妄想日記「めんつゆと美人」
朝から雨がしとしと降っている土曜日。ぐだぐだと夫と過ごし、お昼になってそうめんを食べようとしたら、めんつゆがなかった。なので、夫がそうめんを茹でてくれている間に、わたしが雨のなか傘をさして徒歩数秒のコンビニまでめんつゆを買いにでかけた。
そういえば外出自粛してから、雨の日に出かけたことなんてなかったかも。雨の匂いが道路からゆらゆら立ち上ってくる。この匂い、”ペトリコール”って名前がついてるんだっけか。ビニール傘にばたばたと雨が落ちてくる。急に雨が強くなった。
すると、歩いていた細い道の後ろからバイクがびしゃーと水を巻き上げながら走ってくる音がして、道のはじっこに避けた。だが遅かった。水がばしゃっと跳ね上がり、服にかかったのだ。部屋着のようなものをきているとはいえ、さすがに跳ね上がりの水は…。あーあ、帰ったらすぐ洗わなきゃ。はぁ、さいあく。と落ち込んでいると、バイクの主がわたしから数メートル行ったところで止まり、バイクを停め、降りて駆け寄ってきた。女性だった。
「だいじょうぶですか!?すみません!!!!」
なんて丁寧なひとなんだろう。本当であれば「あ、ぜんぜん!きにせず!」と笑いかけるところだけれど、顔を見て驚いた。ものすんごい美人である。いや、本当は人のことをあまり容姿で表現したくないのだが、そんなこと言っていられないくらい美しい。目鼻立ちはすっきりしていて顔がこぶしくらいしかない。かわいいというより、美しい、いや麗しいという感じ。たぶん平安時代に生きていたら寵愛されすぎて外へほとんど出れない暮らしになったのではないか。魔女狩りの時代に生きていたらあまりの美しさ故に妬みをかって魔女だと言われていたのではないか。よかった今の時代で。……ん?美人がこちらを見ている。なかまになりたいわけではないだろう。ああ、わたしがずっと無遠慮にまじまじ見ているせいだ。なにか答えねば。
焦ってしまったわたしは「だいじょうぶですよ〜」と答えようと「だ」と言い始めた。つもりだった。「だ」は「ま」と発音され、唇が意思をもったように勝手に動く。「まっまぶしい……」。
「え!?」
「あ、ごめんなさい、いや、あの、いや、あんまり美しいんでまぶしくて、すみません、全然変な意味じゃないんですけど、ほんと褒めてて、あっ初対面の人に外見のこと言われるのいやですよね!?すみません普段は一応気をつけているのですが唇が勝手にすみません!あっ!ていうか大丈夫ですよ気にしないでくださいこの服じつは特売で買った3000円のカットソーなんですよ、あ、しかもこのジーンズは高校の頃から履いてるやつ!うそだと思いますか?みてくださいよこの色褪せ具合!しかも穴空いてるし!ね!?」
人はどうして緊張するとどうでもいいことを口走ってしまうのだろう。後悔よりも前に超美人が「ふふっ」と笑い、その「ふふっ」の絵にかいたような笑い方に思わず「ディズニープリンセスか?」と思ったが最後、それも口に出してしまった。死にたい。
超美人は、その後もくすくす笑うだけで、わたしは必死に自分の奇怪さを弁解しようとして墓穴を踏みまくり自爆しまくり心に恥ずかしさを大量に抱えて、超美人とさようならをした。それ以上はとくにない。ただ、太陽を誤って見てしまったときのように目の前がチカチカしている。今も。
それにしても、同じ人間だと思えないような人間ってたまにいる。同じ数だけパーツを持って生まれているのに、大きさと組み合わせ次第でこうも違うのか。差別を生まないために人間を区別してはならないとわかりつつも、最近までブリーダー探しのために犬の写真を大量に見ていたわたしとしては、わたしとあのひとは「パグ」と「ボルゾイ」くらい違うと思ってしまう。いや、たとえが悪かった。パグはかわいい。愛嬌がある。つまり、わたしも愛嬌があってかわいいということか? いや、そういう話ではない。ざんねんなことだ。
ブーと音を立ててバイクが走り去るその後ろ姿をじぃっと見ながら、家に帰っても、夫には話さないでおこうと思った。なんとなく「きみはパグだけどかわいいよ」と言われたくないし。それにパグはかわいいのだし。内緒だ。わたしと、あの女性だけの。
ということが起こってもおかしくない道なんだよなあと思いながら歩き、無事めんつゆを購入した。そうめんは美味しい。いい1日だった。