白銀の部屋・恋になる
「ストレス社会に効くっつってんだろ!」
テレビの中で女が怒鳴る。角刈りでグレーのスーツを着た女だ。どうやら新製品のコマーシャルらしかった。壊れたラジオのように何度も喚く女に嫌気がさして私はリモコンを手に取り、テレビを消す。
「だーかーら、ストレス社会に効くの!!!!」
声は依然、隣の部屋から聞こえてきた。隣の部屋もテレビをつけているのだ。壁の薄いこのアパートでは隣のテレビの音がよく聞こえる。
私は目を閉じて、眠ることに決めた。女の喚き声が頭の中で鳴る音と溶けあい、私を眠りの世界へと誘う。
あなたはもしかするとこの状態を体験したことがないかもしれない。しかしあなたはそれを想像できるはずだ。人間は一度も経験したことがないようなことをありありと想像できる。時には、体験するよりも鮮明に。やらなければわからないことなんて本当はほとんどないのだ。
眠りの世界で私はたったひとりだった。喚く女はいなかった。その他私の部屋にあったもの、例えば図鑑や、付け髭や、鼻眼鏡や、鬘や、マグカップや、猫の形のビール瓶なども、眠りの世界には存在しなかった。
眠りの世界はまったく白銀色だった。そこにはさして高くない壁だけがあって、それらが私の四方を取り囲んでいた。その壁もまた白銀色だった。あなたはきっとこれらの風景をありありと想像できるだろう。
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「キミってさ、とっても……可愛いね」
僕の顔をじっと見つめた男の人は、溜めに溜めてからそんなことを言った。臓器が震えているときのような声だった。
無視するという選択肢もあった。何しろこの人と僕は初対面で、ここは地下鉄の線路の上なのだから。
「………とっても………………..可愛いね」
だけど、僕はどうしてかその男の人から目を離すことができなかった。臓器が協力して心臓マッサージをしているときのような声で、男の人は僕をもう一度「可愛い」と言った。
「あと……相撲って、セツナだよね」
男の人が臓器のタワー天丼みたいな声でそう言った時、僕は一瞬「セツナ」を頭の中で漢字に変換できず、ふっ、と意識が飛びそうになる。セツナ、セツナってどんな漢字を書くんだったっけ。確か、そう……。
「……『殺す』」
僕は「セツナ」の「刹」を思い出してそう言う。髪の毛が少し抜けたような感触があって、それから僕の長い黒髪が何本かはらりと線路に落ちた。男の人の背後から明かりが迫る。何しろここは地下鉄の線路の上なのだから、きっと電車がやってきたのだろう。
「キミって……可愛いね」
男の人はサムズアップをしながら、臓器そのものみたいな声でそう言った。僕は、眩しい明かりに目を細め、近づく車輪の音で声がかき消されるのを自覚しながら、必死で臓器みたいな声を作って返事をする。
「チャンネル登録、高評価、よろしくね」
明かりが消えた。