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【球体の球体】「決めずでいいじゃないか 世界は決まっていないんだから」ってつまりどういうこと?~意図的に「観客」を混乱させる要素を言語化する~

■最初に伝えたいこと


球体の球体については、「決めずでいいじゃないか 世界は決まっていないんだから」と、答えを提示しないことが、正解の舞台です。だから、何も書かないことが正解じゃない?と思って、沈黙しようと思っていたのです。

でも、「決めない」ということは、ある種、個人の前提知識レベルで受けとるものも違う訳で…。「わからなかった」が正解である反面、知っているともっと面白い・視野が広がることがあることも確かではあるんですよね…。

決して、作品のコンセプトを否定しているわけではないし、あなたの感性を否定している訳ではない。なので、はじめに言っておきたい、
「あなたの解釈が正解です。私の解釈に囚われちゃだめだよ。あ、こう捉える人もいるんだね」という軽い気持ちで客観的にお読みください。
だって、「決めずでいいじゃないか」が正解な作品なので。あなたの感じたことが正解なんです。

■じゃ、なんで書くのさ?


でも、要素の意味や意図を知っておくと、もっと奥深く、この作品を味わえる、面白くなるかなと思って、敢えて、これは書いておこうかなと思いました。
「私たち(観客)が徹底的に、役割をはく奪される作品だった。だから、分からない、不穏さを感じる作品」であったこと。

個人的には、めちゃくちゃ「分かりやすい」と思った作品だったんですよ。「要素の提示」の仕方が明確だったので。
私は、演劇部に所属したことも、演劇を勉強した訳でもないですが、3歳からいろんな作品を観客として見まくっているいます。昨年の観劇数は100回超えていました(…Oh)
なので、観劇慣れをしている層からどう見えたかの視点で、球体の球体の「要素」(演出の意図とか仕掛けとも言えるかな?)の解説をしておきます。

1.「観客」の役割をはく奪される私たち   ~トラムに足を踏み入れてから出ていくまで①~

この作品の気持ち悪さの個人的No1は、「自分(観客)の属性をはく奪される」ということでした。
「シアタートラムに足を踏み入れてから出ていくまで」の流れで解説していきましょう。

①開演前

まずシアタートラムのロビーに入ったら、パンフレットやガチャコーナーがあり、「劇場に観劇に来た」ワクワクする空間が広がりっています。
「観客として観劇にきたんだ、私」と思いますよね。

そして、チケットをもぎってもらい、劇場内に入ります。
ここから、アイデンティティが分からなくなる、不穏空間に突入するんです。
シアタートラムの光の柱を抜けると、係員が案内用紙を持って立っています。「本島 幸司 作 Sphere of Sphereをご鑑賞ください」と。
さて、ここで私たちの役割は「観客」から「美術館に鑑賞しに来た人」に変更されるんです。自分たちの意図せぬまま、気づいたら、ヌルっと役割が変更される。そして、舞台の上を通って、ステージ中央にある、ガチャオブジェ(Sphere of Sphere)を鑑賞します。
何かよくわからないけど、ガチャがたくさんあるものをほぼ無理やり見せられる。
しかも、バックサウンドとして、地下室の空間にいるような、冷たい機械・金属音が鳴っている、途中で足音もする。

あのなんとも言えない無機質で冷たい感じ、しかも足音がすることで何か監視されているような、閉鎖的な気分になりますよね。トラムの壁と相性がぴったりの「冷たさ」
そこに、よく分からないけど、四方に、ガチャと同じ赤い色がしたライトが存在感たっぷりに点滅されているんですよ。(のちに監視カメラだと判明)怖くないっすか?
しかも、劇場の案内係というものが存在せずに、「スーツの美術館の監視係」と「央楼STAFFのTシャツを着ている人」しかいない。なんか分からんけど、自分が「観客」として存在していないことだけはわかる。
(書いてて気づいたんですが、劇場は案内係だけど、美術館は監視係ですよね。…うわー、「監視カメラ」と「監視係」の空間か…怖っ)

自分の座席に到着しても、チラシの一番上が、本島幸司によるGreeting、その下に演劇のチラシ。まさに、境界線が曖昧。
「わからなくさせる」ことに全力を注ぐ要素が空間全部で演出されていることが開演前から分かるんです。

②開演時

ハレの日である観劇のわくわくの一つである、「開始前の注意事項のアナウンス」もありません。開演前の場内アナウンスは「これより、央楼美術館のスタッフによる~」とあくまでも、「美術館」としてのアナウンスが入ります。そのまま、開始合図もなく、新原君が舞台上に現れ、小道具遊びがはじまります。
(このちょっと観客をおちょくる手法、「黒テント」とか「自由劇場」が好きな演出だよねー。これ、「観客を観察し、場を支配する役者の役」を演じる必要があるので、演じる俳優がものすごく他者性と客観性を持っていないと成立しない手法だと私は思っています。だから、演技力が必要なんだけど、観客には演技力があるって思われてはいけない、ものすごく高度な技巧。これを23歳でサラッと新原君やってのけててすごい…新原泰佑…恐ろしい子!)
その後、ガチャを回したかと思ったら、ダンスが始まります(ちなみにこのタイミングでカメラの点滅は消える)
ここまで、徹底的に「観客を置き去りにしていく演出」がなされています。

③場面説明(舞台でよくある前口上ってやつ)


新原君(ここ役名もつけようがないんですよ。「誰だったか説明ないので、わからない」です)が去ったあと、35年後の大統領のホログラム(相島さん)が登場します。
さて、ここの冒頭のセリフを思い出しましょう。「親愛なる国民の皆様、こんにちは」
おおっと!!?!はい、私たちの役割は「国民」になりました。いつの間にか独裁国家「央楼国の国民」にされてしまいました。
どうやら私たちは「ホログラムパフォーマンス2059を見に来た、央楼国の国民」という体(てい)で進んでいくらしいです。

さて、ここまで、私たちの役割は「観客」→「美術館の来館者」→「2059年の央楼国民」 と変更されています。しかも、自分たちにはなんの許可もなくヌルっと、暴力的に!

④はじまる、矛盾

さらに、作品が進むとどんどん矛盾が生じていくんですよね。
相島大統領ホログラムは、「お気づきになりました?この体、ホログラムです。」と、チケットを買って観劇している私たちに言う。(ちなみに、ここから監視カメラ点灯再スタート)
遅れて入場した観客に「安心してください。まだ始まったばかりですから」と、相島さんが「ホログラム」のはずなのに、生身の人間がライブで行うようなコミュニケーションを取る。
もう、意味が分からないんですよ。徹底的に、私たちを混乱させて思考停止にさせるかのような、「曖昧さ」を押し付けてくるんです。

もう少し言及すると、「登場人物に感情移入させない」要素も込められているんですよね。
相島大統領ホログラムが、新原君登場「こちらのホログラムは35年前の私です」と説明。前原さん登場「こちらのホログラムは」と説明。
ここも、きちんと、「ホログラム」と言っているんですよね。普段の日常会話を思い出していただければと思いますが、「こちらは」でよくないですか?(「こちらの人間は」なんて説明しないですよね)
「こちらのホログラムは」と言うことで、私たちは、無意識に「客観的に登場人物を見る」ように誘導されているんです。生身の人間じゃなくホログラム(映像)なので。つまり、わかりやすく、「感情移入(共感)させない要素」の演出を入れています。
(なので、もし「登場人物に共感できなかった」と思った人、安心して。そうなるように誘導されていただけだから。むしろ、相手の話を素直に受け取れる長所があるってことです。素晴らしいです!)

このように、実は「球体の球体」ってものすごく冷たいんですよね。最初から「冷たさ」を感じさせる美術的演出と「登場人物に共感させてくれない」突き放し方をする。そういう「冷たさ」を無意識に感じる仕掛けがいくつもなされています。
そう、だからこそ、「新原君のダンス」と「本島とグレイ二大統領のフォートナイト遊び」の部分の美しさがきれいに対比されてるような構造になっていますよね。

⑤はく奪され始める、自分の感覚

さて、この2024年のホログラムたちの存在によって、私たちはさらに「わからない」状態にされます。
岡上と本島の下手での撮影シーンを思い出しましょう。
岡上ホログラム「2024年9月〇日14時58分」
→ここ、現在時刻を正確に言うんです(開始から28~30分後の時間を岡上は言っています。公演により2分のズレがあるので、リアルタイムを言っていると思います)
もう、意味わからなくなりませんか?
いきなり、2059年の央楼国民にされたと思ったら、「2024年のホログラム」たちは、リアルタイムの時刻を話している。
でも、オープニングの相島大統領ホログラムは絶対に「こんにちは」19時開演の公演でも「こんにちは」なんです。
こうなっちゃうと、時間の感覚も、自分は何者としてこの場にいるのかも分からないんです。

だから、私は観ている中で、徹底的に不安になっていました。だって、考えて仮説を立てたら否定されるし、わからない世界に勝手に引き込まれちゃうし…。

⑥前提を崩していく


ここに、日野グレイ二大統領ホログラムが現れて、状況が明確になることでさらに「曖昧であり、信頼できなくさせる要素」が投下されます。
もう書き出したらキリがない、というか、書いてて疲れてきちゃったから、もう、「曖昧であり、信頼できなくさせる要素」だけを書き出していっちゃうね。全部で7個(多くない!?)あるんです。

・「①独裁国家である」「②鎖国状態である」
 ∟つまり、外(国外)に開示されていないので、内側(央楼国の上層部)で操作・変更可能な状況
・「③監視カメラで監視されている」
 ∟本島達の様子を何者かが見ていて【power】で大統領を傀儡している。
  →おいおい、①②だから内側で変更・操作可能なのに、すでにしているんかい!!
・「④大統領が影武者か影武者ではないか、分からない」
 ∟なぜなら監視カメラの人間から【セキュリティ】の攻撃を受け、日野グレイニ大統領が脅されながら発言したセリフである
・「⑤岡上が操作されていた」
 ∟日本にいるときから操作されていたらしいが、具体的な操作内容や、どこまでが操作されているのかは不明

①~③の設定のうえに④と⑤が付け足されているので、「①~③で登場人物たちの意志とは関係ないところで操作されている(神の見えざる手的な)」うえに「④~⑤で信頼ならない語り手」であることが分かります。

そのうえ、
・「⑥2024年ホログラム(新原・小栗・前原)は2059年ホログラム(相島)は見えていない」
 ∟柱の演出、白々しいですよね
だから、
・「⑦ステージ上のものは本物として信じる(俳優の演じる演劇的嘘を観客が真実をして観劇する)という、観客と役者との暗黙の了解の崩壊」 
と言えるんです。

⑥に対しては、2024年のホログラムたちは2059年の相島大統領ホログラムが見えていないように芝居しているため、「誰かが言っているわけじゃないけど、相島ホログラム、他の人には見えていないんだ」と思いますよね。
(1回観てよくわからなかったと思った方は、この演出に混乱されたのではないでしょうか。これも安心して、こんなに高度な演出はあんまり他ではないので。理解できたあなたは観劇玄人レベルです)

⑦については、ここまで観客は作り手から裏切られてきたり、勝手に場所・設定を変更されてきているわけです。徹底的に。つまり「暗黙の了解は存在しないよ」と言われているわけなのです。だからもう、この段階では観客と作り手との関係性(「暗黙の約束事項」をお互いに守りながら、一緒に劇場で演劇を作り上げていこうねという信頼関係)って崩壊していますよね。

■「球体の球体」の要素まとめ

①~⑦の要素が入ることで、徹底的に「信頼ならない語り手であり、自分たちには見えない人物が操作している。だから、すべてが本当かもしれないし、違うかもしれない」という演出がなされています。

ここに、詩人の言葉「決めずでいいじゃない 世界は決まっていないんだから」が言及されるので、もう、徹底的に「観客を置き去りにしてゆく演出」に対する作り手側の自己防衛(正当化)まで入っています。

そのため、私は「ここまでこんなに潔く、わかりやすく【観客を置き去りにして、わからなくさせる】演出してくれると、逆に清々しいよ!気持ちいよ、池田さん!」って気持ちになっちゃいました。

2.なぜ「あなたが感じたことが正解」って言えるの?

■私からあなたに伝えたいこと


だから、私は、如何様にも受け取れるし、観客としての感想が「大好き」でも「大嫌い」でも「面白い」でも「面白くなかった」でも「推しがよかった」でも「眠かった」でもなんでもいいと思います。
でも、「わからなかった私って悪いのかな」「私、理解力がないのかな」と思うのは違います。
だって、「わからなくさせる」ことに全力を注いで作っている作品なんですから、あなたに「わからせたくない」わけでしょ?
(私は底意地が悪いのでその「わからせたくない」を言語化しちゃっているわけですが…笑)

だから、「わからないな」をまっすぐに受け取れたあなたの感性が、私は素敵だと思います。そして、もし、そのときに感じた「気持ち悪さ」だったり「怖さ」だったり、「不安」だったりがあったら、その気持ちを覚えておしてほしいなと、舞台を愛する者としては感じます。
そして、どうか、山ほどある娯楽の一つとして、観劇を選択肢に入れてみて。いつか、またいつか、あなたが劇場に足を運んでくれたら、私はとても嬉しい。
(決して、観劇は観劇オタクや富裕層だけのものになっちゃいけないと思っているので)

■(脱線話)んじゃ、私はというと…

私はというと、解釈として50通りくらい思いついてしまい(笑)、一緒に観劇いった友人と、帰り道に話しました。
あ、そういえば、一緒に行った友人は最後クニヤスの言った「ただ踊っているだけの人生だったらよかったのに」に対しての引っ掛かり(「あのセリフだけ浮いてるよね」)を、初日と1週間後の観劇で言及していたな。
別の友人は初観劇のタイミングで、「あのセリフ、言いなれてなかったけど、アドリブだった?」と直前の演出変更のセリフをドンピシャで気づいていたな。やはりさすがだわ!

で、私はオタクスイッチ入ると、関連するものを調べて、誰かに話はじめるので、面倒くさいと思います。
今回の餌食となった彼氏は、初日に私に呼び出されて、3時間ネタバレなしで一方的に話を聞かされていました。
また一緒に観劇した後は、初回は21時から26時まで解釈議論し、翌日の2回目の観劇の際はマチソワ間(1回目と2回目の公演の間のこと)も、前日と変わった部分による解釈を話し合い…と文章書いてたら、さすがに彼氏、振り回されすぎて可哀想だったな。。。(あくまでも他人事…笑)
と、私の観劇スキルが自然につくのは、周りに恵まれているおかげだと思います。
で、思ったのは、親ガチャって、その後の環境要因も影響しますよね。自己肯定感もそうだけどさ…。親ガチャからの環境要因設定も、球体の球体ではとても丁寧に描かれていますよね(…やばい、話の脱線が止まらなくなるから以下略)

3.「わからない」要素を使うと、こんな解釈の仕方もある

そんな個人的に50個以上ある解釈のうち、これだけは書いておくかを2つ厳選して書いておきます。ただ書きたいだけの話なので読み飛ばしてくださって全然OKです!

■監視カメラの内側の人の視点として観劇できるよね


ちなみに、私は、「①独裁国家である」「②鎖国状態である」「③監視カメラで監視されている」の要素と、時間の感覚も、自分は何者としてこの場にいるのかも分からない状況から、どうしても、客観的に舞台を見てしまいました。
中でも、監視カメラの映像を見ている視点で観劇してしまうことがあり、自分が怖かったですね。シアタートラムのF列以降って、ステージ全体が見えるので、俯瞰して見やすいですよ。
それが、監視カメラの映像を見ている気分になって、「日野グレイ二や岡上を私ならどうやって操作するか」とか、「2059年相島大統領ホログラムって、実は、本島じゃなくて(すでに本物は死んでいる)本島の影武者で操作している場合もあるよね。そんな傀儡国家で、私ならどうやって央楼国民をホログラムパフォーマンスで操るか」って視点で見ていたり…。
あー、自身の残虐性と向き合うような演出も池田さんやってんなーと。

■岡上ホログラムは徹底的に「淘汰される側」に回るグロテスクさ

逆にB~C列だと、「⑦ステージ上のものは本物として信じる(俳優の演じる演劇的嘘を観客が真実をして観劇する)という、観客と役者との暗黙の了解の崩壊」をありありと感じちゃうんですよね。
だって、ホログラムのはずの相島ホログラムの作ったシャボン玉が自分に当たったり、演者の熱量を直で感じているのに、「ホログラムです(本物ではなく映像です)」と相手に否定されるんですよ。
なので、自分のコントロールが効かない世界にいる感覚が強くなります。
そんな状態なのに、D列までは四方のカメラの内側にいます。(四方のカメラが自分の視界に入ります)だから、自分も監視されている気分になります。

その状態で、「⑤岡上が操作されていた(日本にいるときからと言っているが、具体的な操作内容やどこまでが操作できるか不明)を見るのが、自分はキツかったです。

特に前原さん、初回(9/19)のアフタートーク以降は、「操作されているとき」と「操作されていないとき」を意図的にわかりやすく演じ分けているように、私には見えました。…で、キツイ、操作されている姿がキツイ。
だから、本当に申し訳ないのですが、前方列にいるときほど、意図的に岡上ホログラムは視界に入れないようにしていました。

しかも、岡上さんだけ「大統領」と名乗れないことが辛いですよね。
「ないものねだりが備わりすぎていました、生まれながら(つまり遺伝)」と岡上自身が言っているように、誰よりも「何者かになりたい」ことと「認められて共感されたい」欲求がある
しかし、岡上さんはキュレーターとして「ずっとずっと本島さんに付いていきたいです!」と言っている。岡上自身が上下関係を勝手に作っているんですよ。
(私だったら、本島に「一緒に歩んでいきましょう」と言うな。だって、平等でいたいから)
あと、本島は「やっぱりアーティストよりキュレーターのほうがすごい人多いですよね」と岡上を認めているのに岡上がスルーしていたり…。
岡上さんって、「搾取されやすい(淘汰される側)」典型ですよね。現代の若者像で例えると、オンラインサロンで「夢」を人質に搾取されるタイプの若者に見える。もう、痛々しくて本当にキツイ…。(痛々しいと感じるほどに、前原さんの演技がうまいということですが)
あー、めっちゃ現代病理を切り取ってんなーと。

■解釈が「自由」だから遊べばいい


こんな風に、「解釈が自由」だから自由に考えることができるんですよね。今回は「座席から見えるの視点」って観点で2つ切り取っているけど、
例えば、自分の知っている歴史の知識と組み合わせてみたり、言葉から分析したり、心理学(気質と性格の違いとか)から説明できたり、遺伝の仕組みを医学の観点から見たりもできるわけで…。
「抽象度が高い」ということはいろんな観点から見ることができるので、楽しいです。気になった言葉を調べて、想像を膨らませる遊び楽しいんです!(だから、私は観劇オタクでいるんだと思います)
こんな風に、あなたの感じたことを、自由に解釈して、遊んでいい作品だと私は思います。

4.ラストの2060年をどう見るか~トラムに足を踏み入れてから出ていくまで②~

■再度登場「私は一体、何者だ?」


さて、本筋に戻ります。
ここまで、たっぷりと時間の感覚も、自分は何者としてこの場にいるのかも分からない状況であり、①~⑦の要素が入ることで、徹底的に「信頼ならない語り手であり、目に見えない人物が操作している。だから、すべてが本当かもしれないし、違うかもしれない」という演出がなされています。
そんな中で、2060年にいきなり時が移ります。ヒロシ(小栗さんの役)がホログラムを止めるのです。

(明確な年代を言っているわけでないのですが、クニヤス(新原さんの役)が「2034年生まれ、今年で26」と言っているのと、パンフレットから判断)

さて、ここでもう一度、「私は一体何者ですか?」問題を確認していきましょう。役割変遷です。

「観客」→「美術館の来館者」→「2059年の央楼国民」‐(ここでたっぷりと信頼できない語り手による、信頼ならない出来事を見せられる)‐→「2060年の‥‥え?誰?」

ここで、観客に戻ってもいいですし、自分探しを続けてもいい(私は、毎公演、「何で一方的にアイデンティティを奪われているのに、再度アイデンティティを探さないといけないのだよ」と心の中でツッコんでしました笑)

私は、「ここまでさんざん混乱させられて、普段のように観客目線なんていまさら無理ですけど?」と思い、観客には戻らずに「自分探し(クニヤスの言う「自分の存在意義に悩んじゃって」ですね)を続けている系人間」です。
ちなみに、ラストの場面は後半に行われたセリフの変更について注目されがちですが、実は地味にセリフが変わっているときがあります。例えば「侵略されている国」と「侵略されそうな国」と言うときがあったり…。だから、毎回、感じ方や感想が変わるのさ!

自分探しをしていると、「自分(観劇している人)の存在意義はマジでわからない」になります。私は一体何者としてこの場にいるんですか?と。

【私を何者とするか、考えられるもの】
・「2060年の央楼国民で美術館に遊びに来た人?」 
 ∟え?でもここは侵略され始めた、やばい場所だよね。学芸員(モドキ)はヒロシしかいないとか言ってるけど、遊べるか?つか、私が侵略国側なら真っ先に学芸員殺すけど、なんで生き延びられたんだい?
・「侵略したor侵略しようとしている国の人?」
 ∟公演ごとにセリフ変わっているので、「侵略されているのか」「侵略されていないのか」が最後まで分からなかったなぁ…。
・「監視カメラ側の操作している人間?」
∟この時は監視カメラの点滅消えてるんですが、2060年はカメラじゃない監視や操作方法ありそうですよね。
それに、クニヤスとヒロシをホログラムと想像することもできる。
また、新権力者が国民への思想統一のために、クニヤスとヒロシを傀儡していると想像することも出来るんですよ。
と、いろいろなパターンが考えられます。

もっと言うと、登場人物は2人(クニヤスとヒロシ)。
「私とあなたの閉じた世界」になるのです(だって、第3者がいないから、客観性が排除されているので)
そのため、どちらかが嘘を言う「信頼ならない語り手」であれば、今見えている演劇的嘘の世界は崩壊します。
(私はヒロシの「学芸員のフリして生き延びた」発言で、ヒロシは「信頼できない語り手要因」と判定しています。国を壊すには文化を壊すのが手っ取り早いので、本来は真っ先に殺されるはずだぞ、学芸員)

さあ、私が何が言いたいか、想像できた方、勘がいいですね!
「私たち(観客)が徹底的に、自分が何者かを剥奪される作品。だから、わからないし不穏さを感じる作品」の不気味さがMAXになってやがるーーーー!!!!とツッコミを入れたくなります。

特に、最後の場面は、「抽象的なセリフ」「抽象的な動きと演出」度がMAXなんですよね。
だから、どの言葉を信じてもいいと思いますし、信じなくてもいいと思います。
だから、ラストの場面は「決めずでいいんじゃない 世界は決まっていないんだから」を明確に打ち出しているんですよね。

■セリフから分析する「決めずでいいじゃないか」

①「決めずでいいじゃないか」について
気づいてました?結構、ヒロシのセリフって「主観と客観」を分けていなかったり、背景を説明してくれていなかったりしていました。
(それに、この人「信頼できない語り手要因」だし)

・「今日でこれ終わらせるよ。結局これ、人を不幸にしちゃったから。あなたの父親の作品に申し訳ないけど」
  →「人」って誰を指してますか?もしかして、岡上ジュニアのみ?
・「どんなに認めてくれる親がいたとしても、競争はあるから。生き物である限り。淘汰されちゃう」
 →これ、「暗殺の答え」として受け取りやすいけど、ヒロシの「主観」なんですよね。本当に育ての親が認めてくれていたかは分からないし、SNSの発言が本当かの根拠はないんですよね。だから、岡上ジュニアが本島を暗殺した理由の答えにはなっていない、ただのヒロシの考えだと私は思います。
・「央楼はもう終わりだよ。他の国が強くなりすぎた」
→なんで?背景は何?
ま、これは仮説が立てられます。
央楼はレアメタル(スマホとかで使うのに必要な資源)が国の産業を支えていた。2060年までには産業革命が起こっていて別の資源が主流になる。そのため、国が衰退する。これが自然な流れだよな~と。
(レアメタルだけでは国が生き残れない根拠もある。
ホログラムパフォーマンスで相島ホログラムが「2024年~、スマートフォン、略してスマホという通信機器に夢中になっていました。今じゃ考えられません」って言っています。
だから、レアメタルだけじゃ国は発展していかないと考えるのが自然)
逆に、独裁国家のままで35年間、国を存続させて「この国は変わりました」と相島大統領ホログラムは言っている。
つまり本島ってかなりのやり手です。
「描かれてはいない35年間は、本島はカリスマ性のある大統領であった」ことが、今の結果からわかる構造(ストーリー)になっているんですよね。

こういった要素を取り入れていくと、「本島幸司は幸せだったんじゃない?」と、考えられなくはないんですよね。
だって、本島の言ったこと・決めたこと、全部叶えているんです。
・「人生ごと作品にします」 → 叶った
(自分の生み出した作品で、しかも支援者の子供に殺されるなんて、…なんてドラマチックな人生!夭逝の天才アーティストとして名を馳せられそうじゃないっすか!これほど、「人生ごと作品にして終わりたい」側のアーティストとして幸せなことはないと私は思います)
・日野グレイ二「兄弟たちが生きられたかもしれない世界にして、僕無理だけど」に本島は承諾。2人の約束
→果たせた
(ヒロシは、央楼国で生まれ育ち、別の国に逃げたくないと思えるほどの愛着が持てる国になっているわけですから)
・「産めなかったものを生み出すこと、生まれなかったものを生み出すこと、それが私の作品であり、私です」
→その通りだった
(少なくとも、クニヤスはそう)

とは言え、「本島が幸せだったか」問題はわかりません。ホログラムではない本体は登場していない「らしい」ので。
(これも、信頼ならない語り手たちが言っているので、本当かはわからないけど、少なくとも演出上はないと言い切れる)
全公演を通し、ラストでちゃんとわかることは「クニヤスは悲しかった」ってことだけです。(まさに「親の心、子知らず。子の心、親知らず」)
本島の人生を(もっと言うと、クニヤスの人生を)「決められない」のですよ。そして、そのことを、この作品は全肯定しているのですよ。

■作品を通して分析する「世界は決まってないんだから」


②「世界は決まっていないんだから」
作品を通して、ずっと「世界が決まっていない」演出を一貫しています。
ここについては、これまで10,000字かけて、作品の曖昧さと観劇している人の自己のアイデンティティをはく奪される。それにより、舞台で起きていることが「決められない」現象をたっぷりと行われていることを書いてきました。
(まあ、「現代アーティスト 本島幸司の半生」を描いた舞台なので、「現代」って切り口で考えると、【世界は決まってないんだから】の「世界」を「VUCA時代の比喩」と解釈できることもできます。ただ、これ書くとさらに長くなるので省略)

だから、95分、私たちは「決めずでいいんじゃない 世界は決まっていないのだから」の詩を体現された作品を鑑賞する時間だったわけですよ。
だから、私は個人的にめちゃくちゃ「わかりやすい」と思った作品でした。

5.曖昧な「球体の球体の世界」に居ること~トラムに足を踏み入れてから出ていくまで③~

日常生活で、私たちは無意識に役割を演じています。学生だったり、社会人だったり、母だったり…。そういった「演じている役割」を95分間、徹底的にはく奪されているんです。
だから、ぶっちゃけ、「曖昧な世界」に95分間居すぎて、私は何者かわからないまま過ごします。そして、「観客」に戻れないままカーテンコールを迎えます。

「球体の球体の世界」からいつ戻ってこれたのだろう?とわからないまま、カテコを迎えるので、自分でもびっくりするほど、「無表情」で拍手している自分がいます。(球体観劇していると、だんだんと自分の顔から表情が消えていくのが分かるんです…。怖い)
そこで、気づかされるんですよね。「あ…、私はいつも無意識で観客を演じていたんだ…」と。
(だから、毎度無表情で拍手して、演者の皆さんごめんなさいって思っていました。面白くなかったわけではなく、「戻ってこれていない」だけです)

だから、本当に千秋楽で新原くん(あえて役名ではなく本名)がガチャのカプセルを閉めてくれて、私は救われたんです。
「球体の球体」が終わって、球体のカプセルの世界から戻ってこれた気持ちになりました。それで、ようやく心から安心して自分のままでカテコの拍手できました!

6.最後に言いたいこと

そこで、もう一度言います。
この作品は抽象度が高く、人それぞれの解釈があっていい。
「わからない」でもいい。それが正解な作品
なんだと思いますし、そういう意図が節々から読み解けます。
だから、「あなたが受け取ったこと」それが正解! 
そういう、一見「冷たい」ようで、すべてを受け入れる「優しい作品」ですよね。

以上、観劇オタクの観点から、「曖昧さ」の中にある、「確かなこと」を言語化して、みました。
【「わからない」とか「わかる」とか「解釈」とか、そういうの関係なくなるくらいに混ざり合ったらいいな。ガチャガチャで、持って帰ってほしいな】(本島のセリフを一部引用のうえ変更)と思って、書きました。
このNoteが「球体の球体」を観て、なんか消化しきれないと思ったことの、消化材料になったり、新たな気づきのきっかけになれれば幸いです。

あなたの観劇体験が、今後の人生の彩になりますように…!

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