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ストーリーを語ることの重要性

おはようございます。
みなさんは「物語」と聞くとどんなイメージを持ちますか?

僕がnoteを書くようになった一つのきっかけに
「ストーリーの重要性」を知ったことがあります。

とある読書会がきっかけで、佐渡島庸平さんの著書
『WE ARE LONELY, BUT NOT ALONE. 〜現代の孤独と持続可能な経済圏としてのコミュニティ〜 』に出会いました。

現代におけるコミュニティについて書かれた本で、大企業がバブル期に比べて、コミュニティとしての役割を果たしきれなくなったことで、
元来マジョリティだった人々がマイノリティ化し、現代ならではの孤独を抱えている、という切り口から物語が語られます。

本の魅力は書いても書いても書ききれないので、また別の機会に記すことにしますが、
ストーリーという観点でとても参考になる文章がありました。

法事というのは、そもそも、死者のためではなく、残された人のために存在する、という内容でした。
大切な人の死というあまりにも大きすぎる現実を受け入れるために、法要の準備に集中することで気を紛らわし、49日に親戚縁者が変わるがわる家に訪れ、日常に戻ることができたかを確認する。
そんな経緯で生まれたしきたり、それが法事だと。

たしかに人間も元を辿れば一種の動物であることを考えると、
種の保存を純粋に考慮した、
「生きるために必要な行動」というものが、
精神的なものより先に重要視されるというのも頷けます。
死んだ同胞を弔う心は象にもあるといいますが、それが種全体にまで広がるには、
精神的なものを超越した動物としての合理性がそこにはあるように思うのです。

ですがそんな合理的で動物的な営みとしての法事も、人によっては「自分は大丈夫だから」「心配をかけたくない」と疎かにする個体も一定数出てきます。そして、自然の摂理には逆らえず、精神的もしくは肉体的に病んでいきます。

そんな人たちが気負うことなく、法事を行い、死者を弔うことで自分自身の心身の調整を図るために、ストーリーが活用されました。
死者の霊は49日現世をさまよい、その後極楽浄土に向かう。生きている親族は、亡くなった家族の霊を慰めるため、法要を行うのだ。という優しいストーリーが生まれ、文化として根付いたのだと。

いくら合理的な事実であっても、僕たちは素直に受け入れられないものです。

無駄遣いはしないほうがいい。
食べすぎない方がいい。
朝は早起きした方がいい。

誰が見ても明白だと思う事実なのに、 
誰もが実践できているわけではない。

僕はそれに気づかずに、
自分自身ですら、理屈だけで合理的に判断して行動していないのに、
周囲の人には理屈で説明してばかりいました。
理屈はすでにみんな理解していて、
必要なのは後押しとしてのストーリー。

僕自身が、
なぜ、どんな経緯で、どう思い、その決断をしたのか。
僕にとって、それを伝えることは、開示することは一つのハードルで、その筋肉を鍛えていく、そのためのnoteなのです。

そんな、軽い書評めいた、物語でした。
今日もどなたかに届いてくれると、嬉しいです。



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