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未詳事件 #02 じてんしゃ

先日、トイレ読書用の本として読んでいた『改定版 英文法総覧』(安井稔著、開拓社、1996年)で次のような解説を見つけ、思わず唸った。

換言すれば、これらの場合、従節の現在時制は、主節の未来形に、いわば、「おんぶ」していることになる。(273ページ)

主旨は、例えば次のような未来を表す文章「If it is not rainy, I will go.(もし雨模様でなければ行こう)」において、if節が「現在形」であるのは、「未来形」の主節「I will go」が時制を担保してくれているから、というものである。

この現象そのものは、「言語の経済性」から説明される。ぼくがトイレで唸ったのは、久しぶりの快哉を期待したからでも、その反対の事態に襲われたからでもない。カギカッコ付きの語句「おんぶ」の使い方に、唸り声を上げざるを得なかったのだ。

あらかじめ付言しておくと、「おんぶ」はそれ自体、語源が詳らかにならない言葉である。ただし、俗説のいうポルトガル語由来ではなく、「負う」と関係していることは分かっている。つまり、「おんぶ」とは「負うこと/負われること」を指す。

幼子を「おんぶする」のは「負う」ことであり、幼子が「おんぶして」というのは、「(わたしを)負うて=わたしは負われたい」を意味する。とすれば、件の解説のくだり「…未来形に、…「おんぶ」している」は、明らかに間違いである。正しくは「おんぶしてもらっている」と書くべきなのだ。

ふう、と、溜飲が下がったぼくだが、この「おんぶ」に誘われてつい調べ始めた幼児語、ないしは方言のなかで、複雑怪奇な事件にたどり着いてしまった。

始まりはこうだ。「おんぶ」から「だっこ」へ調査対象を移し、次に「肩車」に取り掛かった時、ふと不思議な感覚に捉われた。「車」でぼくらが思い描くのは、ふつう「四輪」ではないのか。「肩車」は「四輪」ではない。足を「輪」に例えたとして、やはり「二輪」でしかない。なぜ「肩車」は「車」なのか。

まずはなけなしの知恵を絞ってみた。今の「車」が歴史に登場する前は、四輪よりも二輪が主流のはず、ならば「二輪」を指して「車」と言っていたはずだ。そうそう、「大八車」など「二輪」だ。なるほど、「二輪」即すなわち「車」なのだ。

この「なけなしの知恵」は、やはり漢和辞典により裏付けられた。世界に「車(car)」が登場する前なのだから、当然といえば当然なのだ。おそらく「肩車」の「車」は二足歩行を「輪」に見立ててものに相違ない。これでまた胸のつかえが、と思った瞬間だった。待て待て、「自転車」はどうなのだ。

この場合、問題は「車」というよりも、合成語の一端「自転」にある。英語は「bicycle」、「bi-(二つ)」と「cycle(円、回転するもの)」、いわゆる「二輪車」である。自ら回転したりはしない。この「歪さ」は、「オートバイ autobicycle」と抱き合わせると、さらに「歪さ」を増すだろう。「自転車」のどこが「自転」なのか。

「君が口にするほとんどの言葉は、いつかどこかですでに口にされた言葉である」。かつて文学理論家のT. イーグルトンは「ロシアフォルマリズム」の説明の際に、書いたとか書かなかったとか。ともあれ、自転車事例は、ぼく以前にずっと研究俎上に乗せられていた(「自転車の歴史探訪」を参考のことhttp://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/rekishi/rekishi12.html)。もっとも、この記事をもってしても寅次郎なる人物が「命名」した以上の事実はわからない。

ぼくとしては、嘆息をひとつ吐いて諦念に委ねたいところだが、性分がそれを許さない、ことはない。ただ、妄想してみたいのだ。そう、ただ自画自賛めいた素敵な妄想に耽りたいのだ。

肝心要の「自転」から考えてみよう。先の記事を信じるならば、英語や別の言語から「自転車」が翻訳された可能性は薄いからだ。「自転」を「自動回転」につなげる思考を捨てて、素直に「自ずから転ずる」と考えると、天体の「自転」が連想される。

自然に回転しているような感覚は、それまでの歩行から自由になった(ただし、かなり改良がなされて便利さが増した「自転車」に関しての話だが)人々に広く共有されただろう。あるいは、人の交通のパラダイム転換になる(なって欲しい)願いをかけての命名だったかもしれない。例の大八車が、「代八車」と記されることもあり、一説には「人八人に代わる働きをする」と考えられたように。

そのような想像よりも自信があるのが、むしろ天体の「自転」にあたる英語、「rotation」である。この言葉、カタカナとして日本語に定着していることは言を俟たない。ヘヴィにすれば、アイドルの歌にもなるくらいだ。注目したいのは、これが数学用語としては「(中心点や軸の周りの)回転(運動)」を指しても使われる事実である。

とすれば、発明者とされる寅次郎なる人物が、仮に英語で書かれた説明書の類を元に「自転車」を作り出した時に、「rotation」する「輪」を搭載した「車」に相応しい名前として、その名を冠した可能性も排除できない、とは考えられないか。

ちなみに、アメリカの権威ある英語辞典「Merriam-Webster」によると、「bycycle」が最初に用いられたのは1868年だという。これは日本で言えば明治元年にあたり、そのわずか3年後に例の寅次郎が「自転車」を考案したとは、時間の懸隔が短すぎる。しかし、名称が不可思議とはいえ、これだけ人口に膾炙したのだ、寅次郎は天才だったのだろう。

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