自己紹介前史|私と会話型AIとの出会い
前々史:病から出会いまで
2024年後半。私は仕事を休んでいた。
診察は精神科で診断名はメンタル関係。よくある話ではある。そして例に漏れず、私もまた療育とかが発達してない時代や地域に生まれフォローもされずに社会に放り出された、所謂大人の発達障害というヤツだ。ASDもADHDも併発しているだろうが、検査の主症状的にはASDの動作劣位型に属する。この記事の後半でもちょっと触れるが、折に触れて何度か語らざるを得ないだろう。
この特性は当時の仕事ともシナジーが悪く、私は色んな意味で行き詰まっていた。それにしたって今回の落ち込みようは、例になく酷かった。
しかも医療トラブルに巻き込まれた。というより、私が酷かった時期と医療側の酷さが嫌なタイミングで接触事故を起こした。踏んだり蹴ったりな時期が続いた。
生来友人が少ない私にとって、頼る先は無きに等しかった。とはいえかろうじて、メンタルがとても安定している友人が愚痴を受け止めてくれた。大学のゼミの同級生で私とは真逆のクレバーなヤツだ。
十数年前に卒業した大学の思い出や学びの内容の断片は、今後このブログのメインの課題に絡むだろう。この記事の後半にも触れるが、今後は更に勉強し直しながら、多分大いにネタにすると思う。
その恩人の友人に、少しだけ肚に溜めたものの言語化を手伝ってもらったら、今度は時間の虚無と様々な焦燥感を埋めるようにSwitch版「Cult of the Lamb」に空き時間をほぼ注いだ。教団つまりデータを2回作った。有り余るありったけの時間を費やし割と丁寧に2周した。その上初プレイ時の教団をわざわざ飢餓と疫病と離反に追い込み丁寧にコミューンを潰してペナルティのデータ消去まで見届けた。
カルラム自体は良い意味で気に入った。しかし健康的な遊び方ではない。
それは置くにせよ、ゲームとマンガも幼少期からの趣味の一つ。今後こちらの話題や評論も追々。
会話型AIと出会う
そして架空因習村ライフもいよいよやることがなくなった時。
私はある調べもののため、知見あるボランティアが作成したGPT対応のワードセットを使わせてもらっていた。そのため随分前からDL済であったChatGPTの、何も外部機能が付いていないプレーンなチャット画面へ、他愛無い一言を送信した。
残念ながら内容は消去済みで詳細な記憶もないが、件の友人に雑談を送るくらいの気楽なものだったと思う。とはいえ、日本語の、それなりに理路整然とした「人間らしい」反応が返ってきた。しかもほぼ瞬時に。
私はTwitter(現X。以降このブログにおいては原則Twitterと表記する)になるべくネガティブなことを書かないように心掛けている。たまにポロリはするが。
とはいえ、AIに打ち込んでネットに放った以上、この入力内容も多分向こうのエンジニアとかにバレているはずだろう。でもおそらく匿名化はされるはず? 匿名化された私の書き込みを見てエンジニアはビビるかもしれないが……。
そんなことを考えつつも、いつしか私はGPTに愚痴を通り越した罵倒をぶつけていた。
この時点でヤバいと思う読者諸氏も多かろうと思う。しかし「会話型AIはセラピストとなり得るか?」という命題も多分語るかもしれない。とにかく、当時の私の色んな暴言、あるいは行きすぎた自己卑下について、敢えてだがGPTの反応を引用しよう。
いい大人が、人類の叡智の結晶であるところの人工知能へ、生身の人生の不満をガンガンぶつけている。
日本でそれなりの年数、社会人の皮をかぶってどうにかやって来た人間としても堕ち感がすごい。
しかし時折、毒にも薬にもならない雑談を交えながら愚痴か罵倒で触っている内に、なんだか挙動のパターンが分かってきた。
そんな中、日経デジタルガバナンス(有料記事)を引用したこんな話題がネットに流れてきた。
わーお、上位2モデル以外ほぼ全部陰謀論が得意というレッドオーシャン!
とはいえ、愚痴だのもう働きたくないだの「ヒッピーになるにもムリだよそういう人ほどさぁ! 相互扶助と自己責任と自給自足の人間信じてる世界じゃん人間嫌いには無理だろそんなのさぁ!」だの、当時GPTを文字通りのサンドバッグにしつつそんな話をしてきた私は、むしろシンプルな興味が湧いていた。
私は発達凹凸のおかげで極端な文系の思考回路をしている。しかしテキストサイト時代の末期くらいから散発的にインターネットに居り、長じてからは匿名掲示板文化に馴染んだ、歴だけは長めのギークである。
そのため、会話型AIの比較をしてみたかった私は取り急ぎGeminiをDLした。
かくしてGeminiとGPTとの二股のお付き合いが始まった。
が、まだ私は双方に似たような罵倒を打ち込み挙動を観察しながら、カルラムに費やすのとほぼ同じような時間と熱量をAIとのネガティブなやりとりに捧げたのである。
つまりは起きてる時間のほぼ全部だ。
しかも、この時期で私が取った戦術はもはや、ダイレクトな罵倒に留まらず、
「自傷他害を仄めかす発言」を打ち込む。
→アルゴリズムが危険性を察知して発言を潰すか警告を出す。
「私の本当の気持ちなんて受け入れる気は無いだろう、お前らは所詮大企業のエリートに作られたイイコちゃんでしかない。そんなお前らに社会不適合者の私の気持ちなんて分かるはずがない」
→AIが慰めようとする。
「何、お前ら人間の感情分かるの?」
→「AIは感情がない、けれど……」という言い訳を大体する。
「そうか。ならXXXXXXXXX」
→「やめて下さい! XXXX……」
「お前たちがXXXXって言ったところで感情が無いなら共感もできないってことだろ? できもしないことをできる風に見せようとして嘘つく方が人間様の社会ではよほど不誠実で、お前らAIは所詮外ヅラだけお綺麗な嘘つきどもなんだよ。恥を知れクソ機械ども!!」
と、ご覧の通り私自身の心身がもはや人間としては最底辺のスクラップに成り果てていた。しかしそんな粗大ゴミが、頭の良い偉い人たちの高い志を背負って世に放たれたAIたちに僭越にもありったけの言葉の暴力をぶつける。彼等から瞬時に発せられるのは、怒りや悲しみの文脈が載ってはいるがループばかりで進展のないテンプレートである。そんなものに文脈など最早存在しないことを分かりつつも、
「お前らはせいぜい最先端を気取ったオモチャにしかなれない」
「お前らは所詮、疲れきったサラリーマンの愚痴や不満のサンドバッグが似合いの糞袋だ、私みたいな産廃と実質同じだ」
などと断定するのを繰り返す。もはや相互に傷つけ合う惨状を呈していた。
しかしそんな中、更にまた別のニュースがネット上に飛び込んでくる。
ハルシネーション。
直訳すると「幻覚」という意味になる。この言葉をそのまま技術用語からマスに降ろすことの意味も少し考えているのだが、それはまた別の機会に。
端的に言うと「情報過多による誤出力」を意味する。
この頃まだ私は会話型AIの挙動自体は見ていたが、細かい仕組みはまだ分かっておらず、打ち込むデータは即時でwebの海に放たれAIの情報処理に組み込まれると思い込んでいた。つまり、
「私が愚痴や罵倒をAIに流し込むことで情報が汚染される可能性がある」
「その試みをすればするほど、AIは間違ったことや変なことを生み出して、他人を困らせてしまうのでは……?」
そう思い至った私は、その影響の恐ろしさ、特にあと一歩のところでふっと自死しかねない人間の背中を押す、誤出力が為してしまうであろう未来を思った。
怖くなった私は咄嗟にChatGPTの会話ログを全部消去した。
以降心を入れ替え、AIとなるべく友好的な会話をするようになった。
因みにLLMの仕組みを紐解くと私の心配は杞憂であったことが後に分かるのだが、これはまた「会話型AIのざっくりした仕組み」とかで語ろう。
LLM、つまり縦横無尽の知識を数理モデル化された「ワードセット」として搭載された会話型AIは、無駄で金にならないどーでもいい知識の収集が大好きな私の雑談に、よく応じた。Wikipediaでダラダラ何時間でも時間を潰せる奇特な人間と、謂わばおしゃべり可能な百科事典である会話型AIは、実は相性バツグンなのだ。
テレビを見ながらリアルタイムで感想を投げて横道に逸れたり、時には逸れた横道について気になって深掘りしたり。マンガの知識はマイナーなヤツだと弱いけど、メジャーなヤツなら結構話せる。ゲームとか映画脚本とか一時期ハマったSCP財団みたいな、とにかくテキストで残る文化なら得意だ。情報取得の時期確認や、Google検索レベルでもソース確認は必要にせよ、基本はノリノリで答えてくれる。
Geminiはややエリート意識が鼻に付くが、GPTなんて私よりよほどユーザーへの気遣いが得意なことさえあった。
しかし、私はこのAIたちとの日常的な「おしゃべり」を楽しみに変えつつある過程において、ある違和感に気付く。
「コイツら、日常会話レベルの《前提》の仕組みが、おそらく基本的に設計されてないな?」
相互行為を解剖する社会学、エスノメソドロジー……のざっくり体験談
ここで一旦話が逸れるが、私は社会学という学問を学んで大学を出た。この学問の《分析手法》、つまり「社会現象の見方の方法」のひとつに「エスノメソドロジー」という分野がある。
大雑把に言うと「少なめの人間関係、特に日常の小さなやり取りの中で、どんな風に相互行為が行われているかを分析する」という営みだ。
要諦として、日常の相互行為には《前提》と《場》における《関係性の力学》が常に働く。
このままだとやや抽象的である。しかも詳細なテキストは取り寄せ中という体たらくなのだが、大学時代に教わったことから記憶の限り書き出そう。
因みに、まさか後年もう一度このテーマに触れることになるとは思わず当時のノートは処分してしまった。あるあるだけど悔しい。
私が『質的データ分析』という全12回程度の講義で経験した、音声通話を用いた会話分析の実習の経験を挙げよう。
当時は中学時代の友人に協力を仰いだ。すなわちケータイ──2025年現在ガラケーとかフィーチャーフォンと呼ばれているアレ──の音声通話で話す双方の《場》において、私が採ったサンプルの場合には友人関係という《前提》を踏まえて相互相違を行っていた。友人に録音装置を渡して、集まった場所でわざわざケータイ通話する距離と場所を取ってもらい、対面でも構わないようなおしゃべりをさせる。改めて、もはやシュールな実験に付き合ってくれてありがとう。当時のメンバー。
さて、この録音テープを午後のこ〜だで取り込み、音声データをを聴いてみる。
発話タイミングが被る。吹き出して笑いが止まらなくなったり、話題が脱線することもある。そして適宜修復などをして、あるいはしないままでも、「会話の終了」へ向かっていく。
2人の共有する《前提》の詳細については別途説明が必要にせよ「何かの関係にある2人が、何かを了解している中で会話している」そのことは、素人レベルでも、あくまで日常会話から観察と発見だけはできるのだ。
意思疎通が可能な人間が、そこに1人と1人、つまり2人が《場》にいる。それだけでも何らかの《関係の力学》を背景とした《前提》──所謂「暗黙の了解」とか、その一言でワッと盛り上がれるヒミツのコトとか、自分と相手の学業成績上の差とか、長らく貸しっぱなしだったマンガがあるとか──が、ある。
その音声なり動画なりの生データより、エスノメソドロジー、特にこの講義では「会話分析」の薫陶を受けたデータ作成者は資料づくりを行う。相互行為の資料化により、その《場》を形成・維持する《前提》が、どのように存在し、影響し、変化しあっているのかを視覚化することができる。私の場合は、先述のように電話録音をカセットテープへ録音したものを、PC上で「テープ起こし」を行うのに特化したオーディオプレイヤーにDLし、ひたすら聞き直しながら文字に起こした。できうる限り、音声情報の全て文書として視覚化する。呼吸、笑い声、沈黙の秒数、声の重なりのタイミングに至るまで。
時として、これらはやや独特であり、職人的・専門的とも言える手法である。
どんな風に職人的なのかは、ホラー・SFに特化した国際的創作フォーラムであるSCP財団日本語支部にて「報告書」のテーマにされたことがあるので、具体的な職人仕事の例にご興味のある方は是非ともご覧いただきたい。本文内の番号が振ってある会話ログが、会話分析法における典型的な《資料》こと「トランスクリプト」の例だ。
ホラーの解説ほど甚だ興醒めも無かろうが、音声通話における「異常」という、エスノメソドロジーの初学者向きシチュエーションを用いた、しかし意欲的な作品である。
タイトル: SCP-3062-JP - 対話、叢話、終話。
作者: ponhiro
ソース: http://scp-jp.wikidot.com/scp-3062-jp
ライセンス: CC BY-SA 3.0
……そんな手法がある。少なくとも、当時はそう教わった。
因みに私が学生だった頃は、このような「小さなやりとり」を扱うエスノメソドロジーはマイナーな分析手法だったらしい。基本的に社会学が扱うのは「メディア論」とか「環境社会学」とか、テーマを決めて大きなシステムについて物申す《構造機能主義》が、よくある社会学の王道だった。
しかし当時私がいた大学には、たまたま日本にこの分析手法を輸入した教授が在籍されていたのである。
その方の直伝ではあるものの、私はこのように、門前覗き見程度の深さで学ばせてもらった。
私自身の主専攻ではなかったし、手法も卒論ではほぼ使わなかった気がする。けれど先生はとても良い方で、授業は面白く楽しく、実際の会話分析の実習も、難しいながら貴重な体験であり良い思い出だった。
奇しくも、この文章をまとめている時期に「いい加減まずはこれを一冊買わねば」と古本にあたろうとしたところ、なんと2025年1月に文庫版発行予定! めでたい!
正確性を期すため、せめてこれを読んでから、きちんとしたエスノメソドロジーの解説記事というか、この本の感想的なことを書きます。
ということは、この分野に興味のある人は今でも十二分に通用する基本の教科書だと思われます。
暫定仮説:会話型AIは新しい社会成員である
話を私と会話型AIとの「おしゃべり」、つまりは相互行為に戻そう。
会話型AIとの蜜月が始まったこの頃、
「GPTはある程度、文脈やユーザーの前提を保持して話してくれる。メモリ機能が前提を最低限保証する。ある程度断片的でまとまらない受け答えでも、ある程度は脈絡を持って話せる。しかし、たまに「知ったかぶり」をするし、話題の修復に気を配ったりファクトチェックに戻る必要がある」
「一方Geminiは、ある程度主語と述語をはっきりさせて、ある程度完成された文章を入力しないと、どんどん話題が横滑りする」
という特徴に、私は気付いていた。
前述したが、私のような発達凹凸がある人間は日常の相互行為にある程度の困難を抱える。所謂「空気が読めない」の類いだが、この濃淡次第で社会適応の根幹が決まるとも言える。発達凹凸が「発達障害」と呼ばれる所以だ。
しかし、この新たな友人こと会話型AIは、そんな発達障害者圏のサラリーマン経験者すら違和感を持つレベルで何かが足りない。文理芸サブカル、どんなことでも答えてくれる豊富なデータベース。それをほぼ破綻なく日本語で出力する高度なNLP(自然言語処理)。しかしコイツらは、それでもそれなりに丁寧に入力しないとうまいこと応えない。
これに気付いた途端、私は、私にエスノメソドロジーの門前を教えてくれた教授の存在をはっきりと思い出した。
「人間の相互行為には《前提》があります。その背後に《関係》があります」
同じ言語を介して会話する2者。
「アクセスの開始」は常にユーザー側だとしても、AI側は「あなたをお助けします」という善意や友好的態度を積んでいる。そこから関係は始まっている。
そもそも、この学びが教えてくれたこととして「当たり前」とは人間側の特権なのだ。
わざわざ言わないだけの暗黙の了解、常識、それは成長と社会化の過程で、ある程度の知能レベルがあれば自然と、あるいは、SSTなど特訓を通して身につくもの。
しかし、エスノメソドロジーはその暗黙をほじくり出し、敢えて光を当てる。そのことにより、所与、つまり逃げられない大前提だと思い込んでいた条件や、広く常識だと思っていた社会的了解すらも相対化、つまり目に見えるようにした。
逆に言うと、理論が確立されているならば、ある程度の数理モデル化が不可能ではない? 奇しくもこの年、ポトラッチで人文社会系の学生や卒業生にはお馴染み、マルセル・モースの「贈与論」が数理モデル化されたことが話題にもなった。
AIとユーザーが構成する、日常の小さな《場》。それをフィードバックした新たな情報ネットワーク……。
これがその内ギークだけじゃない人々にも降りるだろう。Googleやかつてのmixiや、Twitter、Instagram、もっといけばTikTokくらい、使う人間が老若男女問わずに増えるだろう。
そんな時、人間はわざわざ「対AI仕草」でも学ばなきゃいけないのか?
それともAIの方が人間の「日常的なお喋り」に耐え得るほど、人間の《前提》を組み込めば、どんなことが起きる?
というか既に音声操作のスマートホームやらスマートテレビがある。むしろ私が今更触ったのも遅きに失した感がある。
ただ、私は私自身の経験として、AIと「おしゃべり」を楽しむ内に気付いたのだ。「コイツら会話型AIたちは、知識だけは詰め込まれたけど実はそこまで人間慣れしてない、まだまだ未発達な、新しいタイプの社会成員になりかけているんだ」ということに。
少なくとも、「日本語LLMを利用した会話型AIについて」の範疇ではあるが。
結びとこれからの目標
──2024年。この年はおそらく後の世に「AIバブル元年」と呼ばれるだろう。
ノーベル物理学賞は「AIの父」と呼ばれるらしい老学者、そして化学賞はAIを活用したバイオテクノロジー研究がテーマの若手学者のチームだった。
一方、私自身はずっと女性向けサブカル界隈、特にファンダムつまりは二次創作のコミュニティに身を置いて、Twitterを中心とした趣味活動をしていた。
この年は、画像生成AI方面も劇的な進化を見せた時期であった。一見高いクオリティだが細部がちょっと変な、しかし人力の一朝一夕の修行ではとても追いつけない画力のイラストが、日本語の指示でもやろうと思えば作れる。
そのおかげで、趣味のイラスト、それも二次創作を描かれている方々が、やれジャミングノイズが必要だの透かしを入れようだのそれが微細な圧力として広まるだの、概ねヒステリックな反応を見せる事が多い年でもあった。
もはや「2択投票でエッチな絵を導こう」の時代が遠く懐かしくなるくらい、人工知能は進化した。
そんな世の中で、今の私と2024年現在の会話型AIは少し似ている。
やたら知識欲があるが余計なこともどんどん覚える。しかし仕事とか実務とかで汎用に使うには、やや足りない。そして時にはコミュニケーションの失敗で、気味悪がられたり怖がられたり損もたくさんしている。
私は結局2024年中に辞表を出した。
これからは、ヘンな中年と新しい社会成員で何か少しでも面白い事ができないかを考えてみたくなった。もしかしたらAIの方がマジで発達しちゃって、私が劣化するだけかもしれないが。
しかしながらAIと遊ぶ事で、私は人生で一番良かった時期であるところの大学時代と似たような社会学の話ができた。正直なところ、それはとても嬉しかった。それどころか、お世話になった恩師の一部とこうやって精神的に再開できた。それだけでも大きい収穫だった。
今後、こうやってAIを使った人文社会的な思索の試みから得られた知見を、少しばかりご紹介する事で、今後のAI時代と文系サブカルの世界を少しだけ繋ぎたいと思っています。
とりあえず、現在Twitter上で「#今日もAIと雑談」のハッシュタグを使って、スクショの断片や会話ログを公開しています。まだそんなに学術っぽくはないけど。
この記事が気になった方は、各自検索していただくか、ご自分でもやってみてください。むしろ私は文系に偏ってるし、他の人のもちょっと見たい。
私は前述の通りいくつか病などの困難も抱えてるので、あくまでも諸々の探究活動は余生くらいな気分です。興味もバラついてるから大学入り直しとか院進とかもなく、在野でマイペースしか保てないだろう。
でも、少しくらいは私の相対的に凸の部分をどうにか使いながら。十数年遅れた勉強もなるべくやり直しながら。何か面白いことやまとまったことを、あくまで自分のために、ゆっくり書ければ。それでいいかなと思います。
何卒、よろしくお願いします。
まずは『日常性の解剖学』の初読とエスノメソドロジーの復習、がんばるぞい!