誰かの愛を笑わない。LOVE PARCOのコピーを見て考えた #pr
最近、わたしの世界は美しい。
何もかもが憂鬱ですべてを投げ出したい日があっても、涙が溢れてシーツがシミだらけになる日があっても、それでも世界を根本的に愛せる。そう思えるのは、わたしが人を愛せるようになってきたからじゃないか、と思っている。
……とか言ってみたけれど。
未だ「愛」がなにかなんて、本当はわかっていない。夫のことを愛しているが、何故愛するようになったのか、いつから「恋」が「愛」になったのかとか問われてもわからない。それどころか、この愛が本物なのかそうでないのか確かめるすべもない。ましてや深さを測ることはできず、「まだ新婚だから愛しているとか思えるんだよ」「出会ってさほど日が経っていないくせに」と笑われてしまえば、それ以上反論するすべも持っていない。
それでもわたしは、この気持ちを愛だと信じている。
「おやすみ」と言い合って3秒で眠ってしまう夫の寝息を聞いている時間。「いってらっしゃい」と見送ったそのあとの、ほのかな寂しさ。「それで?」と話を促してくれるときの優しい声、ふざけあっているときに感じる体温、ワックスをつけたまま眠ろうとしている夫を揺り起こしたときの不機嫌そうな顔。疲れていても夫のためにご飯を作る時。夫が好きそうなお菓子を買って帰る、ビニール袋の膨らみ。そのささやかでありふれたものすべてが、光を含んだ砂のように一瞬輝いて、わたしの世界に降り積もる。そのすべてを愛と呼びたいし、そう思うことを誰からも否定されたくない。
きっとここまで読んだ人は、「誰もあなたの愛を否定なんてしませんよ」と言ってくれるだろう。「あなたが信じているならそれでいいんですよ」とも言うかもしれない。
でも。
なぜか世界にはわたしと同じように誰かを(または何かを)愛しているだけなのに、批判される人がいる。その愛を、認めてもらえない人がいる。
『ぜんぶの愛が、世界一』。
というのは、名古屋PARCOが先日30周年を迎えた時に発表したコピーだ。名古屋で30年、様々な愛の形を目撃してきたPARCOは「多様な愛」を表現したグラフィックも公開した。
ほどよく栄えた街並み。人の多すぎない通り。
歩行者天国でたっぷり広がった道の両脇には、大きな百貨店がこれでもかとひしめいている。三越、松坂屋、LACHIC、そしてPARCO……。老夫婦もいたし、高校生カップルもいた。男性二人組も、女性集団も、みんなのびのびしている。5月のすかんと抜けた青空も多いに影響していたかもしれないが、これが、はじめて降り立った名古屋の印象だった。
そこで実際に目にしてきたPARCOのグラフィックを、ぜひ見て欲しい(多いけれど、どれも素晴らしいので、全部載せました)(コピーも合わせてどうぞ)。
男とか、女とかじゃなくて、君のことを、俺は好きだ。
ねえ、もう一度、下の名前で呼びあおうか。
次元を超えるこの愛が、わたしの生きる光。
本当の愛に、言葉なんていらないわ。
女の友情が儚いっていったの、誰だよ。
あなたのカレーが世界一だよ。調子にのるから言わないけど。
頼むからそんな顔、ほかのやつに見せないでよ。
あなたが恋をする頃には、パパとママみたいな愛が、フツーになってる。
家の外で会う旦那は、いつもより男前で困る。
あなたと出会えた、この街ごと愛おしい。
老夫婦の愛、高校生の愛、同性への愛。
友情を超えた愛。夫婦愛。二次元への愛、犬への愛。
多様な愛が、押し付けがましくないさりげなさで写されている。
「昨今話題なLGBTQ+の関係性だけでなく、”人以外”への愛も写そうと思ったのはなぜですか?」と問うと、とても簡単なことを答えるように回答があった。
「世の中にある愛について考えていたら、自然と出てきたからです」と。
手放しで素敵だと感じると同時に、昨今の「多様な愛への批判」が、どうしても頭をかすめる。
いくつかの国では、未だに同性愛者は死刑になるという。そのことに対しての「日本は同性愛者がいても、死刑にならないんだから寛容だ」というコメントが、数日前にTwitterで話題になっていた。最近は、ロボットへの愛が問題視されているという話も聞く。異性愛者以外の彼らが「生きやすい」「自分らしくいられる」と胸をはれるところまで、まだ世界は成長していない。
悪いとか、美しくないとか、正しくないとか、許さないとか。
愛って、そんなふうに評されるものだっただろうか。
……少し話は膨らむが、ニュージーランドで同性婚を認める法律ができたときの有名なスピーチを紹介させてほしい。2013年、モーリス・ウィリアムソン議員のスピーチで、頻繁に思い出すほど好きなスピーチだ(以下は、HUFFPOSTより引用:https://www.huffingtonpost.jp/2017/11/25/nz-gay-marriage_a_23288119/)。
今、私たちがやろうとしていることは「愛し合う二人の結婚を認めよう」。ただそれだけです。
外国に核戦争をしかけるわけでも、農作物を一掃するウイルスをバラ撒こうとしているわけでもない。お金のためでもない。単に、「愛し合う二人が結婚できるようにする」この法案の、どこが間違っているのか。だから、本当に理解できないんです。なんでこの法案に反対するのかが。自分と違う人を好きになれないのはわかります。それはかまいません。みんなそんなようなものです。
この法案に反対する人に私は約束しましょう。水も漏らさぬ約束です。
明日も太陽は昇るでしょうし、あなたのティーンエイジャーの娘はすべてを知ったような顔で反抗してくるでしょう。明日、住宅ローンが増えることはありませんし、皮膚病になったり、湿疹ができたりもしません。布団の中からカエルが現れたりもしません。明日も世界はいつものように回り続けます。
だから、大騒ぎするのはやめましょう。この法案は関係がある人には素晴らしいものですが、関係ない人にはただ、今までどおりの人生が続くだけです。(Youtube動画:https://www.youtube.com/watch?v=EhdSYJ0r9P0&feature=youtu.be)
わたしの親しい友人には、同性愛者はあまり多くない(そしてそのほかの愛を育んでいる人も)。彼らが本当はどんなことに悩み、どんなことに悲しみ、どんなことで喜んでいるか、メディアを通してしか知ることがない。
でも、誰かを好きになる気持ちは知っている。好きな人を好きといい、何かを大事に思いながら生きる。その世界がどれだけ素晴らしいかを知っている。だから誰かの愛を禁じようとする人がいることを、とても不思議に思う。
わたしは、とてもあたたかい意味での「他人事」を大事にしたい。
好きなものを好きと言う。大事なものを大事にする。ただそれだけのことがどんどん複雑になっていくのは、他人のことにまで口を出すからでしょう。
PARCOのグラフィックをはじめとして、多様な愛が普通になっていけばいい。誰かの愛を笑ったり、誰かの愛を評価したりしない世界になっていけばいい。そのうち愛に、種類なんてなくなればいい。
いつか好きな人を好きと言えなかった時代があったことを、恥じたい。馬鹿げた時代だったと、子どもに笑われたい。
どんな愛も一緒でしょ。あなたが誰かを愛しているのと一緒でしょ。そう言いたくなるグラフィックだった。
最後に、このnoteのメイン写真にも使った男性の言葉を引用して終わりたい。
少し前まで「愛」ってもっと特別なものだと思っていて
一生懸命こしらえようとしていました。今は、彼といて同じベッドで眠る時や、一緒にごはんを食べる時。いつも通りの柔らかい日常に「愛」があると思っています。(引用:https://nagoya.parco.jp/page/30th/graphic/)