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”感受性”は簡単に鈍ってしまう

感受性は、簡単に鈍るらしい。
というのは、ここ数年ひしひしと感じていることだ。

昔は、今よりずっといろいろなことを感じとれた。たとえば「今日の風はまろやかだ」とか「光が足元に模様を作っている」とか「氷が溶ける音は、泡のおしゃべりみたいだ」とか。それらの事象が目の前に無い状態で聴けば一見ポエムみたいだと思うかもしれないけれど、わたしにとっては「ありのままの今」だった。きちんと感じて、受け取って、言葉にできた。人の声に滲むわずかな感情は無意識にわたしの心にまでまっすぐ届いたし、「なにか違う」という違和感にももっと敏感だった。

それがここ数年。働き始めてからというもの、急激に鈍っていく感じがある。これをただの「老い」と表現するのは楽だけれど、きっとそれ以外の原因だってあるはずだ。

忙しいからでしょ? と言われたらその通りかもしれないが、会社員でもないわたしは十分に休めているはず。というか、そんな自負があった。それに仕事柄「感受性」とやらは必要で、わたしはそういうものを文字に変換して生きているはずなのだ。なのに。


先日、ハワイにあるアウラニディズニーに行ってきた(その時の様子はこちらで)。3泊5日、はじめてのハワイ。仕事はできる限り終わらせてから出発したから、物理的にはしっかりと楽しむ準備はできていた。なのに、ハワイのいろいろを感じる間もなく1日を終え、2日を終えようとしていることに気付いてしまった(気付いただけマシよね)。

誤解があると困るので正しく言い直すけれど、アウラニディズニー自体には素直に感激した。着いた瞬間は超嬉しかったし「ひろい!」とか「プールだ!」とかいってはしゃいだし、「遊びに行こう!」と同行者を引っ張ったりもした。涼しいね嬉しいね楽しいねかわいいね美味しいね。もちろん心は動いていた。でも、なんだろう。これはただ「見ている」「遊んでいる」だけで、「感じている」のとは違うなと思っていた。

「今、わたしたちハワイにいるんだね」

なんどもそう言葉にしたのは、いつまでも実感がわかなかったからだと思う。

心に、余白がない。
何かがぴっちりと頭にくっついていて、隙間風が吹かない。

物理的に仕事に追われているとか追われていないとか、そういうこととはきっと関係がなく、わたしの頭の中には何かがぎゅうぎゅうに詰まっている。いつかやらなくちゃいけないこととか、過去の嫌な記憶とか、未来の心配事とか。詰まっているのは、そういう”余計”なものたち。今を味わうのに不要なものたち。


すこしだけ焦ってみたけれど、焦ったところで何も変わりそうにはなかった。何かできることを。一人でそう唱えてやってみたのは、ひとつひとつを言葉にしていく作業だった。

「みずが冷たい」とか、「雲が流れている」とか。
在るものをしっかり知覚し、つかんで、受け取るために。

頭の中で、ひとつひとつ言葉にした。

「葉の音がする」
「地面が濡れている」
「シーツの匂いがする」

それからそれから……。


そうして3日目の朝、ぼんやりと座っていたとき、風が通り抜けた。


あつくもなく、つめたくもない風。とても軽やかで、やわらかい。スッと通り抜けて、不意に風の来た方向を見た。この風は、どこを通ってきたのだろうと思ったからだった。

その瞬間、やっと、「心が緩んだ」と思った。

やっと、「”ここにいること”を感じられた」と思った。

よかった、まだわたしの感受性は、使えばきちんと動く。


そこから得た記憶は、鮮やかだ。目をつぶればたっぷり思い出せる。プールサイドを歩いているときに聴こえたみずが跳ねる音、濡れた子どもが歩く時の地面の音、風でまとわりつくスカートの感触。ベッドの沈み具合、バスローブのなめらかさ、キャラクターを前にした人のざわめき、そこかしこで聴こえる嬉しさを含んだ話し声。

何よりも記憶に残っているのは、ロビーを通り抜けてくる風が美しかったことだ。それから、夜、窓を開けているときに滑り込んでくるライブミュージックとささやかな風が、豊かな時間をつくってくれたこと。

あの場所が緩めてくれた心を、いつまで保っていられるかはまだわからない。それでも「感受性」を緩めたあの時間を覚えているだけで、きっとわたしは大丈夫。きっと。


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