見出し画像

【がん患者の徒然草】老舗のそば屋でえびす様と遭遇

  そのえびす様は、
手酌で日本酒を旨そうに呑んでいた。

 そば屋の一合徳利は、白無地で小さく見える。お猪口も小さめだ。男性の手では、隠れてしまいそうだ。容量は、恐らく50ミリリットル程度だろう。えびす様は、日本酒をひとくち呑むと目をつむって最高の笑顔になる。顔を左右に振らして幸せそうな笑顔だ。
 えびす様は日本酒をゴクンと呑み込むと、不自由な右手で上手に卵焼きをつまんで口にほおばる。これまた目をつむり、最高の笑顔で顔を左右に振る。

 今日は、がん治療後の定期検診日だ。病院の帰り道は、いつも神田近辺を女房とふたりで散策する。小腹も空いたので「そばでも食べよう」とどちらともなく言い出すと「神田まつや」の看板が眼に入る。

 創業は、明治17年。約140年の老舗そば屋だ。迷うことなくのれんをくぐることにした。趣のあるのれんを分け入り、ガラス戸をガラガラと引くとタイムスリップしたような空間が広がる。

 壁には、達筆で書かれたメニューが並ぶ。テーブルは、黒系で落ち着いた感じがする。角の部分は塗装が少しはげているが、これがまた老舗らしくて、私は大変気に入った。

椅子は、そば屋で定番の縄張りでできた椅子である。

 人から聞いた話しだが、そば屋などのお店は、回転率を求めるために座り心地の悪い椅子にしているらしい。

だから、
・背もたれが無い。
・座面が小さい。
・座面が平面。
三拍子揃った椅子である。私の妄想だが、このような空間が140年前にもあったのかと思うとワクワクしてきた。

 ベテランの店員が「ことらへどうぞ」と笑顔で迎えてくれる。安心してテーブルに向かう。老舗のテーブルは、古いが綺麗に拭かれている。  

 シンプルな文字だけのメニューがテーブルに置かれている。店員がお水を持ってくる。コップは、昭和のビールコップである。酒屋が配達時に持ってきてくれる中程度のサイズでどこにでもあるコップだ。コップは曇りも無く、綺麗に洗ってあってあるのが分かる。

残念ながらおしぼりは無い。

 店員は「ご注文は、お決まりですか?」とはすぐには聞かない。私達が注文をするまで待っていてくれる。最近あるようなタブレット注文でも無いし、早く注文してください。と言った雰囲気も無い。

 私は、盛りそばにノンアルコールビールと決めている。

 女房は、周りのお客様が食べている様子をうかがいながらメニューを楽しそうに見ている。

 私は、先程のえびす様のテーブルと向かい合って座っている。えびす様の笑顔に癒やされながら、えびす様の笑顔と女房の楽しそうな顔が重なる。女房がえびす様に見えたとは言わないが。

 中咽頭がんを患って某大学病院でがん治療を始めてから約1年半が過ぎた。治療の副作用が続くものの、早期発見、早期治療ができて、何とか生きられている。

 神田の老舗そば屋でささやかな幸せを感じられるのは、病になってから、私の人生観が変わったのだと思う。

 他の老舗そば屋には、グルメ雑誌やアプリ等を利用して、何度か行っている。しかし、その時は、えびす様にも出会えなかった。注文を決めるのが遅い女房にもイライラしていた。先に出されたお水をさっさと飲んでしまい、早くおかわりを持ってきてくれないかと店員を見渡してそわそわしていた。

 私は、何かに感動すると「○○に感動して人生が変わったよ」とよく周りの人に言っていた。しかし、正直に言えば、感動では、なかなか人生は変わらなかった。

 でも1年半前に中咽頭がんという病になり「死」を意識したことで、初めて人生観が本当に変わったのだ。

老舗のそば屋で同じ様な風景なのだが、私の気持ちは、180度変わっていた。

 「自分が変われば世界が変わる」とよく言われている。とは言ってもそう簡単に自分は変われるものではない。

 でも私は病を機に「死」を強く意識したおかげで人生観が変わった。

 これも家族と治療していただいた主治医、通院や入院中にお世話になった看護師さん達のおかげだと心から感謝している。

 私は、お世話になったエピソードをエッセイにして公開することで感謝の意を表したいと思っている。

 向い側に座っている高齢の男性がえびす様に見えるのは、私の人生観が変わったからだと思う。そうでなければ、「目の前にニヤニヤと笑う変なおやじがいる」と思ったことだろう。

 もしかしたら、私がえびす様のような笑顔になれる日も近いかもしれない。そう思えるだけで家族や主治医や看護師さん達に心から感謝している。

 ありがとう看護師さん!

 このエッセイは、自分への励ましの意味でも綴っている。がんになって、死への不安や治療の副作用の辛さに負けないように・・・

いいなと思ったら応援しよう!

Learner Oshima【みっちゃん】
がんになってから、「お布施をすると気持ちが変わる」ことに気がつきました。現在「認定NPO法人全国こども食堂支援センター・むすびえ」に毎月定額寄付をしています。いただいたサポートは、この寄付に充当させて頂きます。サポートよろしくお願い致します。