蓋し虎にはなれたとて、翼はどこだ
現在2024年の春に放送中NHKの朝ドラ「虎に翼」をジェンダーを教わっている教授にお勧めされて、観てみてたら、ほとんど毎回泣きながらか、何かのエネルギーに燃え上がりながらか、怒りながらか、とても考え込みながらか観ているというか全身を使って吸収している私がいる。そして、主題歌の作詞作曲する米津玄師の歌を聴き、またも泣きながら、夫が手を付けられない虎と呼ぶ私自身の縄も噛みちぎったことに気が付く。夫は私を手なづけるのではなく、私が飛べるよう翼を生やせて、それをうまく使いこなせるように私を飼ってくれれば良かったのだ。そして今少しばかり彼はそうなりつつある。
けれど私は今まだ、狙いが定まっているか、にはやはり自信はない。20年前は、無知故はっきりと狙いが定まっている自分がいた。しかし、その自分にさよーなら10年後。と蓋をした私がいた。戦争反対活動的な平和活動的な作品ばかりを作っていた私に偽善者と言う父や、周りの大人たちの冷静っぽい言葉、受験に必死だからか誰も私の活動の仲間になってくれない虚しさ、そんな現実が「無知」が邪魔なものだとしか思えない「私」を作り出していたのだ。
しかし、あれから10年後の私は、ひどく孤独な子育てをしている母親になっていた。その蓋の存在があったことすら思い出す暇も余裕もなかった。ヒトからは平凡で幸せに暮らしているように見える私は、毎日戦場の中で生きるか死ぬかの思い出なんとか死なないでいた。
そして、それからまた10年。ついに私は蓋し虎になるために、子育てという行為を自分の人生の優先順位から下へ移し、自分自身を学びと活動を引き戻した。まず狙いをはっきり定めるためにジェンダーとフェミニズムを学ぶ。けど準備が整う瞬間なんて、ないのかもしれない。そんな時を待っていたら、蓋はいつまでも開かない。今が常にその時で今なのである。火をつけるのと同じで何かの段階をすっ飛ばして、何かを成すことはかなりミラクルなことがなければ有り得ないかもしれない。でも例え焦って失敗しても、死なない限り、その失敗は繰り返せて、いつか成功できるかもしれない。私があと100年生きれれば、虎に翼が生えたようになれるはず。この朝ドラの存在は、私にかなりのエネルギーをくれた。しかも、この朝ドラを作った吉田恵里香も主演の伊藤沙莉も米津玄師もオープニングのアニメーションを制作したシシヤマザキも、全員私より若い方々。なんてこった。。。素晴らしい若者に、蓋を開けるのが遅すぎるバカモノな私。ずっと自分を若者だと思っている私は若者ではないし、もう若者になれないし、彼らのセンスや世界観は魅力的に感じるが、それにはついて行けないだろうし、行こうとも思わない。ここまで蓋を開けずにいた私は完全に馬鹿者ではあるはず、それは良い意味でも。そして、この20年間蓋の上で積み上げてきてしまった私の経験全てを私の魅力とし、この世界の「はて?」と向き合って、戦ってやっつけられても何度泣いても、幾度となく立ち上がり続けて、139歳まで生きていこうと思う。その時には虎なのに燕のように自由に空を飛べているはずだから。