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ファッションの源流を紐解く、あのカルチャーの発火点。 Vol.3 チルデンとフィッツジェラルドのアメリカ

毎回ひとつの服を取り上げて、古今東西の社会やカルチャーとどんな風に関わってきたのかを紐解くこの連載。3回目となる今回は、カラフルなライン使いが洒脱な“チルデンセーター”について!


Vネックの襟や裾のラインが特徴的なチルデンセーター。アイビーやプレッピーのイメージが強いアイテムで、数年に一度、思い出したように注目される不思議な服でもある。スポーティで爽やかな反面、ちょっとお坊ちゃんぽいところが気になりがち。カラフルなラインをどう生かすかがポイントで、上手に着こなせばとてもお洒落。とはいえ、大人にとってはなかなか難しい部類の服といえるかもしれない。

チルデンセーターという呼称は、1920〜30年代に活躍したアメリカのテニス選手、ウィリアム(ビル)・チルデンにちなんだもの。19世紀からあったクリケット用のセーターをテニス用に転用し、やや裾丈を短くしたものである。チルデンがあまりにも強く(全米オープンで歴代1位タイの優勝7回)、かつ人気者だったため、彼が着ていたセーターにその名が冠された。最近ではスポーツセーター、テニスセーターと呼ばれることも増えているが、まあ実際にテニスの場面で着ることはないだろう。

ビル・チルデンの少々複雑な事情

このビル・チルデン、一体どんな人物だったのか。彼はペンシルヴェニア州フィラデルフィアの出身で、父親は羊毛を扱う実業家・政治家、母親はピアニストという裕福な上流家庭で育った。だが18歳で母親を、22歳で父親と兄を亡くしてしまう。失意のどん底に落ちたチルデンだったが、5歳からやっていたテニスに打ち込むことで自分を取り戻す。ペンシルヴェニア大学を中退し、その後は数々の大会で優勝を重ねるレジェンド選手となる。188cmの長身であり、そこから繰り出す弾丸サーブが武器。ちなみにジョコビッチと同じ身長だ。

Bill Tilden[ビル・チルデン]

これだけを聞くと“悲劇を乗り越えたエリート”という感想にしかならないが、じつはもう少し複雑な“続き”がある。彼はめちゃくちゃな浪費家だった。ニューヨークの高級ホテルのスイートルームに住み、ブロードウェイのミュージカルを自らプロデュースし、セレブたちと派手に遊び……とやっているうちに、あっという間に実家の資産やテニスで稼いだ大金が底をついてしまった。若き日の不幸がそうさせたのか、そのあたりはわからない。

さらに53歳のとき、14歳の少年とクルマの中でいちゃついているところを現行犯逮捕。しばらく刑務所に入り、出所後は保護観察下に置かれたため、主な収入源であるテニスの個人レッスンすらできない状態になってしまう。1953年、心臓発作で死去。60歳だった。そのかたわらには、賞金の出る全米プロテニス選手権に出場するための旅券があったという。

“ギャツビー”で描かれたリアル

チルデンの人生を振り返って真っ先に思い浮かぶのが、小説『グレート・ギャツビー』である。狂騒の’20年代を舞台に、謎の資産家ジェイ・ギャツビーの生き様を皮肉と称賛の入り混じった視線で描いた傑作だ。物語の語り手となるニック、派手で奇矯な振る舞いをするギャツビーともに、著者であるF・スコット・フィッツジェラルド自身を少しずつ投影しているといわれる。そこで描かれる時代の空気感が、どこかチルデンと重なって見えるのだ。

ある純粋な想いを胸に秘めながら、享楽的な暮らしを送るギャツビー。ちょっとした誤解から孤独な死を迎え、後に残ったのは無慈悲で厳然とした上流階級の流儀だった。この作品が描き出すゾッとするようなリアリティは、貧富の差が拡大する現代においても十分に通用すると思う。既得権益をもつ者の強さと狡猾さ、そこに挑む者の眩いばかりの輝きと滑稽さ。すぐに理解できない部分も多い作品なので、時間に余裕のある方は小説を読み返すか、映画をじっくり観てみることをおすすめする。わかりやすさという意味で、レオナルド・ディカプリオ主演の2013年版『華麗なるギャツビー』がいいと思う。

彼女がチルデンセーターを着ていた理由

『グレート・ギャツビー』は何度か映画化されているが、ロバート・レッドフォード主演の1974年版では、一瞬だがチルデンセーターを着た女性の姿が映る。著名なプロゴルファーで、ニックの彼女でもあるジョーダン・ベイカーだ。ラケットを持っているから、ガーデンパーティの前にニックとテニスを楽しんでいたらしい。

チルデンセーターを着ていたのがニックではなくジョーダンだったのは、彼女がいわゆるイットガール(ホットな女の子)だということを表現している。映画の舞台は1922年で、チルデンが一番イケてた頃。ジョーダンは(あくまで上流階級における)最先端のお洒落をしていたわけである。対してニックは、典型的なウインブルドン・スタイル(全身真っ白のシャツ姿)で、何事にも中庸な彼の性格を際立たせていた。ちなみにウインブルドンで白のウェア着用が定められたのは1884年。第1回の女子大会でモード・ワトソンという選手が白ドレス姿で優勝し、それ以来の伝統になった。

ジョーダンがチルデンセーターを着たシーンは、2013年版の映画ではバッサリと省略されている。その代わり、髪型が最先端のボブスタイルだったり、ココ・シャネル風のドレス姿を披露していたりして、より鮮明にイットガールぶりを演出していた。ちなみに女性のドレスは〈プラダ〉、ジュエリーは〈ティファニー〉が担当した。

ジョーダンは当時の進歩的な女性を指す“フラッパー”ではなく、あくまで流行に敏感な上流階級の女性だ。最初から最後まで保守的な価値観をもっており、結局はニックの元を去ることになる。典型的なフラッパーとして描かれたのは、ニックを誘惑するキャサリン(マートルの妹)だ。タバコを吸い、酒を飲み、ジャズを聴き、性に奔放。いまでいう“ギャラ飲み”や“港区女子”に近い感じで描かれていて、なかなか面白い。ジョーダンとキャサリンの対比は、物語を理解する上でも意外と重要な点かもしれない。

フィクションとノンフィクションの交錯点

フィッツジェラルドはチルデンの3歳年下だった。同時代を生き、一方はペンで、もう一方はテニスで名声を築いたが、ともに享楽に溺れ、失意のうちに亡くなった。アル中に悩まされていたフィッツジェラルドは、健康状態が悪化した末に心臓発作を起こす。このあたりの経緯もチルデンと似ている。『グレート・ギャツビー』が刊行されたのは1925年のことだが、このときチルデンは全米オープンを6連覇中。2人ともちょうど人気・実力の絶頂期を迎えていた。派手好き&社交好きな彼らのことだから、もしかしたらどこかで知り合っていたことも十分考えられる。

’20年代のアメリカは、禁酒法とギャング、大衆向けの娯楽、大量生産・大量消費に彩られた狂騒の時代である。そして同時に、伝統の破壊の時代でもあった。社会・文化のあらゆる面において英国の影響が色濃かったアメリカが、独自の道を見出すための混乱期と捉えることができるだろう。“失われた世代”といわれたフィッツジェラルドも、従来の価値観への懐疑的な視点をもっていたひとりだ。成り上がり者であるギャツビーの敗北と、英国的な上流階級だったチルデンの没落。フィクションとノンフィクションの交錯点に、’20年代アメリカの実像が垣間見える。

ケンブリッジ学生たちの日常着

もし余力があるなら、1981年公開のイギリス映画『炎のランナー』も観てほしい。実在したユダヤ系イギリス人の陸上選手、ハロルド・エイブラハムスを描いた作品だ。エイブラハムスは1924年のパリ五輪で、100m走の金メダルを獲得した人物。映画はその軌跡を描いた青春群像劇になっているのだが、彼が通っていた1920年前後のケンブリッジ大学の描写がなかなか興味深い。

冒頭のシーンでは、チルデンセーターの元になったクリケットセーターを着た学生たちが登場し、実際に構内でクリケット遊びをしたり、寮で過ごしたりしている。その後も似たようなスポーツセーターを着ているシーンが何度も描かれるので、どうやらこの頃には学生の普段着として定着していたようである。この映画の衣装デザインを手掛けたミレーナ・カノネロは、アカデミー賞衣装デザイン賞を4度も受賞した大御所。この『炎のランナー』でも同賞を受賞しており、時代考証の正確さは十分信頼できるはずだ。

このことからわかるのは、少なくとも1920年頃のイギリスではスポーツセーターが学生の普段着になっており、おそらくアメリカのアイビーリーグ(東海岸の名門8大学)も似たような感じだっただろうということ。それをチルデンが(服装規定の緩いアメリカで)テニスウェアに流用してブームを巻き起こし、アメリカ上流階級がこぞって真似したというわけだ。’50年代にアイビールックの基本アイテムとして広まる下準備が、この頃には出来上がったといえる。

完全に余談だが、『炎のランナー』でスポーツ選手のアマチュアリズムについて、エイブラハムスと大学側が揉めるシーンが描かれる。プロのコーチに個人指導を受けていたことが問題になったのだ。これ、当時のスポーツ界ではかなり大きな問題で、実際にエイブラハムスの身に起きた出来事。じつはチルデンもプロになる前、“アマチュア資格”について全米テニス協会とかなり揉めた経緯がある。スポーツとアマチュアリズムを巡る議論において、なかなか興味深いシーンといえるだろう。

ビル・チルデンとフィッツジェラルド、そして『炎のランナー』を通して、1920年代のアメリカについて取り留めなく考察してみた。チルデンセーター(テニスセーター)は、英国のカレッジ文化を象徴する存在であるとともに、そこから派生したアメリカ上流階級の暮らしぶりを色濃く感じさせる服だ。そんなことを意識しながら着るのも楽しいし、何も考えずに着たって別にいい。ただ単に“たかが服、されど服”という与太話である。

文=野中邦彦  text : Kunihiko Nonaka
photo by AFLO

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