニックジューの訳ですら
reconcileを使っている。
では、「和解」とはなにか。
『広辞苑』では、「相互の意思がやわらいで、とけあうこと。なかなおり。」
または、法律用語で「争いをしている当事者が互いに譲歩しあって、その間の争いを止めることを約する契約。示談。
『大辞林』では、
「争いをやめ、仲直りすること。」と法律用語の和解の意味が挙げられている。
英語のreconcileは、
ラテン語の〈re = 再び 〉+ 〈 concillio = 呼び集める 〉から来ていて、
相争う者が、再び相まみえて、相談し妥協点を見つけて手を握ることを意味する。
くどいようだが、私が違和感を懐くのは、〈神〉が〈ネコ〉になったことではなく、
神と人間が、
対等に相談し、話し合うことなど、できるだろうか。
仮に、そうした話し合いが出来たとしても、
相反していた想いを和らげ、
《神》と「仲直りする」、というようなことを、
果たしてパウロが言ったのだろうか。
私は違うと思う。
だから、現行の和訳や英訳に強い違和感を覚える。
一歩譲って次のようにも考えら得る。
人間の傲慢さ、不忠実さに対して神が怒っておられ、
それを、人間が、神に歩み寄り、
謝罪して赦してもらう、
というニュアンスなんだろうか。
「神と和解せよ」との看板は、
そうせよ、と促した言葉と受け止められるだろう。
確かに、そういう一面もあろう。
だとしたら、それは「和解」という表現ではなく、
神の一方的な赦しに気づき、感謝をもって受け止めることであろう。
「和解」という訳はどうにも腑に落ちない。
うーんと悩んだ時は、オリジナル、原文に遡るべし!
καταλλάγητε τῷ θεῷ.
カタラゲーテ トー セオー
カタラゲーテ は καταλλάσσω(カタラッソー)という動詞のアオリスト、受動態。
καταλλάσσω(カタラッソー)の意味
『新約聖書 ギリシア語小辞典』織田昭編より
①(人間同士の関係について)〔受〕(妻が夫に)復縁する。
(元の関係を)回復してもらう」
②(神が人の)霊的身分を一新する、
(人の)神との関係を根本から変えてしまう。
〔人を)完全に変えてご自分のものになさる。
〔受〕(人が神によって)〔霊的な身分を完全に変えられた新しい被造物とされ)
神との新しい聖なる関係につないでいただく、
一新されて神のものとされる。
織田氏のこの聖句の訳
「(全く変えられた)神との新しい関係を頂戴しなさい」
ああ、これだ。
まさに、これだ。
私が「和解」という言葉に懐く違和感は、
この織田氏の辞典によって解消した。
この部分は、
「神と和解せよ」ではなく、
「神に対して新しくさせられよ、新しく作り替えられよ」
なのだ、これなら得心がいく。
パウロが、同じ単語καταλλάσσω(カタラッソー)を使う他の聖句も、
この織田氏の解釈で訳し直してみると、すべて得心がいく。
では、どうしてこれまで「和解」という訳で定着しているのだろうか。
あの、手厳しい田川健三氏ですら、「和解」をそのまま踏襲している。
織田氏はどちらかと言えば、聖書学では亜流の人だ。
正統な聖書学者や神学者が長年、疑問にも思わず、
定説を踏襲してきたところに、
私は何か、深い、深い問題点があるのではないかと思う。
そんなことを、「ネコと和解せよ」の看板から思い巡らした。