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東京都村民生活〜三宅島〜(14)

2000年三宅島雄山噴火②

2000年6月三宅島雄山の噴火活動が始まった。
長野県への宿泊体験活動で上京した6年生たちは竹芝桟橋近くの島嶼会館に足止めされ、島内の児童生徒は島の北部に避難し、今までの生活が一変したのである。

避難解除から帰島へ

三宅島雄山の緊急火山情報の発表があり海底噴火の形跡が確認されて、長野県への宿泊体験活動へ向かうはずだった子どもたちは島嶼会館に連泊することになった。
三宅島では雄山の山頂・山腹からの噴火は確認されてはいないが、火山性の小さな地震は続いていた。

宿泊体験学習への子どもたちは予定していたプログラムが全てキャンセルになったが、さまざまなところから支援の声をかけてもらうようになった。

夕方のテレビニュースではお台場のスタジオに呼ばれて、生出演することになった。
当時も人気の女性Aキャスターにインタビューされたり、島との中継で家族と話ができた子もいた。

また次の日には後楽園遊園地に招待されて1日遊ぶことができた。
一時的にではあるが、遊園地でのびのびと体と心を開放することができ、私たちも子どもたちの笑顔を久しぶりに見ることがでた。

さらに帝国劇場にも招待されて、思いもよらない本格的なミュージカルの公演を観ることができたのである。

帰島するまでの間、長野県での宿泊体験学習はできなかったが、多くの方々の支援で想像していなかった学習の機会を得られた。

6月27日の海底噴火の後は雄山山頂や山腹での噴火は認められず、今回の噴火活動は終息に向かってるのではないか、と思われた。

避難所生活

その頃、三宅島では三宅小学校、三宅中学校が避難所になり、1800人以上が集まっていた。
私は上京していたので、避難所での生活は帰島した後同僚から聞いた話である。

各校では校長室、職員室、保健室などを除いて体育館、教室等を開放して島民を受け入れた。
校庭には白線を引いて避難してきた自家用車を整理し、勝手に駐車しないよう配慮したという。
全島民の半分以上が2校に集まると十分なスペースは確保できず、車の中で寝泊まりする人も少なくなかったそうである。

避難2日目の午後には海上保安庁の船で支援物資が届くようになった。

避難してきた人々はほとんどが顔見知りで協力し合う素地は元々あり、互いを気遣いながら過ごした。
全島での避難指示が出たままではあったが噴火活動は小康状態になったため、避難所でも子どもたちの学習を再開できないかと模索したという。
実際には授業をすることはなかったが、小中学生・高校生はそれぞれの役割を踏まえ避難所生活に貢献した。

小学校低学年は朝になると高齢者の元に行き「おはようございます。元気ですか⁈」と声をかける。
孫のような子どもたちに挨拶されるとみんな自然と笑顔になった。
小学校高学年や中学校下学年は避難所の清掃を担い、他の中学生や高校生は避難所に届く支援物資を運ぶ力仕事を大人と一緒に積極的におこなったという。

こうして島内での避難所生活が行われていたが6月29日の夜、雄山の噴火の危険性が低下したということで、全島で避難解除となった。

三宅島へ帰島

私たちは避難解除を受け、30日の夜の東海汽船の定期船で三宅島へ帰島することとなった。
この頃になると子どもたちは噴火の心配も和らぎ、家族に会える安心感でいつもの明るさを取り戻していた。
東京湾を南下する船中での子どもたちはよく眠れていたように思えた。

翌朝、船は5時30分定時に錆が浜港に接岸した。
ほとんどの保護者が港まで迎えに来ていて、解散後は多くの子どもたちが「お母さん!」と言って親元に小走で抱きつき、再会を喜びあっていた。
お父さんは、ウンウンと子どもの肩をたたいていた・・・

学校再開

7月3日に学校を再開することが決まった。
まるまる1週間ぶりとなる。

避難所となった三宅小学校と三宅中学校は避難解除となったり、人々が学校を去った。
その時には掃除がいらないほど綺麗で整頓されていたという。

教室の黒板には「先生方、そして児童生徒のみなさんへ、お世話になりました。教室を使わせてもらってありがとう」という島民のメッセージが書かれていたそうである。

朝、6時過ぎ、私も6日ぶりに職員住宅に戻ってきた。

ところが、それまで気がつかなかったが居間で落ち着いていると、ガタガタっと部屋が揺れる。
島では今だに小さな地震が続いていたのである。

避難解除になって火山活動も治ったのかと思っていたが、結構の頻度で部屋が揺れる。
震度1以下から震度1強ほどの地震であるが、火山性地震や群発地震を経験したことのない私にとっては、かなり不安であった。
『この状態で大丈夫なの?
 まずいんじゃないの⁇』と一人でつぶやいていた。

7月3日、学校が再開した。
小さな地震は続いていたものの、帰島して2日もすると地震からの不安はだいぶ小さくなっていた。

本来ならプールの授業をやっている季節であるが、さすがにプールの準備はできなかった。
それでも子どもたちはいつものように教室で学習に取り組み、学校での生活は落ち着きを取り戻しつつあった。


ところが学校再開から5日後、
7月8日に雄山で小規模噴火があり山頂が崩落したのである。

三宅島の雄山の噴火は終息せず第二のフェーズに突入することになった。


続く


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