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取材日記①監督は、なぜ誰よりも早くグラウンドに出るのか?

N監督が、A大学の監督に就任した。僕は、就任初日から、密着取材した。

昨日、1日目の終わりに、N監督が選手に訊いた。

「明日の朝、個人練習は何時から?」

学生コーチが答えた。「5時半からです」

宿舎への帰り道、N監督が僕に言った。「明日の朝、私は5時10分に室内練習場に出ます。冴木さんは、ゆっくりしてください」


翌日。僕は5時に室内練習場の前にいた。N監督は、5時10分にやってきた。僕の顔を見て、笑った。「早いですね。冴木さんは、そういう人なんですね」


5時25分になって、1人目の選手が室内練習場に入ってきた。

N監督がいるのを見つけると、驚いた顔をして、駆け寄ってきた。「おはようございます! すみません、遅くなりました」

N監督は、笑いながら返した。「おはよう。遅れてはないけどな。君は、名前はなんていうんだったかな?」

「Wです」

「3年生で、レギュラー争いをしているんだったな?」

「はい」

N監督は、もう控え選手のことまで把握しているのか。顔と名前は一致していないみたいだけど、さすがだな。


取材2日目の今朝。僕がまた5時に室内練習場へ行くと、すでに灯りがついていた。

「しまった!」と思ったが、もう遅かった。中へ入ると、N監督がニヤッと笑った。「おはようございます。何時に来られたんですか?」

「ん? 4時50分」

「参りました」と答えるしかなかった。


5時15分。昨日一番乗りだったW選手がやってきた。入ってくるなり、「すみません!」と言った。

N監督は、また笑いながら言った。「謝る必要はないよ。君たちは5時半開始と言えば、5時半に来ればいいことになってるんだろ?」

「はい、そうです」とWは小さな声で答えた。

Wがウォーミングアップに入ると、N監督が僕のほうを見ないまま言った。

「ああいう学生は、伸びるんだよ。レギュラーになれるかどうかは、わからないけど、社会で伸びる」



8時30分。その日の全体練習がグラウンドで始まった。始めに、選手たちがベンチ前に整列した。N監督は選手たちに言った。

「昨日の朝の個別練習に、私は5時10分に来た。すると、Wが5時25分ごろに来た。今朝、Wは5時15分に来た。キャプテン。Wは今日、なぜ10分早く来たと思う? 」

「監督をお待たせしないように、だと思います」

N監督が続けた。「そう、気遣いだな。君たちのルールでは、5時半までにくればいいことになっている。そこで、そういう点に気づけるかどうか。こういう気遣いがある人は、好かれるか? 嫌われるか?」

キャプテンが答える。「好かれます」

N監督は大きく頷いた。

「言うまでもないな。そういうちょっとした行動に、人間性や性格、考え方が出るぞ。

いいか? 君たちの野球人生は、いつか終わる。そのとき、社会では『野球がうまい』というのは、役に立たないぞ。甲子園に出た? 全国制覇した? プロで何年プレーした? そんなのがもてはやされるのは、23年のことだぞ。すぐに忘れられる。

そこで残るのは、人間性だよ。世の中でうまくやっていくには、人間性がよくて、好かれるほうがいい。

ゴマをすったら好かれるかもしれないけど、化けの皮は剥がれるぞ。

人間性は、毎日の生活でつくられるんだ。みんなには、野球を通して人生を勉強して欲しい。ちょっとした気遣い、心配りで人生は大きく変わるぞ。それが『世の中』というもんだ」

監督の言葉を、選手たちがどう受け取ったか。たぶん、明日の朝、答えが出るだろう。

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