「在る」に寄り添うとは.
人は、何かが上手くいかないとき、相手に「変わってほしい」と変化を求めたくなる。
それはきっと、上手くいかないことに傷つき、誰かのせいにして、現実から少し逃避したくなるようなものかもしれない。
だけど冷静に考える余白があるならば、
「いやいやそれは違うよ、他人を変えることなんて出来ないのだから」
という現実に呼び戻され、目の前の現実にどう向き合ったらいいのか、
はたまた誰かに助けを求めたり、
距離を置いたり、
自分に出来ることを探すだろう。
やっかいなのは、
「あなたのために、こうした方がいいと思って」
とか、
「あなたのために、あなたがこうなるように、導いてあげる」
と言った、「あなたのため」論。
「あなたのため」の時点で、相手とは対等じゃないように感じる。
そして、相手を信じる力があったなら、過剰に「与える」ことは必要ないことにも、本来ならば気付けるかもしれない。
つまり、出来ることは、
ただただ寄り添い、
ただただ一緒に「居る」「在る」こと。
役に立てたという感覚や、
相手が「変わった」という結果は、
自尊心のようなものを満たしてくれる。
そういった意味では、「必要性」があるからこそ、「生産性」は満たされる。(熊谷晋一郎先生の言葉より)
普段から、「誰かのために」が行動の原動力になっている人は、「じぶんのために」を少し意識してみても、いいかもしれない。
必要なのは、
今「在る」ことを認め、受け止め、それ以上求めない。
そうしているうちに、本人にとって、必要なタイミングで、
気付きを得て、
本人のタイミングで、
変化していく。
一見外から見たら「変わらない」「変化しない」ように見える時期も、
実はすごく大切で。
土の中で種が眠っているように、
そのタイミングで、外から見てもわかる変化が、そのうちに訪れる。
種はきっと
焦ってないし、不安でもない。
「時期が来たら芽を出し、葉を伸ばし、花を咲かせる」ことを知っているから。
一緒に「待つ」こと。
これは、医療職の中でも特に、本来ならば助産師の得意分野ではないだろうか。
陣痛が来るのを待つ。
赤ちゃんが降りてくるのを待つ。
生まれるそのときを待つ。
おっぱいが出るのを待つ。
赤ちゃんの体重が増えるのを待つ。
目が合って、ニコニコして、首が座り、寝返りを打つのを待つ。
子どもが育つことを待つ。
もちろん、ただただ待っているのではなく、種に柔らかい土と水を用意するように、
より「心地良い」関わりをすることが、
私たちプロなのだろうと。
助産師とは何なんだろうか。
看護師の延長に位置されている日本の助産師。
当たり前だけど、西洋東洋の「医療」が日本に入ってくるもっともっと前から、出産はあった。
大名行列を横切れるのは、お坊さんと産婆だけだったと。
いのちの始まりと終わり。
現代の「助産師」は、西洋医学の影響を強く受け、
だからと言って、妊娠出産に関わることは、それほど多くわかっているわけではなく、むしろわかっていないことの方が多い。
「わかる」が何かも難しいところだけれど、
もしかすると、「産婆」にはわかっていたのかもしれない。
「目の前の人」をみる。
五感だけでなく、全ての感覚を研ぎ澄ませて。
もしかすると、みえなかったものが、みえてくるかもしれない。