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さようならコロナ病棟7日目
今日は看護師がチャにハズレたのにもうすぐ退院が迫っているせいか少しだけ対応が良くなった気がする。
まぁこちらも苦情や困り事を一切話さなくなったしなんか一人でなんでもできて手がかからない楽なお客さんみたいなイメージなのだろう。
そんなことは無いが?
朝イチで洗濯物を回して龍馬マラソンの歓声を聴きながら洗濯物を干し、その後はいつものようににマスク、手洗い、環境を徹底。
水分も無駄に摂りつつ、R-1というこれ以上ない援軍を迎えてコツコツと退院に備えている。
帰ったらやることはたくさんある。まず掃除。それが終わったら保険の手続き他。
でも少し自分の部屋でごろごろしたいものだと思う。でも自分の部屋だとしても家に帰ってきた感は無いと思う。
沖縄でDVシェルターに保護されて南に引っ越して母が直腸癌で亡くなって高知に来て初めて一人暮らしをして。
朝起きた時。
見知らぬ天井に慣れてしまっているのか時々、発作のようにここはどこだ。
そうだ逃げてきてそして此処は?今は?を繰り返すことがある。
帰りたい場所。
まるで桃源郷のような響きだ。
わたしの生まれた、故郷と呼ぶには余り良い思い出のないあの島に帰りたいか移住したいかを問われると答えは迷わずノーである。
帰りたく無い。
亡き母も事あるごとに口にしていた。
ふるさとは 遠きにありて 思ふもの
そして悲しく うたふもの
よしやうらぶれて 異土の乞食と なるとても
帰るところに あるまじや
室生犀星の有名な詩の一節である。
そして母本当にその通り高知には生きて帰ることはなかった。
両親が本土出身のため小さい頃からないちゃーといじめられて目をつけられてきたし、沖縄の食べ物は母同様に合わなかった。
時々雨上がりの匂いに懐かしくはなるがただそれだけ。
唯一良い思い出は母の闘病生活の間に入った定時制夜間高校だった。
色んな人が色んな年齢でいろんな理由でチャンプルーで。
みんなプライバシーやセンシティブな問題に対して自然と距離の取り方が巧かった。
とても楽だった。楽しかった。
だから最後母の死でやむなく高知に行くことを夜の学校で担任の先生と、三線を教えてくれた音楽の先生に話した時。
普段本当に人前で泣くことを知らなかった私は今の自分でも信じられないが両手で顔を覆ってわんわん泣いてしまったのだ。
この学校が好きだった。
大好きだった。
夜の体育も。テストで頑張って満点取った時より一点ミスって私より先生が悔しがっている姿がとても嬉しかった。高校を受験する時に両手で私の手をぎゅっと包み込んで祈ってくれて、病気を抱えながらギリギリまで迎えにきてくれた母のこと。いつ急変の電話が来るかわからないその不安の中で音楽の授業で歌った花は咲く。
どれを切り取ってもゴッホの絵のように熱くうねる。
触れると散ってしまうソメイヨシノの様に尊かった。
そこから高知に来て何かの拍子に起きた時、起きる前の音、気配、お布団やカーテンの衣擦れ。それらがわたしの魂を揺らがせる。
母がまだ私の隣で寝起きしている様な、そんな感覚が微睡の中で声を上げる。
その度に起きた時、此処はどこだと同時にああ此処は別の土地でわたしはあれから歳をとり働いて一人暮らししてって。
生きているのがすこし
すこし億劫になる。
誰かと暮らすのは大変だ。
たとえ家族であっても喧嘩はするしいつも仲良くはいられない。
それでも。
巡る季節のふとした隙を突くようにそれらの気配はやって来て、私の時計のねじを弄る。
ひとりが楽だとわかっていても、時々本当の誰かの気配が隣に居たらと願ってしまう。
今日もまた歳をとる。
退院まであと6日。
読んでくれてありがとうね。
がんばります。