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雪化粧の山
昼間は食事作りはなんとかして、あとはダラダラは過し、夜になると痛みが強くなり服用してしまう。効いてるんだろうけど、足のズキズキが取れなくて、もう朝。昼夜逆転してまたnoteへきた。
昨日は「僕は死なない」の刀根健さんの対談動画を見た。この方、ある日医師からステージ4の肺がんであること、また治る見込みはないと告知され、先進医療は断り、治ると信じてありとあらゆる治療法を模索する中、刻々と病状は進み、ある時どうにもこうにもいかなくなり、再度別の病院へかかることになったそう。そこで、いままで、「絶対治す」とかなり力んで交感神経、左脳優位になっていた思考の身体が限界を迎え、強制ストップしたことでふわっと心が軽くなり、副交感神経、右脳優位への切り替えが起こり、絶対的安心感の中医療を受け入れ全てを委ねたことで、劇的に合う薬があり、全身に転移していた癌が消えたそう。
右脳さん左脳さんで巷で話題のネドじゅんさんのお話とも通じるなぁと思った。
刀根さんのお話を聞く中で感じたのは
医師の言葉選びについて、その医師の良し悪しというわけではなく、これは社会システムの根深い問題なんだと思う。医師は伝えるべきことを伝え彼の仕事を全うているだけなんだろう。きっと。
(もし、癌は自分自身を浄化する装置で、病状は辛いが一緒に体調を良くしていく道を模索しよう、と医師から告げられたらどうだったろうか。と考える。友人とこの方のお話がダブって見える。)
教育、医療、金融、政治、いま、あらゆる社会システムがガタガタ音をたてている。そこには「恐怖心」「猜疑心」というものが根深く植え付けられている。幼少期から人と比べられ、優劣をつけられる、効率の良さ、価値基準がお金であること、エビデンスが常に必要で、目に見えるものしか信じることができない。心はイマココになく、過去を悔やんだり、未来を心配したり、また、夢みたりして忙しい。
もし、大前提としての大安心がそこここに感じられたなら、今のように、薬局や、病院は溢れているのに病は増える一方なんてことがないんじゃないか?大安心が前提なら人と競わなくてもよく、みんな違ってそれが良いし、それぞれの個性を活かして一人一人が輝く時代となる。何かを成し遂げなくても、今穏やかに過ごせる。夢物語だろうか。いや、二極化しているかもしれないが時代の加速度的な変化をそこここで感じている。
激動の時代変化を迎え、大事なことは
自分自身の内側とのコンタクト。今、わたしはどうしたいの?という対話を積み重ね、また、自分自身の五感を研ぎ澄ます。
私は、今の仕事を始める前、混沌とした20代を過ごし、突如どハマりした山歩きをしていた30代。みるみる元気になった。あれは今思うと、五感が研ぎ澄まされ、いまここの山歩きで自分と対話し、自分自身と仲直りした。左脳から右脳優位になっていたのだと思う。だが、人間喉元すぎれば、、で今また左脳のおしゃべりが五月蝿い。そして、あっという間に自分の声が聞けなくなり、がむしゃらに過ごした10年で痛めつけた身体とイマココ。がむしゃらにいなければならなかったのは誰のせいでもない、私自身の左脳の声がうるさかったから。。
繰り返し繰り返し。
あぁ、また元のその一に戻ったのなら、日々お稽古を継続するのみ。一度通った道だけど、また違うその道。ワクワクこの経験を楽しみつつ、ゆくのだ。あの、山の峰々を歩いたときのように。
いつか、また山をのんびり歩こう。そうしよう。
季節はもう冬。山にいかなくなり数年。
今は5分も歩けないこの足だけど、山の道具のストックも杖代わりでお役立ち🤭
いつも、私を支え、踏ん張り、あちこちへ連れて行ってくれる相棒の足腰さん。まだまだよろしくお願いしますなんです。本当に。
写真は最近のものではないが、畑へ向かう道からパシャリ。大好きな雪化粧した神々しい山。