自分について話すことも、ゴールを決めることも、準備であることに気づいて
きっかけは個サル
最近、個サルにハマっている。
個人フットサル、略して個サルだ。
社会人になって、
休みの日に体を動かそうと思って、運動をやってみる。これがなかなか続かない。
まずはジムだ。登録する。基本続かない。
パーソナルに行く。やる気になる。続かない。
ジムは、続かない、の枕詞なんじゃないか、と思う。
次は皇居ランだ。
ランニングステーションに行く、走る、これは結構続いた。
さらに年に1度のリセットイベント、駅伝がある。
だがいつもやってくる、「景色が変わらない」感覚。
そんなこんなで、皇居からも、今は遠ざかり気味だ。
フットサルは、社会人になって始めた。
大学の先輩が、定期的に大会を開くのだが、それに呼ばれて参加したのがきっかけ。
だけど、ハマり始めたのは、とある映画を見た後からだ。
それは、ブルーロックの劇場版。
フットサルに呼んでくれた先輩と一緒に見に行った。
「やっぱストライカーって、かっこいい」
「点を決めることって、かっこいい」
そう感じた。
チームプレイへの苦手意識
ちなみにだが、僕にはサッカーの経験はない。
学生時代の体育で、授業の成績をとるために、大きな声で、チームに檄を飛ばし、全力で走り回って相手からボールを奪う、それが僕のプレイスタイルだった。
陸上部だったので足は速く、ボールを持った状態で僕を置いていける生徒は少なかったので、プレッシャーをかけ、相手を責めにくくし、抜けようとしたところでボールをカットして、チームメイトにパスする、その繰り返しで満足をしていた。
クラスメイトからも、
「せいたは、球技は、まあまあだよね」とよく言われてきた。
野球はずっと好きで、やってきていたから、個人的には、
「コートスポーツが苦手」くらいに思っていた。
そして社会人になって、フットサルをやってみて、自分はチームスポーツが苦手なのだ。と、いうことに気づく。
高校はバンド、大学は学祭、会社は花形部署と、いつも個人のオーディションを潜り抜けるところまでは達成してきた。
それなのにだ、精鋭が集められているチームにいるはずなのにだ、僕のいるチームの結果は芳しくない。
高校最後の文化祭の中夜祭では、曲の途中で音声を落とされるし、大学祭では現役時代に手痛い失敗を経験した。
会社でも、仕事だからもちろん結果は出すけど、悪くはないな、程度。
このメンバーで一生仕事するんだ、とも思えず、僕が配属されていた4年間で、10人いないはずのチームで役職者を含めた5人が辞めていった。そして僕がいなくなった後に来た人も、すぐに辞めていったと後輩から聞いた。
フットサルをしていて、なかなか自分のいるチームが勝てないことを通して、その経験を思い出した。
チームで勝ちたい
フットサルで勝てるようになりたい。
そう思ったのは、チームプレイで勝てる自分になりたいと思ったから。
そして、その中でも自分の得点でチームを勝たせる、そんな経験をしたいと思ったからだ。
ちょうど仕事で営業色が濃くなって来たタイミングとも重なった。
僕は、それまでは下げていた営業目標も、高く設定された状態のまま無視した。
先輩社員がやっきになって社内を説得して目標を下げる作業が、本当に無駄だと思った。
怒られないようにする仕事、それに全く意味がないと思った。
自分の商品が好きで、自分の仕事に誇りを持っているからこそ、そう簡単に値下げなんて口に出せないだろうと、そう思うようになった。
ただ、それがフットサルのプレーに反映できるまでは時間がかかる。
点が入りそうな瞬間に咄嗟に守りに入る、
チームメイトからのパスが怖い。
そこで、フットサル教室に行ってみた。
いきなり試合ではなく、いろいろな動き方をする中で、学んだこと。
ボールをもらいにいくとは、欲しがる行為ではなくて、助けに行く行為であること。
攻め方は、一通りではないこと。
新しいプレーにチャレンジすることは、仮説を試すようなもので、ゴールにつながらないことを嘆くのではなく、次に繋げることが必要だということ。
そんなふうに、捉え方を変えて、試合に臨む。
そうすると、傲慢に見えていた、出たがりに見えていた、目立ちたがりに見えていた全てのプレーについての、捉え方が、貼り変わった。
ボールを持っていることは、チームメンバーが取りに行く来る位置を測るための時間を稼ぐ行為。
ドリブルは、自らシュートやパスコースをに向けて走っていく行為。
ゴール前に走り抜ける行為は、ゴールを決めるための準備で、相手の注意を惹きつけて、ボール保持者を楽にする行為。
全て、チームに与えている行為なのだと、気付いた。
そして、前に出ることを繰り返す中で、理想のゴールを描けることはほとんどない。
でも、予測もしなかったところにボールが来て、なんとか足を伸ばすと、ゴールにボールが吸い込まれていく。これは、ゴールを決めようと前へ前へ、ボールを運んだからこそ、生まれた現象。
全く、想像も意図もしていなかったけど、前に出ることさえしなかったら掴み取れなかったゴール。
ゴールに向けて、前に向けてドリブルやシュートをしていくことは、結果だけを追い求めている行為に見えて、実際は綿密な準備なのだと。
これは、仕事についても言える。
高い目標を掲げる行為は、自分と組織とチームメンバーに自分がそれを達成する心づもりができるための準備。
更なる提案を行っていくことは、理想のゴールを迎えるための準備。
決断を促す問いかけは、相手に準備をする時間を与える行為。
全て、目立ちたがり屋の自己満足だと思っていた。
どれも、独りよがりな自己顕示だと思っていた。
全体を見ていない、無責任な行為だと思っていた。
でも、点を取らなければチームは、勝つことはない。
どんなに点を取られても、相手よりも一点多く取れば、チームは勝つ。
全体を見ていない、無責任は、自分だった。
全ての前のめりなプレーは準備なのだ。
僕にとって「人生は、練習の練習の練習、という名の本番」なのだから、
勇気を出して、震えながら、ビビりながら、想いを伝えていく、そんなふうに、コートの片隅で思った。