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東京都村民生活〜三宅島〜(16)
2000年三宅島雄山噴火④
2000年8月18日、噴火活動が始まって以来の最大の噴火が起こった。
14.000mまで上がって巨大な噴煙の映像は全世界に配信されていた。
私は成田空港に着いたその日の夜の船便で三宅島に向かった。
灰色の世界
三宅島錆が浜港の桟橋に降り立つとそこは一面灰色の世界だった。
港のある阿古地区は島の南西部に位置し、西風が吹く割合が高いため多少の火山灰が降っても阿古地区はほとんど影響がなかった。
しかし、8月18日の大噴火は全島に降灰をもたらした。
都道212号線を車が走ると火山灰を巻き上げいく。
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(三宅島観光協会より)
その中を港から住宅まで歩いて行った。
そして目にしたのは住宅の前に停めてあった軽バンに10cm以上も灰が積もっている光景である。
『雪ならまだしも灰では・・・
解けて無くなることはないよな』
と思った。
玄関ドアを開けて住宅の中に入る。
特段変わったことはない・・・
いや、何となく白っぽい。
床を指で払ってみるとやはり火山灰である。
床全面にうっすらと積もっている。
ドアも窓もきちっと閉まっていたが、換気扇などのわずかな隙間から入り込んだのだろう。
白い部屋では座ることも寝ることもできず、まずは雑巾掛けである。
30分ほどかけて2Kの床、畳、家電、台所、トイレなどを拭き上げた。
やっと一息ついた。
さあ、次は火山灰の中からマイカーを救出だ。
住宅の共同倉庫から箒とスコップを借りて、車の屋根から灰を落とし、駐車スペースから道路までの火山灰を除雪ならぬ除灰した。
フロントガラスやミラー、ワイパーなどをきれいに拭いてやっと車を動かせるまでになった。
ここまで車に40分以上を費やした。
車を運転して学校まで行ってが、火山灰が積もった道路を走るのは初めてである。
わずか5分の道のりではあるが慎重に走った。
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学校の正門周りは土嚢袋が積まれている。
役所から配られた土嚢袋に火山灰を入れたものであり、大噴火の後で教職員が正門周りをきれいにてくれていたのである。
膨大な量の火山灰を全て人の手で片付けるのは難しい。
主要なところは火山灰を土嚢詰めにして除灰するが、多くの所では自然の風と雨に任せることになる。
しかし、雨が降って火山灰が水を含むとツルツルの状態になる。
泥パックのあの感触である。
歩くのも車で走るのも細心の注意を払った。
噴石
火山性地震は続いていた。
そして以前よりさらに強くなっていた。
私が島を離れている間に震度6弱を記録する地震が起こっていたのである。
職員室からは雄山山頂からの噴煙が確認でき、その量も多くなっているのがわかった。
さらに目を引いたのは、山頂に向かう道路の壁面が削り落ちていて、茶色の地肌が剥き出しになっていた。
震度6弱の地震の強さを再認識した瞬間である。
校庭に目をやるとうっすら積もった火山灰の上に小さな石がいくつか落ちているのがわかる。
噴石である。
山頂からの距離はおよそ4km。
ここまで飛んできたとは!
幸いなことに噴石による人的被害はなかったというが、山腹の牧場では多くの牛が被害を受けていた。
駐車していた車のガラスが何台か割れたという話を同僚から聞いた。
うねる大地
住宅に帰り、一人になると頻発する地震の様相が変わっていることに気がついた。
以前は少し離れたところで地震が起きていると感じていたが、もはや震源は自分の真下であると思った。
ある地震ではではムクッと縦揺れがあり、それで終わる。
小さな地震であるが横揺れがない。
何となく気持ちが悪い。
またある地震では寝ていた足元が揺れて、その揺れが頭の方に伝播する、そんな感触を覚えた。
正に自分の真下でマグマが動いている、そう感じる地震である。
常に地震がある。
地面が揺れている。
地表は柔らかい。
大地がうねっている!
私たちが立っている大地は思っていたよりずっと柔らかいのである。
住居内避難
住宅は鉄筋コンクリートの2階建。私の部屋は1階で裏庭につながるが、その先10mもすると裏山である。
もしかしたら地震で山肌が崩れるのでは、と心配になった。
住宅に玄関の他、台所に裏口がある。
何かあれば裏口から逃げられるよう和室から台所の板の間に布団を移動させた。
以後、布団を敷く場所はその台所の板の間となった。
小さな住居内避難である。
8月29日低温火砕流と島外避難指示
8月29日の未明、大きな爆発音とガタガタっと空気が震えて窓ガラスが揺れた。
私は布団の中で『大きな噴火!』とすぐにわかった。
玄関を飛び出し、雄山山頂を見た。
そこからさらにゆっくりと首を真上に向けていく。
目に入ったのは黒と灰色が混じったモクモクとした噴煙である。
「お〜っ、でかい噴火だ!」
思わず声をあげた。
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6時過ぎには職員室に着いた。
ほぼ同時に校長、教頭が駆けつけてきた。
同僚たちも次々と職員室にら集まってきた。
職員室のテレビをつけて情報収集に努める。
校長から教職員へ話があった。
「児童生徒の島外避難を東京都と村役場、教育委員会、校長会で検討している。都の受け入れ態勢を踏まえて、8月末日か9月初めに決まった。子どもたちの所在把握を再度正確に行なってほしい。」という内容だった。
いよいよ島外避難が現実味を帯びてきた。
その噴火により島北部に低温火砕流が駆け降りた、という情報が入ってきた。
その先端は集落を飲み込み海まで達したが、温度が低かったために被害はなかった。
これは奇跡的である。
雲仙普賢岳の山麓やイタリア・ポンペイ遺跡などのように火砕流に覆われると壊滅的な被害を出すのだ。
当時のM指導主事の手記によると、この火砕流発生の情報を受けて、午前中から教育長室で会議が開かれた。
「島外避難を前倒しにして、今日子どもたちを逃がそう」
ということが急遽決まったという。
午後12時15分に会議が終わり、12時半には児童生徒の校外避難させるという島内放送が流された。
午後の定期船に島内に残る全児童生徒が乗るのである。
もはや時間は2時間半しかない。
教員は手分けして、島内に残っている子どもたちに電話で確認し、巡回してくる村営バスに必ず乗るようにと伝えた。
三宅島全児童生徒の島外避難まで、すでに2時半を切った‼︎
続く
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