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メディア密談からの連想メモ

今日もメディア酔談あって相当おもしろかったけど、その前に。
先日のメディア密談の後でツイートしたことなどをまとめておきます。
メモなので、書き留めることに力点を置いています。
記憶違いとか認識不足とか、いっぱいあるかもしれません。
お気づきの点はやさしくご指摘ください。

■政治についての話がタブーなのはなぜか(私の場合)

メディア密談の刺激からまた考える。
笛美さんが、「自分でバイアスかけてるだけなのかもしれないけど・・・」というようなことをおっしゃっていた。

政治についての話が「なぜ」タブーなのか、自分の中の抵抗感をみんながそれぞれ出し合ったら見えてくるものがありそう。
私の場合は、「カゲキハと思われたくない」という漠然とした恐れ。
チェルノブイリ原発事故の頃はまだ、「デモ」というと、なんか、ディープな人たちがやるもので、今ほど爽やかじゃなかった。それより前はもっとそうだった。チェルノブイリの衝撃で少し間口が広がったけどその程度。

日本で学生運動が盛り上がっていたのは私の親の世代で、私は経緯を詳しく理解していない。
当事者たちにとって当たり前すぎることはよほど意識されない限り説明的には語られない。ので、その他の人には伝わらない。
それとも社会の分断が大きすぎたから語ることが今でもタブーなのか。

「カゲキハ」ということばは、その時代の何かに関係してるんだろうと感じている。
想像するに、あれが徹底的に「いけないこと」とされて、「もうああいうことはなしね」ということになって、今の社会の有り様に繋がっているんだろうな?と漠然と思っている。

ここは私は勉強不足。

ところで、これに関連して、近頃懐かしのフォークソング特集番組ってないよね、と思う。
必ず学生運動の映像が流れてたやつ。

ああいうの見てない人は何があったかまったく知らないままになるってことよねと気になっている。

あれは学生運動を担った世代がテレビ制作の実権を握った頃だったから作られた番組なんだろうね?
その世代が引退するとなくなっちゃうんだなーと驚いている。歴史的なものだから今後もずっとあるんだろうと思い込んでいた。

で、そこからまた頭の中で繋がるのが、今の日本がダメダメなのは、バブル世代が実権握ってるからという説。私は説得力を感じて腑に落ちてしまったが、実際のところはどうなのかしら。
そうだとするなら、苦労をしている今の若い世代が実権を握る頃には堅実なまともな世の中になるということだろうか。それともそれまでにご高齢の政治家たちやその周辺の人たちの利権がらみで吸い尽くされてしまうから、その頃には皆かつかつで余裕がなくて人心がすさみすぎてどうにもならなくなってしまうのか。

■自分の頭で考えること、人権意識についてなど

ところでなぜ境さんのジェンダーについての言動に私が救いを感じているかと言えば、社会問題を追及している男性を応援していたらその人が女性を苦しめていたとかパワハラしてたとかいうことが実に多くて、その度に、彼らの正義には女性や目下の人の人権は含まれてない?とがっかりさせられてきたから。

年上の男性と話していて、純粋に話が楽しめるという経験は本当に数少なくて、むしろそういう人がいると心底びっくりする。
自説を話そうとしても「それはね」と一方的に諭されるというような体験を経て、そういう人にはなるべく近づかないし、避けられなくても適当に相槌を打ってやり過ごすというやり方を身に着けてきた。女性と話をする分には、相手が年上でもそういったことはほとんどないので、単純にお互いの話を楽しめる。だから女性と話をする方が楽で、好き。
(男性、女性、とひとくくりに語るのも雑ではあるが)

ツイッターでは、女性の心の叫びや女性同士だけのときに話されていたようなことが公開でつぶやかれるので、めんどくさいことになるのを避けるために隠されてきた女性たちの本音がやっと日の目を見るようになって、おもしろいことになってきてるなと思う。
つい最近マンスプレイニングということばを知って、それそれ!と腑に落ちた。

マンスプレイニングと呼ばれるようなものは都会にいた頃にすでに経験していたが、今住んでいる地域ではそれに加えて、女性が意見を表明すること自体が想定されていないようなところがあり、驚いた。
選挙では夫が妻の投票先を決めたり、地区の長が決めるなどが当たり前のこととして語られていて、来たばかりの頃はびっくりした。それに慣れていると、誰かに決めてもらわないと誰に投票していいかわからない、と戸惑う人もいるらしい。

で、そういうことってどうやら一地方の話でもないらしく、もしかして日本中の「田舎」でこういうことが行われているなら、日本が変わらないのも当たり前なのでは?と思ったのだった。
これまでは私は東京という大都市のことしか知らなかったし、世の中で語られることって東京目線のことがあまりに多いように感じるけど、これってかなり深刻なのでは。
日本に「民主主義」って、全然根付いてないってこと、よね。
逆に言えば、こういったところから変えていく方策を考えることが日本に変化をもたらすことに繋がるのではなかろうか。

つまり、自分の頭で考える、意見を表明する、他人の意見を敬意を持って聞く、そういった訓練が必要なんじゃないか、大人も子どもも。

つまるところ人権意識が低すぎるのが色々な問題を生んでいるなと思う。
(メモなのではしょる)

■教育との関連

ちょっと話は戻って、「カゲキハ」と思われたくないというのは、学校に馴染めてなかった私が、さらに仲間外れの材料は与えたくないという警戒心からというのもあった。
つまり日本の教育の問題でもある。
他の国ではデモって市民の大事な意思表明の当たり前の手段という認識でしょ。
例えば、『スウェーデンの小学校社会科教科書を読む』によればスウェーデンでは世論を形成するためにデモをすることなどが小学生に紹介されているという。
このかけ離れた認識。

教育が責任を持って、「自分の頭で考える市民」を育成しようとしているかどうか。
これって国として「まとも」でいられるかどうかの分かれ目のように思う。

■選挙関連で印象に残っていること

思い出すのは、私が子どもの頃の選挙の様子。
市民派が立候補したとして、立候補した本人も、応援する方も、当選するなんてこれっぽっちも信じてない、と、子ども心に感じていたけどほんとのところはどうだったのかな。
冴えない感じだった。

そして、当時の選挙ポスターと言ったらメジャーな政党も含めてめちゃくちゃダサくて、目を逸らしたくなる存在だった。
それはダサさのせいだけだったろうか?子どもながらに選挙というものについて「タブー」性を感じていたのもあると思う。支持している対象を公にすると誰と対立することになるかわからない、みたいな警戒心。

さらに、うちの親は誰に投票したかは子どもにも言わない主義で、投票の秘密ってことで正しいと今ならわかるけど、子どもにとってはますます秘密めいてわけのわからないものという感触だったのも覚えてる。

それから、小学校などで描かされる選挙ポスター!読書感想文と同じで、「こう描く(書く)べきだろう」と、無言で大人の意図を読み取るのが優等生。
私はあのステレオタイプに心底うんざりしていた。他にもやり方ありそうなもんなのに、投票箱と手、みたいなのばっかり。うんざりしているのに自分もそれ以外思いつかない。

ああ、それから、児童会生徒会の選挙!「清き一票を!」って子どもが言うやつ。あれもなんなんだろうと思っていた。
大体大人の本物の選挙が選挙カーで大音量で名前だけ連呼するようなもので、間違えて目を向けると「ありがとうございます!」と叫ばれるので見ないようにするということだけ学ぶような代物。

それに関しては想田和弘監督の「選挙」という映画がすごいよかった。やっぱ日本の選挙、変だよね、そう感じる感覚間違ってないよね、と安心した。


でもその後移住して、また違った形の選挙を目撃して衝撃だった。町議選で、それぞれ立候補者の地区の人たちがハチマキ締めて、行列しての選挙運動。地区の人は当然地区からの立候補者を支援する暗黙の了解。

そもそも私が来た頃は町議に女性はゼロだった。九州そういうとこ多いらしくて、女性議員を増やすことを目的とした団体もあるらしい。そして、ちょっと前は町長選挙とかで現金飛び交うの当たり前だったとか聞いたけど、母から聞いた祖父の田舎での話と共通してたし、今話題の前法相の件とも通じる。

■政治家関連の印象に残っていること

さて、選挙ポスターのダサさの件は、小泉純一郎首相の頃からがらっと変わったなーと感じていたら、つい先日、電通の人がその頃から内閣官房に入っていたというニュース見かけて納得した。
あの頃「刺客」とか「造反」とか「自己責任」とか変なことばがいっぱい繰り出されたのもその影響だったんだろうか。 

「刺客」って、小池百合子でしたよ。
池袋でポスター見たのをなぜか覚えてる。
何が刺客だ、と思ったんだけど、劇場型政治とか言って詳しく説明しないことを「ワンフレーズポリティクス」とか言っちゃっておもしろおかしく言うだけでマスコミも無責任で。

小泉首相を私はほんとに胡散臭いと思っていて、「郵政民営化、是が非か」みたいな感じで盛り上げてたけど、別に国民のためになる話じゃないし。
何よりイラクの人質事件で首相が言った「自己責任」論が最低最悪だった。あのとき私は乳飲み子抱えて夫のモラハラと仕事で疲弊してたけど、耐えられなくて仕事の後で官邸前抗議に行ったんだった。

森首相は、安倍首相以前では私の中では見ていて恥ずかしくて身悶えするくらいまずかった人で、クリントン大統領との英語での会話の動画強烈だったなー。
・・・と、ツイートしてしまったけれど、今見るとネット上ではあれはいかにもありそうな、しかも事実であると報道までされたが、実は作り話だったと解説されている。
動画というのも私の勘違いらしい(たぶん動画はクリントン大統領とヒラリーさんのものの記憶と被っている)。ちなみにHow are you?を間違えてWho are you?と言ったというもの。
すっかり本当にあったことだと信じてた。そういうのも信じちゃうほど失言を連発していた印象ではある。
その彼がなぜオリンピックで出てくるのか意味不明。お金なんだろうと言われたらなるほどねとしか思わないけど、そんなに高齢になってもまだお金がほしい?どういう心理なんだろう。ちょっと理解ができない。

それで小泉首相も都知事選に出てきて原発反対とか言ってみたり安倍首相の批判めいたこと言ってみたりするけどまったく信用ならない。息子を環境相にねじ込んでるんだから、単なるガス抜きよねと思う。

そうやって思い出してみるけど、皆さんしぶといよね…早く引退してほしい…。
中国の方がきっちり定年制なんだと聞いたときは驚きうらやましかった(中国もその後変化があった?これも詳しくない)。

■国会実況中継のイメージ

K-1とか格闘技が流行った頃からのテレビの盛り上げ方。
ああいう演出って、ゲームが先なの、リアルの格闘技が先なの?
盛り上げる呼び方と、画面端に選手の情報が表示されるような。あの頃から他のスポーツでもそういうの導入されていって、詳しくない人でも見やすいなと思う反面、美を競うはずのフィギュアスケートまでキャラクター強調されすぎるのが違和感ある(話それた)。

国会中継に解説入れながら流したらいいと言うのが先日の検察庁法改正案が問題になった時に話題になってたけど、それはもちろんああいう画面でやったらいいよねー。

とても盛り上がる、おもしろい題材だと思う。

■ささやかに書いていることに関連して

イラク人質事件のとき、音楽活動と子育ての話題中心のブログに、思うところを書いた。あれはもうほんとに許せなくて体が動いた件だった。
3.11後、これまで黙っていたことの自戒を込めて、原発のことも話題にしていく決心をブログの説明欄に書き記したら、「オルティンドー(私の歌っているモンゴル民謡)を政治に利用するべきでない」との批判があった。でも、ブログは「オルティンドーを歌う三枝彩子の活動紹介」であって、オルティンドーの研究目的のものでもなんでもないし、そこは自由でいいでしょ、と、自分の中からの強い反発を感じた。
もしかしたら批判してきた人自身が、政治的な話というものはタブーとしておくべきという思い込みにとらわれているのではないかと思った。

■それぞれの政治の見え方共有はいかが

それぞれの政治の見え方を共有できたらおもしろそう。ということで、書いてみた。
次は、声を出せなかった私が時々は出すようになったきっかけなどを書いてみよう。
書く。たぶん。

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