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東京都村民生活〜三宅島〜(1)
竹芝桟橋
午後10時30分、竹芝桟橋から東海汽船の「すとれちあ丸」の甲板で見送りの嫁さん、同僚・友人に手を振った。
20数年前の3月末のことである。
その年の1月、校長室から内線があり、休み時間になったら来てくれという話だった。
当時小学校の担任をしていた私は何か悪いことをしたのか、と首を捻りながら校長室をノックした。
勤務していた学校で10年、管理職試験に合格した時でもあった。
校長はちょっと困ったような顔をして「来年度の異動先だが、教育委員から三宅島という連絡がきた」と告げられた。
「三宅島?」
「あの伊豆七島のですか⁇」
思いもよらない異動先に一瞬思考が止まったが、すぐに脳をフル回転して答えた。
「わかりました。行きます。」
校長はあまりの即答に、
「少し考えてもいいんだぞ。家庭の事情もあるし、拒否する人もいるから」と。
私は東京生まれの東京育ち。小学校から大学まで山手線の内側、中央線の南側で過ごしたシティボーイ(?)
歩いて麻布十番に行き、繁華街といったら渋谷である。
島の生活を経験することなどなかなかないから、これも人生を豊かにしてくれる機会かと思った。
その場で電話を借りて、嫁さんに電話をかける。
「今、校長から異動の話を聞いて、
来年度は三宅島だとか。行ってもいいかなぁ。」
電話の向こうで「あっ、そうなんだ。単身赴任ね!」と一言
私は「あぁ、うん」
私も一緒に島で生活するの?という返事があるかとほんの少し期待したところもあったが、そんな期待をした私が甘かった。
考えてみれば、長男は中2で来年は受験。長女は今の家に転居して友達ができ、学校生活が楽しくなったところ。
嫁さんはネオンのないところには住めない、とずっと前から言っていたし。
電話を切ると、聞き耳をたてていた校長がにゃっと笑い、三宅島行きが決まった。
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竹芝桟橋、東海汽船の窓口で「三宅島行き 特2等」のチケット1枚を購入。伊豆七島に行くのは人生で初めて。ボストンバックにノートパソコンを持って嫁さんと待合場所で乗船時間がくるのを待つ。
島での新たな生活に期待をしつつ、シティーボーイの私は多少の不安を感じながら、若干緊急して椅子に座っていた。
乗船時間が近づいてきた時、職場の同僚や友人が何人も見送りに来てくれた。
島の生活を経験したことのある同僚からは島への就任と島からの離任は特別なことだと、夜も遅いのに竹芝桟橋まで来てくれたのである。
ありがたいことである。
夜10時過ぎに乗船時間になり3700トンの「すとれちあ丸」に乗り込む。この船は乗客だけでなく、島の生活を支えている貨客船である。様々な物資を運び、私の島での足とるマイカーも運こぶはずである。
特2等は10人ほどの中部屋でマットと枕が置いてあった。誰と一緒に一夜を過ごすのか、と思いながらチケットの指定場所に荷物を置き、すぐに甲板に登った。
甲板から岸壁を見下ろすと嫁さんと同僚や友人の一団をすぐに見つけることができた。
『あ〜、すごい』
島経験者の同僚が手作りしてくれた横断幕を大きく広げてみんなで持っているではないか。
思いがけないサプライズ!
「いってらっしゃい‼︎」というメッセージが目に焼きつく。
船は出航のドラの合図とともにゆっくりと離岸した。
レインボーブリッジに船首を向け東京湾の中へと向かって行く。
真下の海を見ると、水面は暗く、護岸からの光でスクリューの細波が白く寂しげに見えてくる。
顔を上げると嫁さんと同僚たちはいつまでも手を振って私を見送ってくれている。
早春のまだ肌寒い風が吹く夜中であるのに。
島への赴任は特別なことなんだと実感し、じわっと熱いものが込み上げてきた。
本当にありがたい。
後で嫁さんに話を聞くと船が遠くに離れて行くまで、みんながずっと手を振ってくれてたらしい。
私は寒いし、早く帰りたいのになかなか帰れなかったと・・・
こうして三宅島での生活が始まる。
続く