小谷の裏話①手帳を取得してから無職になるまで
「精神障害者」それが私の肩書き。階級は2級。緑色の表紙のそれがもたらす「恩恵」を受けて生きるしかないんだと決め付けていたのは、他でもない私だった。
いつからか、未来について考えることをしなくなっていた。考えたくもなかった。自分に可能性があるとも思えなかった。「どこにも行けない」「無理だ」「だってそう言われたんだもの」呼吸するように、それが世界の真理かのようにぼやいて、それ以外の考えを取り入れようともしなかった。
そんな私が「令和の虎」に出演し、実家を出て一人暮らしを始め、バイトをして、ずっと「夢」だと語っているだけだった個展を開催できた。
正直「頑張った」と胸を張れるものではなく、反省と後悔でいっぱいの個展だった。でもこの結果は私がもたらしたものだ。一見成功したように見えるのは、周りの支えのおかげだ。
「個展をしたい」と思い始めたのは大学生の時からで、その時になぜやって来なかったのか、一体今まで何をしていたのか、そんな声も聞こえる。とてもできる状態ではなかったと言ってしまえばそれまでだが、結局行動しなかったのは私自信だという事実は変わらない。
それから約10年「やりたい」と言うだけだった私が「令和の虎」に出演し、融資を受けてそれを実現できた。少し前の私には想像できないような眩しい状況に目を細めつつ見渡しては遅れてやってくる実感に胸が熱くなる。ここに至るきっかけだった「令和の虎」への出演。そのための応募フォームに記入することにもきっかけがあった。私1人の考えだけではそのきっかけさえ生まれなかった。
ここからは精神障害者保健福祉手帳を取得した私がそこから脱却したいと思い、個展開催という夢を実現させるまでを記していきたいと思う。
大学1年生の夏、母に手を引かれ向かったのは心療内科の病院。そこに連れて行かれた理由は私の頭髪にあった。頭頂部にはほとんど生えておらずまばらで、高校の時からウィッグを着けないと隠せないほどだった。その原因が発覚したのだ。小学3年生から始まった自ら髪を抜いてしまう奇行。抜毛症、トリコチロマニアともいう。10年ほど隠し続けていたそれがついに母にバレてしまった。
医師は「うつ」の診断を下した。その病院に1年ほど通っていたが一向によくならず薬は増える一方だった。ある時、私は顎や呼吸の異常(ジストニアと思われる)で病院に運ばれたが処置されることなく帰された。それを病院に報告すると「薬のせいかもしれない」と言われた。かかりつけの皮膚科の医師の勧めもあり、抜毛症に詳しい病院に変えることにした。
母と新しい病院の初診に行ったら「統合失調症」と診断された。薬も大幅に変わった。一時的に良くなったような気もする。ただ手足の震えが続き、作業がうまく出来なくなった。それを医師に相談しても「まだ震えるの?」と言われてしまって薬は変わらなかった。ここにしばらく通い続けるなかで自立支援医療制度の申請をすることになった。そこでの診察代と薬代の自己負担が1割になった。以前より通院する頻度が高くなった。
大学を卒業し、専門学校に通いそこを卒業し、さらに就職しても通院は続いた。もはやそれが習慣で、終わりなんてあるとは思えなかった。ある日、医師に障害者手帳の取得を提案された。その時は乗り気になれなかったが、就職して社会での自分に絶望していく日々に何か理由が欲しくなった。知能検査を受けに行き、その結果に落胆しつつも納得させられた。私の処理速度IQの低さが、仕事の遅さを物語っていた。でもそれは発達障害というほどでもなかった。複雑な気持ちになった。なんとなく楽になれるような気がして私は障害者手帳の取得を決意した。
医師にその旨を伝えた時「そうすれば一般枠でも障害者枠でも仕事を探せる」と微笑んだ。確か両親に転職するように迫られていてその話もしていたように思う。診断書を書いてもらって役所に提出した。両親は「どうせ取れても3級だよ」と言っていて、私もそう思っていた。届いた手帳には2級と記されていた。理由はきっと診断書の内容。私は一人で生活していくのは難しいというもの。変な安寧と虚無感に襲われた。
社長にだけ手帳を取得したことを伝えた。社長は「別に特に変わらないんでしょ」と言っていた。
その年の夏にまた病院を変えた。そこでまた診断が変わり「強迫性障害」となった。この時からかなり調子が良くなったのを感じた。頑張っていけると思った。
秋に取ることになっている「夏休み」の前日、社長は私に「ゆっくり休んで」と伝えて帰った。帰宅してから母に社長から電話があったと言われた「パートにならないか、それでも今までの効率だったら辞めてもらう」そんな内容だったそうだ。
社長の言い分はこうだ。会社として障害者を雇うメリットはない。そもそもどう扱っていいのかわからないし、採算が取れない。私の仕事のスピードがとにかく遅く、別の会社の人と比べて7割ほどである。それならパートとして働いてもらいたいが、それでも今まで通りのスピードだったら辞めてもらう。
母が電話中に取ったであろうメモには、数字がつらつらと書いてあった。私の能率の悪さについて言われたことより、それをわざわざ母に電話してきたのがなんだか悔しかった。電話で母は「じゃあ転職活動させるので月に1日は休ませてください」と社長に言ったらしい。それでも私はそこの「正社員」にしがみついた。
仕事は好きだった。自分にしか任されないこともあってそれに誇りも持っていた。周りにもここでやっていけないなら他でやっていけるわけがないし、そもそも私のような人間を雇うところなんてないと言われ、それを鵜呑みにしていた。今思えばすぐに身を引くべきだった。私は変なプライドのために居残って、それでいて周囲の理解がないと嘆いて勝手に病んでいた。最終的に胃腸炎を起こして休職に入り、そのまま退職した。
傷病手当を受け取りながら仕事を探した。ハローワークの障害者向け窓口に通い始めた。「大企業の障害者枠に入れば安心だ」そういう両親に従うように求人を探し、応募したがうまくいかなかった。両親は障害者枠を甘く見ていたのかもしれない。誰もが知っているような企業ばかり(さらに公務員まで)勧めてきた。一向に就職が決まらない私に父は言い放った「お前は最悪の選択をした。せめて退職する前に1ヶ月でも我慢して復職していればよかったんだ。休職状態で辞めたやつなんかどこも雇いっこない」その言葉にはもう私の人生は終わったんだという意味が見えて私は絶望した。その後、就労支援施設に登録したほうが就職がうまく行きやすいという話を聞いて、訓練を3日間体験したが空気に馴染めず通うのを止めた。続けられない私を両親は責めたが、それっきり就活はしなくなった。