共同湯というコモンズ
昔から続く温泉街にある、「共同湯」と呼ばれる小さなお風呂を研究するため、各地の温泉街に2週間程度滞在した。滞在中に考えたこと、構想したことを綴りたい。
歴史のある温泉街には5人も入ればいっぱいになるような小さなお風呂が点在している。
野沢温泉には13ヶ所、渋温泉には9ヶ所、別所温泉には3ヶ所、、というように地域によってその数は異なるのが特徴としてある。
そもそも、なぜ歴史ある温泉街にはこうした共同湯があるのか。
諸説あるが、僧侶が旅する中で温泉を発見し、その恩恵を受けるに値した人々が集落をつくったからだと言われている。恩恵を受けるに値した人とは、僧侶が広めようとした宗教を信仰した人である。
つまり、僧侶が宗教を広めるために温泉を利用した、らしい!
これは、とある温泉街で生まれ育ち、格式高い宿を営むご主人に聞いた話です。この話を聞き、温泉と宗教は近い存在であることを認識させられた。
話が少し逸れたが、私が考えたいのはこうした伝統的な共同湯は地域を救うのか、ということである。
地域の住民が水道代や電気代を払い、日々の掃除をし、修繕が必要になればその費用も集金するなどして成り立っている共同湯。つまり、共同湯は地域住民みんなの共同資源、コモンズなのです。
こうしたお風呂を、観光にも利用するのが近年では当たり前のようになっている。
渋温泉では、宿泊客にだけ鍵を貸し出し、外湯巡りと称して手拭いにスタンプを押しながら共同湯を楽しむことができる。
野沢温泉では、鍵などはなく誰もが自由に無料で利用することができる。
しかし、本当に無料で利用していいお風呂なのか考えていただきたい。
共同湯は住民が維持管理を続けているからこそ今も残っている歴史あるお風呂なのである。そもそも観光客が利用する以前に、地域住民のためのお風呂で、住民にとっては「自分の家のお風呂」なのである。
観光客は、それを借りている立場であるという認識を持って欲しいと思う。
共同湯は観光のためにつくられた施設でもなければ、民間が出資して運営している銭湯とも異なる存在であり、そこに住まう住民がいなければとっくになくなっている存在なのである。
共同湯が観光に利用されるのが当たり前になった近年、その認識を持たないまま利用している人が多いと感じる。共同湯を利用する方は、ぜひお気持ちを入れる、マナーの注意書きを読んでから入る、挨拶をする、という基本的なことを理解して使って欲しいと思う。
しかし、温泉街で暮らす人々にとって観光客の存在は不可欠であることも事実である。観光産業でご飯を食べている住民もまた大勢いる。
私は、共同湯が住民も観光客もどちらもが快適に利用できるようになれば、共同湯は地域を救うのではないか、と本気で思っている。
共同湯はコモンズであり、コモンズ有効利用のあり方のひとつに「観光」が位置付けられるべきだと思っている。決して「観光のための共同湯」ではないということなのです。
観光客がマナーを理解して利用すれば住民も受け入れてくれる。そして、何より、田舎の人はお話好きだと(個人的に)思っているので、共同湯で地域の文化や歴史、食などを観光客に教える、話す場に共同湯がなる。
地域住民と交流した観光客は、特別な体験をしたことにより地域が好きになる。そうした好循環をもたらすことはできないだろうか。
共同湯は地域を救う場になる、地域全体に影響を与えられる存在になるのではないか。そんな構想を少しでも広めたいと思っています。